社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

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2017年09月24日

自利利他の行いこそ楽しい毎日が送れる

「和気藹々と仲の良い環境ができる」と自分のいる場が楽しくなる。
考えようによっては自分のことができてからなら利他行すると、
順番に考える人がいるが、自分の欲望は際限ないから結局できないことになる。

だからと言って、全く逆をやる人がいてる。
よほどの達人か?
おっせっかいやきの人であろう。

さて、青春時代には恋愛もし失恋もする。
また、事業や職場の仕事に失敗もすることもある。
こんなとき思い通りに行かなくて苦しくて、
死んでしまいたいと思ったことは一度はあるのが普通だ。

あるとき、御釈迦さんが橋の上に思いつめて今にも死のうとする娘さんを見かけた。
話しを聞いてみると「恋愛して失恋し、子供を身ごもっている」ということであった。
御釈迦さんはたとえ話をされました。
「あるところに大きな荷車を朝から晩まで引かねばならない牛がいた。
その牛はつくづく思った。この荷車さえなければ苦しまなくても済む。
そうだこの荷車を壊そう。
牛は猛然と走り出し、岩に車を打ち付けて、壊してしまった。
ところが、飼い主は今度はもっと頑丈な鋼鉄製の車を用意して牛に引かせ、
以前の何千倍の苦しみようになった。
「どうですか、荷車を壊した牛は愚かだと思わないですか?」
御釈迦さんの尋ねに娘はコクリとうなずいた。
ブッダは「ちょうど、この牛が荷物さえ壊せば、楽になると思っていたように、
お前は、その肉体さえ壊せば、苦しまなくてもよいと思っているだろう。
お前は解らないだろうが、死ねば、
もっと大変な世界に飛び込まなければならぬのだよ」と、説かれたといわれています。
今の苦しみは肉体を壊しただけで逃れられるものではない。
自分の業(行動)が生み出すものだから、来世も続いていく事だと説かれた。
娘は自分がしようとしていたことがおろかであるとわかった。

仏教では現実に生きることを教えてる。
さらに、今の境遇にまず感謝して、一歩づつ智慧と利他行をしてよりよくすることを教える。
白隠禅師の坐禅和讃には、
「積みし無量の罪ほろぶ、悪趣いずくにありぬべき、浄土即ち遠からず」
人間も電気製品のように取扱説明書をつけて生んでくれればいいのに、
説明書はありません。
自分が体験から学んだり、先人の残した本などから学ぶ以外にないのですね。
2500年も前の御釈迦さんが諭されたことを今日も僧侶がそれを受け継ぎ伝承してるのである。
御釈迦さんが「一切皆苦」とおもいなさいというのは親心ですね。
苦を楽に転換する努力が人間の生きることのようですね。

皆さんは如何思いますか自利利他行の実践を?

2017年09月16日

無為にして為さざるは無し

老子の言葉だ。

最近、荘子の「無用の用」がどうも心に響くようになった。
どちらかといえば、孔子の「論語」や孟子の「道徳経」の方が、
方向性を明確に指し示してくれて解りやすかった。

一方、老子や荘子は何か悟りきって、仙人のような空気を感じて、
自分の心のあり方をどうするか、また、どう行動すればいいか理解がしがたかった。

何事をやるにも「善」だとか「意味」だとかの価値をつけて、
自分を納得させてる自分がいるからだ。

これこそ、「私心」だ。
人為があり、作為がある。

目の前に怪我してる人がいたら、手を差し伸べる。
ただそれだけの「無為」の行動こそが「無私」である。

山にこもって髭をはやし坐禅でもして何百歳という人で、
あらゆる欲望にとらわれず人間離れした人のことではない。
これでは普通の人間が学べない。

老子の言葉に「少私寡欲、 見素抱朴」(しょうよくかよく けんそほうぼく)
見栄や外聞を捨て、素朴に徹して、自己中心を少なくして私欲を小さくすべしという教えだ。

道元の言う「身心脱落」人間的な関係性や喜怒哀楽の世界を一度捨てて、
静かに心を落ち着け現実を直視する。
禅では「如実知見」とありのままの現実を看破する心のあり方だ。

老子の「無為」の心のあり方ができるとは、純粋な気持ちで取り組むことになり、
八方から助け舟が来て上手く行くというのだ。(宇宙の法則の調和が働く)

だからと言って助け舟を当てにした行動は「作為」だから上手く行きません。
一発勝負(生死一如)だ。
覚悟がいる。

今までは、自由を求め経済成長させる事を善とし、個人の自由をたたえてきた。
決して悪いことではないが、このまま続けると世界は自由と自由がぶつかり戦争になる。
解決は東洋的な叡智の老荘や易経の陰陽にあると感じる。

西洋的な個人の自由は天賦の権利としているが、
地球に生かされているという宇宙(全体)に対する感謝の欠如が経済の暴走だ。

易経では陰陽で考え、「陰窮れば陽になり 陽窮まれば陰になる」という大極を解く。
将に経済成長は陽の世界の追求だ。

決して悪くはないが、窮まると陰になることを陽のままにしようと考えるやり方だ。
それが世界的低金利の金融政策である。

行き着く先は大蛇が自分の尻尾を食べる如く、
金融独占とならざるを得ないのはマルクス予言の通りだ。

経済の成長は陽で、同時に人間形成が陰である。
経済を扱う人間の道徳観や倫理観を同時の深めていくことで陰陽の調和が取れる。
これが平和だ。

企業活動に理念がなければならないと声高に言われ始め昨今、
行き過ぎた経済拡大主義に警鐘を鳴らしている。

人類はこのままだと恐竜のように自滅すると直観してる人が多くなったからだろう。

皆さんは老荘や易経の見方を如何感じられますか?

2017年09月15日

「こころ」の主人になるのは至難の業

心は外的刺激によって大きく影響を受け喜怒哀楽の表情を出す。
また内的な刺激により、何かを求める気持ち、嫌う気持ちが湧き上がっても
喜怒哀楽の表現をする。
感じたことを素直に表現していたら人間関係は壊れて破綻する。

だから、場を変えたり、時間をずらしたり、ただひたすら耐えたりして関係性を保とうとする。
自分の「心」だが、大変扱いにくいものであることは間違いない。

この「心」なる者を常に一定の状態に止めて置くことは至難の業である。
仏教では読経三昧や坐禅といった状況の中で「心」なる者があちこち動かないように躾ける。

一方、「心」なる者が「喜怒哀楽」の表情を見せるからこそ、現実がお花畑のような色彩と香りを放って実に多くのドラマが展開され生きることがたのしい。

まるで大自然が春夏秋冬の季節を運んでくれ、舞台装置を変化させてくれる
素晴しさと同じだ。
「心こそ 心惑わす心なり 心に心 許すまじき」
この句は気を許してると心に振り回されわけが解らなくなるという意味だ。

さて、仏教の言葉に「一水四見」という言葉がある。

人間は水だとおもい、餓鬼は炎と見る
天人はルリ(宝石)と見ます
魚は住処と見る。

同じものでも存在によって意味合いが違ってくる。

もう一歩進めれば人間関係に於いてもこの四見がでてくるのは、
その人の存在と同時に人との関係性から来る心の状態によって四見の表現となる。
それが喜怒哀楽だ。

自分の心の状態も四見、対峙する相手の心の状態も四見ができる。
だから人間関係を円滑にするには対立したり理解してもらえないと嘆くより、
理解してもらい伝えようとする現実的努力がいる。

皆さんは喜怒哀楽のドラマ、どんな脚本書かれてきましたか?
心に振り回され脚本は結果でしたか?

2017年09月14日

今こそ日本人のような無私の文化こそが世界に必要

1989年のベルリンの壁が崩壊して冷戦が終了した。
国家のあり方が自由主義対共産主義という構図が崩れ、
共産主義は人間を解放的な方向へ向かわないと自由主義を標榜する国家は喜んだ。

世界はその後1990年東西ドイツ統一、1991年ソ連崩壊、
1992年ユーゴスラビア崩壊し、EUが結成された。
1993年には欧州通貨危機、1994年メキシコ通貨危機がおこり、
日本国内では山一證券の倒産に北海道拓殖銀行も破綻し、
金融ビックバンが起こったのである。
1995年にWindows95が発売されて、本格的なIT社会になっていくのである。

お金とモノと情報が自由に行きかい、
従来の6倍のスピードで情報のやり取りが実現する時代になったとビル・ゲイツは言った。
今はもっと早いスピードで、情報の蓄積機能も加速度的に増えている。
ラディカル(自由主義)で開放的で機会の平等を実現すれば、全体として水準が上がり、
なお個々人の紛争もなくなると信じて進んできた冷戦後の世界が行きずまってる感が
ぬぐえない。

欧米では開放性(自由主義)とナショナルアイデンティティーに矛盾が起こってるのが現実だ。
トランプが叫ぶ移民排斥のアメリカンファーストと表現し、
同じようにEU離脱した英国のメイ首相もEU域内の平等による移民の受け入れや、
経済的には税制の不平等感から商取引にマイナスが起こっているのだ。

世界は北朝鮮の原爆開発により欧米の開放性(自由主義)を旗印の世界観に、
閉鎖性の強く、独裁制の国家が「悪」とみなされて、欧米が戦争を仕掛ける。
アラブのビンラディンは狙撃銃殺、イラクのフセインもしかりである。
その後、イスラム国(IS)がテロ集団化して欧米を恐怖に陥れてる。

中国は経済的な基盤をバックに閉鎖的な政治体制で独裁色が強く、
尖閣諸島に滑走路を作り、南シナ海を占領し事実上支配をしているのである。
ロシアも北方四島が日本との交渉を白紙にしたかのように、
整備し、新しく魚の加工工場を作り人口を増やそうと実行支配を強めている。

開放性が強くみんなが一番に自由の旗を振り機会の平等を実現し、
社会全体で上昇移動すると考える国家と
閉鎖性が強く独裁主義的な画一的平等感で、
計画的に発展させるという国家との戦いが、
冷戦後の今もなお国家形成の根本に支配する思想を感じざるを得ない。

人類は本当の意味で「世界平和」を実現するには現象的な課題解決と同時に、
司馬遼太郎さんの言ってるように日本の主語のない文化が持つ「共感性」
「いたわり」「おもてなしの心」といった「無私」の心を醸成する事が必要だ。

欧米の「私」という自我を認めて自由平等の「開放性」と「閉鎖性」の二つの国家形成にこだわらず、「無私」の心境で対応する人材の育成を始め着眼大局、着手小局を実現してほしい。

皆さんは日本文化の「無私」の文化如何に考えられますか?

2017年09月12日

「変わる、捨てる」といわれるが納得いかない。

世の中が変化し、動いてることは誰もが理解している。
仏教では、それにあわせて「自分を変化させる」あるいは「捨てろ」と表現する。

今の自分があるのに自分を捨てて、世の中の変化によって自分を変化させる。
現実的にどうすればできるか解らない。
「自我」を捨て、「無我」になれと諭されるが、自分がなくなると考えてしまってどうも納得いかない自分がいる。

仏教の中でも「自利利他」という言葉は私のお気に入りだ。
二宮尊徳流に解釈すると、「自利のない利他は偽者で見せかけの利他行だ。

また、利他のない自利は自己中のエゴイストで害になる」これは私流の解釈だが、「変化」しなくても「捨て」なくてもいいので納得がいく。

でも、人間は毎日新しい体験をする、明日は体験のない白紙のページだ。
無我夢中であれ、意図して考えた行動でも、体験を通じ学び成長する。
(いい意味も悪い意味も)

肉体的にはある段階から老化するのは事実だが、精神的には体験を通じ成長し続ける。

新しい体験の結果はいいことも悪いことも経験する。
何故なら人間は不完全にできてるからである。

時には、自分が生きてきた悪い過去を消したいと思う。
現実には過去は消せない。しかし、上書きする事ができる。

「無我」というのは不完全で利己的な「自我」に上書きすることである。
過去を消すことでなく、自分を変化させる事でも、捨てる事でもない。
今の自分を一歩でも何かを学び体験して成長させる事が「無我」になることだ。
今に集中し、過去を悔やまない、未来を恐れないことで新しい一歩を踏み出す事だ。

安岡正篤の言葉に、「一燈照隅 萬燈遍照」がある。
自分の命に燈をともし新しい未来へよりよく一歩づつ歩む事が、結果遍く萬燈を照らす事になるというのである。
昨日より良い成長する自分であり続けることが「自我」に上書きし「無我」となると確信する。

皆さんは「自我」に上書きされて自分に新しい燈をともされてますか?