社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

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2017年04月25日

比べる自分から比べない自分へ

若いときは何でもかんでもナンバーワンがいいと思うのがしごく当然だ。
でも、どのジャンルにも天才的な奴がいて負けてしまう。

誰かに負けたとき発憤もして努力もするが、
同時にすごく自己嫌悪に落ち自分が嫌になる。
自分の中に努力する自分と怠惰な自分がせめぎ合う。
相対的に自己を発見すると同時に自分の環境の外側も善と悪に分けて分別智ができる。

その真っ只中の思春期に亀井勝一郎の「愛の無常について」を読んだ。
50年前の事で、当時は科学万能主義や理性を磨く事が一番だと考えられ、
相対的な合理的思考、唯物弁証法が万能と考えられていた。

私はどうも機械的で排他的な理性の側面が気になってなじめなかった。
「愛」って何かを知りたかったからこの本を手にした覚えがある。
「無常」とは仏教用語で「常がない」、「変化する」という事だ。

亀井勝一郎は親鸞の浄土真宗で言う「他力本願」を理想としてこの本を書く決心をし、
最終章では、すべて照らし生かされて生きる変化をさせてくれるのが「阿弥陀仏」と書いている。

理性ですべてを解き明かそうと考えるのが哲学だ。
宗教は理性を超えた身体ごとすべてをぶつけ理解でなく、
直観するといった方がいいかもしれない学びだ。

弘法大師は洞窟の中で一心不乱に修行していたら、
仏が向こうから飛び込んできたのか、仏へ自分が飛び込んでいったのか解らない快感を得るのである。
之を状況を仏教の言葉では「入我我入」と表現する。

さて、真に自分になるには相対的な自己を通り抜け心の奥にある、
(潜在意識の奥の奥)
真の自分にぶち当たらないと絶対的な自分と出会えない。
それにはとことん追求する姿勢がいることは間違いない。

誰とも比べない自分を発見すれば、それでお仕舞いではない。
禅の無門関の中に「百尺竿頭進一歩」という言葉がある。
(修行によってどんなに高いことを得ても、そこで止るなよ、さらに一歩歩む不借身命の気概で)之からが本当に自分の人生が歩み出せる喜びが得られるのである。

亀井勝一郎はこの本の中で言ってるのは、
思春期に理性で自分の精神を考え出すときに絶望が生まれ、
絶望こそは「生まれた」人間が精神を作り「生まれ変わる」陣痛のようなものだというのだ。
世代交代をするが精神がなく現実しかない動物と無邪気な子供には絶望がないと言い切る。

皆さんは絶望された体験ありますか?

2017年04月24日

悪人なおもて往生す

歎異抄にかかれた悪人正機説だ。
(阿弥陀仏の本願(他力本願)は悪人こそ主正の機根がある)
当時の時代背景はほんとにすさんだ社会背景であり、
この世で自分が救われないような時代に「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救われると諭す。
しかし、日常生活も他人の事も考え善行に励み「南無阿弥陀仏」を唱える善良な信者にとって、世の中で悪人といわれる人を傷つけ、
社会の掟を守らないような人も往生できるのはおかしいと思うのが普通だ。

ところが善人、悪人と人間が勝手に決めているだけで、
光はどんな人もあまねく平等に照らされてるように、
悪人、善人を隔てないのは「阿弥陀仏」だというのである。

孫悟空の話では悟空がいろいろ智慧を働かせ妖怪退治をやるストーリーだが、
実は阿弥陀さんの手のひらでの出来事だったと結ばれている。
(現代に生きる人間も同じ)

将に人間世界の話しで、仏の世界では一切が平等なのである。
之は単に仏教の世界だけではありません。

キリスト教の世界でも同じような説法がある。

あるとき売春婦が善良だと思ってる市民に石を投げられていた。
そこを通りかかったキリストが、
「自分の中を顧みて神に対して恥じない人がいたならば、
この女に石を打てばよい」

そうすると一人、一人とその場を去り石を投げる人がいなくなった。

また「マタイ・5・45」には、
「天の父はその日を悪しき者の上にも、善き者の上にも昇らせ、
雨を正しきものにも、正しからざる者にも降らせ給うなり」

この言葉は悪人正気説と同じ意味を持つのだ。
仏教では「慈悲」といい悲しみを取り恵みを与える利他行することである。
キリスト教では「愛」(アガペー与える愛)というのである。

求める愛(エロス)から与える愛(アガペー)へとキリスト教では諭す。
与える愛は自己犠牲を伴うというのである。
仏教では自己犠牲でなく自我を捨てるというのであるが意味するところは同じだ。

皆さんは悪人と善人、自分の中にないですか?

2017年04月17日

当たり前に感謝する

2月に伊勢神宮に行く機会があった。
もちろん石津川で清めて、社殿に歩き出した。
平日だというのに岐阜からの団体客や海外の人たちでいっぱいであった。

とても清清しい気分になり、参拝を終え、おかげ横丁で赤福もちを食べたのである。
純粋に神を信じて祈る。純粋な祈りとは自分の幸せを一番に祈るのでなく、
宮沢賢治のように「みんなの幸せが実現しなければ私の幸せはない」という祈りだ。

そんな祈り方を心からできる人はいるのだろうか?
それがほんとに天に届き奇跡を起こすことができるのかは信じる以外ない。

そんなことを考えて、二拝二拍手一拝の参拝を済ませた。
自分がちっぽけな小市民的な祈りと願いの持ち主である事に気付かされた。
宮沢賢治のように自分以外の人の幸せを100%願い祈る魂を授かりたい思った。

さて、世界三代幸福論のアランは私たちの心の持ち方を指し示してくれているので紹介する。
1.「楽観主義は誓いを必要とする。
悲しくなるような考えは、すべて間違った考えである」
100%悲観するな100%楽観主義でいる覚悟だ。

2.「必然的に起こることをあらがっても無駄だ。
また自分に最初から備わっているものをいくら否定しても仕方がない。
何もかも自分の意のままになるわけではない。
必然性を認め、そのまま受け入れなければならない。
それができたとき、初めて対処の仕方も浮かぶというものだ。
そして、道理の通り生きられる。
それは道理に反発して生きるよりもずっと容易だし、
らくちんなものだ。
現実絶対肯定100%受け入れる事から知恵が生まれるのだ。
普通は好きだ嫌いだ、損だ得だと迷い悩み、本能心に影響される。

3.「心からの希望には、ものごとの流れを変える力がある。」
「すべてに感謝、すべてに希望なら、理由が生まれる。予兆から成功が生まれる。」
現実絶対積極で明るく、前向きな心の姿勢は中村天風流の教えと同じだ。
すべてに感謝とは「息する事」「手が動くこと」「眼が明いて見れること」
「食事がおいしい事」「腰が曲がる事」「人と話せること。(良い話も悪い話も)」
「笑顔で笑える事」「旅で新しい体験する事」
このすべてだ。

「すべてに感謝すると腹が立たなくなった」と友人が言う。
私はまだまだ修行が足らないと自覚する次第だ。

皆さんは当たり前に感謝されていますか?

2017年04月14日

向上心が人間の人格を創る

平凡な生活をしている中にも、何か少しより良くしたいと思う自分がいる。
どんなひとにもある向上心に違いない。

動物と人間の違いを、
「動物は世代の交代しかなく、人間は歴史を創る」

どこが違うのか?
今道友信さんは、
「それは単に、幸福や健康や才能や富みや快楽や権威や名誉が一切そなわった人物がいても、もしその人が、真、善、美の追求を捨て去るならば、その時点から獣に落ちてしまうというのである。」

動物には本能にそなわった自然的真(正確で誤りのない信号伝達)、
自然的善(母親が子に対して示す情愛や養育のための犠牲的行動)
自然的美(走行する姿態の見事さや羽毛などの色彩)
ところが人間はこの自然的なものを超えてよりよく磨き上げて作り出されて、
内的な喜びや真、善、美の理念的自覚が認められ文化活動をするのである。

動物にはこの文化活動を意図することはない。

今道さんは「真」は存在の意味、「善」は存在の機能、「美」は存在の恵みないし愛であり、
美は「人間の希望」だと語る。

仏教的な六波羅蜜に当てはめると、
三毒      
1.智慧精進=真(愚痴)=学者
2.自戒禅定=美(瞋恚)=武人、職人
3.布施忍辱=善(貪欲)=商人
真実追求する学者さんは愚痴が多い、
美を追求する軍人や職人さんは憎しみを持っている。
善を追求する商人はお金の亡者となり貪欲に成る。

この向上心が自分のだけのものでは真に「真善美」を実現する文化活動にはならない、
自分を超えて、世のため人のためという大儀と志というベクトルを描く事で自己実現されるのである。

具体的な幸福や健康、才、富み、快楽、権威、名誉の一切は大きな志なくば、
人物の品格にはならなく、単なるねたみや嫉みをかうだけの人物となるのである。

健全な向上心は人間の文化活動であり、人格を創る原因であるに違いない。

皆さんは向上心を具体的にどう使っていますか?

2017年04月06日

道心と人心

1772年の「歌謡集」に、
「鮎は瀬にすむ(つく)
鳥は木にとまる
人は情けの下にすむ」

現実の世の中の姿である。
現実そのものを丸ごと(100%)肯定した素直な見方を如実知見と仏教では言う。
人心とは欲望に突き動かされるこことのことだ。
道心とは万物の根源に従う心だ。

人間は衣食住を得るために行動する。
自分が必要なものを得てももっと欲しくなる。
之を貪欲というのだ。

仏教では「三毒」と言って、貪欲、瞋恚(しんに)=にくしみ、愚痴だ。
この三つを少なくすることで迷いや悩みがなくなるというのだ。
そのために他人を利する行動をすればこの三つはへこむというのだ。

「衣食の中に道心なし 道心の中に衣食あり」という言葉がある。
道心とは「徳」を身につけることでもある。
「徳」とは良識、良心の事だ。

言い換えると人心のものさしは十人十色みんな違う。
ところが、道心のものさしは宇宙の法則に寄り添い生きることだ。
宇宙の法則を二つ記すことにする。

1.「万物平衡の理」公平で長波の方向に働く法則
この世は両方によいことはない、易経で言う陰陽循環しているのである。
「満つれば欠くる世の習い」

2.「身心相即」身心は一如になってるから、
身心が不均衡になると苦悩を生むのである。
身体が悪くても心は病む、心が病んでも身体がおかしくなる。
しかし達人は「心頭滅却すれば火も自ずと凉し」というのだ。

さて、古来中国の先哲の処世術を紹介する。

孔子は正攻法で「義を見て為さざるは勇なきなり」
老子は正義ぶらないし争わない構えで「あえて主とならず客となる」
荘子は超然として宇宙の法則に従うと「我を牛といえば牛といわん」
と表現したのである。

心が人を見ていると私利私欲でいっぱいになるが、
心が道を見つめていたら利他行が自然と行えるのである。

皆さんは心の方向どちらを向いていますか?