社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

2012年05月15日

落語と笑い

僧には「学僧」と「唱導僧」がある。
「唱導僧」というのは半僧半俗の身分で、
抑揚をつけて手振り身振りで仏教の説話を語る僧のことを言う。
この元祖は安居院流の澄憲〔から203年没〕聖覚〔1167から1235年没〕親子で、
浄瑠璃に影響した唱導の三井寺派、定内の二派がある。

イメージすると琵琶法師が語る「平家物語」のようなものだ。
現代伝わる「能」「狂言」「歌舞伎」「文楽」「講談」「落語」も起源は唱導僧の技から発展したものだ。
世阿弥はこの芸術の奥義を「一座建立」と表現して、舞う人と観る人が一体となる。
言い換えると受け念仏を唱え大衆が一緒になって気分が高揚し乗ってくる。
そして一体化することだ。
現代でも芸人は「うけた」「うけない」と自分の芸の評価をする。

宗教が落語と言う文化を生み出し、笑いに消化できるのは日本仏教だけだろう。
私も昔から落語が好きだ。
語り口調のリズム感や抑揚が心地よく、
「柳亭痴楽いい男、映画俳優で言うならば長谷川和夫か錦之助・・・・・・」と、
七語調のリズム感のいい話しっぷりを真似た。

また、「壽限無」という落語は、子供が生まれてお七日夜に名前をつけるという事で、
お寺の坊さんに相談に行き、お経の中からつけてもらうのだが、
実に長い名前になるという間の抜けた話しだ。
これも仏教の説教がはいってる笑える話だ。

私たちは意識するしないに関わらず仏教的風土で育っていることはまちがいない。

話しは変わるが、中途採用の女性営業の面接をした。
彼女はNPO活動に参加し、バングラデシュに家を建てるボランティアをした話をしてくれた。
バングラデシュで同じ部屋で一緒に活動した人のことを一心同体のように感じたという。
病気すれば気になって眠れない、病院にいけば、つたない英語で一生懸命話す。

電車に乗ると地元の人とも二週間もすれば笑顔で挨拶できるし、
笑う事がとても多かったという。〔異文化の地で開放的になっていたのもある〕
日本にいるときのような便利さはなく、
基本的な水が出ない、昼から電気が止まるという不自由がある。
そこで何とか、一歩でも自分で解決して行こうとする。
成功したら笑い、失敗したら笑うのだ。

ところが日本に帰ってきたら、笑う事が少なく、他人との距離感があり、
親しく踏み込んで話せない状況を感じた。〔なんでも人を頼らなくてもお金さえ出せばある状況〕
しかし数週間したら人間はその状況になれ笑わなくてもも暮らせるように適応する。

貧しいく、電気も停電したりするし、食べ物の衛生状態も悪いが、
バングラデシュには人間がつながってるという感じがし、
生きる力が湧いて来て生きてる実感があるという。

「衣食足りて礼節を知る」と言う言葉があるが、
彼女の話を聞いていて「衣食足りて絆を閉ざす」となってるように感じる。
豊かさとはモノと心が一体となって連動してこそ幸せを感じるのではないのか?

みなさんは毎日笑ってますか?

2012年05月11日

人生・仕事の結果

京セラの稲盛和夫さんは「考え方×熱意×能力」=人生仕事の結果。
こんな方程式をよく話し説いてくださる。

人生や仕事の結果は、考え方と熱意と能力の三つの要素で決まる。
このうち能力と熱意は、それぞれ0点から100点まであり、
これが積で掛けるので、能力を鼻にかけ努力を怠った人よりは、
自分には普通な能力しかないと思って誰よりも熱意を持って努力した人のほうが、
はるかにすばらしい結果を残すことができます。さらに、これに考え方が掛かります。
考え方とは生きる姿勢であり、マイナス100点からプラス100点まであります。
考え方次第で人生や仕事の結果は180度変わってくるのです。
ですから能力や熱意も大切ですが、
人間として正しい考え方を持つことが何にも増して大切な事になるのです。

考え方とは〔良い心〕をもつこと。

プラスの考え方(良い心);前向き・肯定的・協調的・明るい・善意・思いやり・優しさ・真面目
             正直・謙虚・建設的・利他的・足るを知る・感謝の心・努力

マイナスの考え〔悪い心〕;後ろ向き・否定的・非協調的・暗い・悪意・意地悪・他人を陥れる
             不真面目・傲慢・怠け者・利己的・強欲・嫉妬・不平不満

掛け算だからプラスの考えにならないと結局みんなマイナスになり自分が苦しく辛くなる。
なぜプラスの考えになれないか考えると「人間とは」という規定を間違えるからだ。

人間とは;
成功して当たり前と考えるか?
失敗して当たり前と考えるか?
プラス発想とマイナス発想に分かれる。

マイナス発想する人は自分は出来る賢いと位置づけ成功して当たり前と完璧を求め、
行動して失敗することが許せず、少しでも失敗したら自分を責めるから、
他人にも厳しく叱責し対立的態度となり寛容さがなく人間関係が構築できなくなる。

実に真面目な人だが、失敗が許せないから大胆な夢やビジョンも持てなくなり、
未来を語れない狭量な人間となる。

逆に愚禿親鸞や大愚良寛といわれるように自分の愚かさから出発し、
失敗して当たり前、だからコツコツ努力して積み重ねて、
自分にとっていい事も悪い事も100%受け入れ体当たりで良くしようと自分を生きる人だ。
〔随所に主なればいたるところ真〕禅の言葉。
簡単に現代語で言うと「ピンチをチャンス」に変えれる人のことだ。
このように考える人は必然的にプラスの考え方が出来るし、
周りの人まで幸せにする感化力を持ってる。

人間は自分の五感をフルに使って体験してこそ味わいある人生であり仕事ができる。
ところが、頭でだけ考えて実際行動しないで、
解ったつもりになるのを虚無といいい一人苦しんで空回りする。

現代は自分が傷ついたり、失敗を恐れるあまり、神経質になる人が蔓延してるように感じる。
今こそプラスの考えで人生・仕事の結果を出す行動力を誰にも負けない努力で実行するときだ。

みなさんは出来てますねプラスの考え方?

2012年05月10日

不安は安心の原因〔因果の法則〕

「不安また良し」とは松下幸之助さんの言葉だ。
経営の神様はコインの裏表のように、裏〔マイナス〕の言葉を自分の中に取り込んで、
見事に逆の表〔プラス〕の言葉に返す融通無碍の人である。

私も昔から「石橋を叩いて渡らない男」といわれてきた小心者だ。
石材事業を始めたころは、いつか売れなくなるんではないかと不安になり、
石材の工業出荷高や貿易の輸出入高を調べ、
さらに火葬場の数や病院の数、死亡者数と月次の統計も調べた。

そこでわかったことは社会で生活するということは、
社会のハードウェアの処理能力の範囲内で調整されることに気づいた。

だから死は偶然でなく、社会的制約により毎月よく似た人数でなくなるのだと
わかったのである。
ここで「不安」は「安心」になったが、
また次に「不安」としてどうして必要な人に伝えるかが課題になった。

こんな風に「不安」は「安心」の原因であるから、
「不安」を100%受け入れ、その「不安」に負けず立ち向かいそれを克服するため、
自分と向き合うことが、新しい境地が開けていくのである。

ここで大事なのは、自分に「嘘」つかない、「素直」に事実を受け入れる勇気だ。
すべてはここを誤魔化しては「不安」は「不安」のままに先送りされるだけだ。

私は神経質なほうかもしれないが「危機」「不安」は感じるほうだ。
たぶん自意識が強く気が小さいからに違いない。
世間には逆に泰然として動じない人もいるが、無頓着で「危機」をわかっていないのは、
「盲ヘビに怖じず」でいつか事故を起こす人だ。

本物は「危機」を感じ「不安」を持ってはいるが泰然として覚悟が出来て有意注意して
行動する人だ。
一方私の若いころは神経質すぎて「不安」に押しつぶされ負けてしまう〔取り越し苦労〕と、
何にも行動できなくなる。
(自分の頭で妄想して「山よりでっかい獅子」を作り出して恐れ、身動き出来なくなるのだ。)

この原稿を書き終え、車に乗って走り出して事故を起こし死ぬかもしれないが、
自分にはわからないが現実起りうる可能性はある。

一寸先は誰にもわかりません。

二、三日前の茨城県で起こった竜巻で家の中に居た、15、6歳の男の子が
亡くなったことからも想像できるだろう。
〔本人は竜巻で死ぬとは考えてなかった〕

だから心の準備なく「危機」「不安」は起こる、
起ったとき全力で智慧と行動で対応するしか方法はない。
何にも起っていない「今」を真剣に生きるしか生きようがないと覚悟することが大事だ。

会社が続けられたのも、この「不安」「動揺」と向き合ってきたからだし、
向き合うことで自分を成長させられたように思う。

世の中には「安心」な事や場所はない、
「安心」は事実に真正面から向き合って、行動する中に生まれ出来ていくものである。

みなさんは「安心」外に求めますか?自分で創りますか?

2012年05月08日

利について

「利の元は義なり」といわれるように、
義を通すことが大事であるというのが儒教の教えだ。

江戸時代は「武士は食わねど高楊枝」といってお金は商人という身分の低い人間が扱うもの、
卑しいものとされていた。
京都では石田梅岩が「石門心学」を唱え、商人の利益は武士の録に同じだと教え、
物資のないところへあるところから運び流通させる大事な仕事だと訴えた。

また大阪では商人5人が集まって中ノ島に懐徳堂を開き、
武士の教養を身につけようと四書五経を学んだ。

論語の子罕(しかん)第九に、
「子 罕〔まれ〕に利を言うとき、命と与〔とも〕に、仁と与〔とも〕にす。」
意味=孔子先生がまれに利について語られる時は、
天命や使命とともなら良いという条件と仁愛〔思いやり)言い換えると利他行の結果なら良いということだ。

そのために四絶といって四つを絶つことだと、このくだりの後に書いている。

「子、四つを絶つ。意なる毋れ(なかれ)、必なる毋れ,固なる毋れ、我なる毋れ、と。」
意味=己の意ばかりになるな、決めたことにこだわるな、執着するな、利己的になるな、と」

日本はタテ社会を重んじ、先祖を敬う文化を創ってきたが、
情報化社会はタテ文化をヨコ文化に加速度的に変化を余儀なくしてるのが事実だ。

若者は上下の関係がこわれ、ヨコ文化で育ち敬語や丁寧語の使い方だけでなく、
人間関係の距離感がわからなくなって居る。

経済の右肩下がりの20年間に夢や希望をもてなく、
成功者にあこがれるより引き摺り下ろしたい願望が勝ち、
権力者を尊敬する気持ちより、自己利益のために権力乱用してると考える傾向がある。

民主主義とは国民は国に何を言ってもいい、
国には貰う物はみんな貰い払うもんは払いたくないと、
依存していては国がつぶれるのではないだろうか?

国や公を語る時には私意で語れば利害関係の戦いになることは必定だ。
だからこそ国民として、四絶を心がけ国家天下の方向を考えたいものだ。

欧米のように自分の利益の分捕りあいのような議論もあるかもしれないが、
孔子先生が言われるように、天命に基づいたり使命とともにあり、
公共心〔公共の利益〕からの発言なり行動が取れる大人に成長する必要を感じる。

日本人は日頃、村社会で掟を守ってきて不自由だったため「旅の恥はかき捨て」といって、
一時的に誰も知らない旅先では開放的になる文化であったが、
昨今は電車の中で化粧はするのは当たり前で自分の利益が一次的でなく、
どこででも自分中心の言動を「恥」と思わない人間が増えた。

社会より個人が優先する社会になっているにもかかわらず、
社会を何とか理想的にと考え政治家は議論してる。
何かもともこも無くなってしまうような危機感を感じるのは私だけだろうか?

みなさんは公共の利と自分の利どちらが先ですか?

2012年05月06日

努力について

道元禅師が如浄禅師にあわれ、「なぜ修行が必要ですか?」と質問されて、
如浄禅師は「衆生は三日坊主で続かない」こう答えられ、
「なるほど」と気づかれた。

そう、努力することは人間が人間になる方法なんだ。
動物のままでいい、本能のままでいいなら、努力は要らない。
また努力は続けるところに価値を産む性質がある。
だから、あせらなくても良い、毎日少しづつ習慣にすることだ。

歯磨きと同じで習慣化すると苦痛はなくなる。
当たり前になるからだ。

ところが二十歳代の若いころはとにかく結果が早くほしいから、
三日坊主になってしまう。

十日、二十日と辛抱強くコツコツ行動してると、
いらいらしてこんな事していて結果でるのかと迷い出したり、
他に方法があり間違ってないかと自信がなくなったりする。

その行動が利他心で他人のためになる計画ならば必ず成果はでる。
自分の利己心のための行動していたら、妨害がはいるかもしれない。

世の中は向こう三軒両隣の人で出来てるからだ。
道元禅師のように修行が習慣化されると仕事することも生きることも難しくないようになる。

だから悩みがなくなったわけではないが、
だんだん解決する智慧の出方や判断が早くなるから長く生きることは楽しい。
決して出家を勧めてるのではありませんし、仙人になる意志もありません。
ただ、自分にふりかかる問題を解決し、幸福創造、三方良しを実現したいからだ。

道元禅師は「修証一等」とおっしゃられてるように、
「修」も「証」も同じなんだと教授される。

一日修行したら、さらに一日積み重ねスタートすればいいだけだ。
一年先まで心配御無用、一日が出来たら、きっと未来も出来ること間違いなしだ。
もし万が一出来なかったら、また一日からやればいいだけだ。
努力することを大げさに考えすぎないことだ。
野に咲く花が一生懸命太陽に向かって伸びようとしてるのと同じことだ。

みなさんは、努力が習慣になってますよね!