社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

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2017年11月19日

読書の秋

座右の銘というのがどんな人物にもある。
私は「自他不二」を体得し「天人合一」「「知行合一」をモットーにしている。

怠け者で愚かな私には「夢のまた夢」を見てるようで実現できてないことは間違いない。

メンタルトレイニングの西田文郎さんは、逆説的な表現で、
「不幸の三定義」
1、決して素直に「有難う」といわない人
2、「ありがとう」と言っても、恩返ししない人
3、「ありがとう」と唱えただけで恩返しができたと思ってるいる人

この人は心から素直に感謝し、
さらに、その恩を具体的に返す事で三倍も四倍も努力し恩返しされたのだろう。

それには情熱と誰にも負けない努力と不屈の精神力(心)がいるに違いない。
元京都大学総長の、平澤 興先生は、
「秋の空は高く澄みきり
夜には無数の星が見える
秋の夜の夢は
大きく高いほどよい
問題は夢に負けない努力だ。
あくまで燃え続けることだ。」

行動あるのみであるが、行動にも二つある。
1、具体的に行動する現場で日常の課題を解決する
(只管打座とただ坐禅することで空の心を養う)
2、具体的現実を推理し創造し日常の課題を解決する。
(読書や他人の話しを素直に聞き自らの心の幅と奥行きを広げ、かたよらない、こだわらない心を養う)

森信三先生は、
「読書は心の食物
肉体を養うため
毎日の食事が欠かせないように
心を豊かに養う滋養分として読書は欠かせない」

吉田松陰はもっと過激だ。
「万巻の書を読むに非らざるよりは、
寧んぞ千秋の人たるを得ん」
意味=たくさん書物を読破するのでなければ、
どうして長い年月にわたって名を残す、
不朽の人となることができるだろうか。できはしない。

ラグビー会の平尾誠二は、
「人間の力は
全部出し切らないと増えない
出し切らずに溜めたら、逆に減るのです。」

「人生二度なし」という覚悟で楽しむ事がよさそうだ。

皆さんは読書の秋どう過ごされてますか?

2017年11月17日

事業の目的

経済行為をするものが一番気をつけなければならないのは、
「お金」を目的に考える習慣ですね。

「儲ける」という自己本位な考えを持つことをいつも戒めなければなりません。

「事業の目的」世の中に役に立ち、人のためになる行動をすることを肝に銘じることだ。
世の中の変化を掴み、変化する要望にこたえる真摯な態度で努力を重ねる姿勢で仕事に励む。

ドラッカーは従来の「PDCA]でなく「PDSA]を実行する事だというのである。
Plan(計画)業務計画を作成する。
DO(実行)計画に沿って業務を行う。
Check(確認)実行が計画に沿っているか確認する。
Act(改善)実行が計画に沿っていない分部を改善する。

そうではなく、「何が目的か、何を実現しようとしているか、なぜそれを行うか」を問う。
Plan(計画)業務計画を作成する。
Do(行動)計画に沿って業務を行う。
Study(学習)評価結果から何が学ぶべきか
Act(改善)得た学びを反映させ改善を行う。

ここで一番大事なことは単に商品を売ってお金儲けするのでなく、
その商品やサービスの「意味と価値」を明確に掘り下げて、時代の要望に答え、
御客さんのほしいものを提供するだけでなく、
役に立つ商品・サービスが提供でき、事業の目的の「意味・価値」が創造されてるか自問自答する。

結果「儲ける」のでなく「儲かる」仕組みを実現するのが事業である。
言い換えると「社会」が必要とするものを提供し続ける自己変革の努力がいる。

一つの成功パターンを繰り返しやるのでなく、
常に変化する世の中で新しい商品・サービスを産みだし創造するのである。

単にモノ・サービスの新しさを提供するだけでなく、
その奥にある人間が人間らしく生きるために必要不可欠な要望に答えてこそ事業といえるのである。

今うを生きてる現実の人間の心の奥にあり、本人さえ気付いていない要望に耳を傾ける事が重要だ。
二宮尊徳の言葉を思い出す。

「道徳なき経済は罪悪 経済なき道徳はたわごと」
具体的な形やモノはいる。
同時に「意味・価値」は目に見えないがいるのである。

皆さんはお金儲けが事業だと思われますか?

2017年11月16日

他人の評価

個人が先か社会が先かといえば、
人類は集団で生活することを余儀なくされたのですね。
だから、個人は後なんですね。

個々人の名前がつけられるんですが、「山」とか「石」だといった自然物から始まる。
多くの名前がいるようになり「大きい石」「高い山」と形容詞がついてくる。

社会という集団があるから個人を特定するようになったのが現実だ。
個人は社会の中で役割分担ができていき、仕事が専門化される。
そこで、個々人の特徴が発揮され、個性が生まれる。
たとえば食事担当は料理方法を生み出し、味も必要に応じて変化させてきた。
だからいろんな料理方法が編み出された。

他人がいるから自分を意識しだす。
最初は真似だったが、段々アレンジし他人と違う特徴を生み出そうとする。
金子みすずの詩に「みんな違ってみんないい」というのがある。
その違ったものが相互に結びつき社会という風土も進化する。
社会は互いが約束を守るという前提で信用関係ができてきた。
だから、他人にどう評価されてるが重要なキーになる。

一休宗純禅師は、
「今日ほめて、明日悪く言う人の口、泣くも笑うも嘘の世の中」

他人は自分の都合でどうにでも評価するものだというのである。
だから気にしないことが、実に一休らしい!

嘘と決め付けるのはどうかと思うが、嘘とほんとのハザマに生きる。
不完全で、矛盾した存在が人間であるということだ。

いちいち他人の言葉に一喜一憂しない事だ。
半分眼をつぶって聞いてるぐらいの懐の深い心構えがいる。

なかなか一休さんのように行動できない自分がいるのも事実だ。

皆さんは他人の評価気にしてませんか?

2017年11月11日

三毒は三薬 (三毒即三薬)

人間には三つのタイプがある。
1.いつも不平不満を言って他人に愚痴をいって自分を正当化するタイプ
2.何か気に入らないと怒り他人を言動で傷つけ自分を正当化するタイプ
3.もっとほしいほしいと他人のものを取って自分の者にし正当化するタイプ

仏教では「三毒」と言って「愚痴、瞋恚、貪欲」である。
すべて自分を守り、正当化する行為を言う。

1.愚痴を言う人は自己責任感が弱く、他人に責任転嫁して自分を正当化し守る人だ。
2.怒りの多い人は自己正当化して正義を装い怒りをぶつける。

怒りの一番悪いケースは戦争だ。
ジハードと言って自爆テロをするのも同じだ。
正義をかざしているので最も残虐になれるのである。

3.貪欲は人間の根本的な五欲(食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲)に支配される行動だ。
自分の命(身)を具体的に守ることと命の意味と価値を守る。

この三毒はすべて無知からくると諭す。

三毒のままでは生きにくいのも事実だ。
では、どうすれば毒が薬になるか知りたいのが人情だ。

それには、命を生き生き生かす「知、情、意」をバランスよく育て、
自分の煩悩をよく知ることで自分で対処の方法が考えられるというのである。

これを智慧という。

聖徳太子は十七条の憲法に、
「われ、必ず聖にあらず、彼、必ず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫のみ」
意味=私は聖人でもありませんし、目の前の人も愚か者でもありません。
聖愚、善悪をもった普通の人だ。

ということは人間は毒も持ってるが同時に薬にもなるというのである。
言い換えると行動の方向性で決まるのである。

人間の欲望を自分のためのみにという方向を持つと三毒となる。
しかし、他人や社会のための方向を持つと毒が肉体を動かす燃料となり、
その行為に他人や社会のためになる薬となるのである。

これを慈悲という。
言い換えると自分のために使うことを一番にするのでなく、
他人や社会のために方向転換すれば薬となるというのである。

「渋柿の渋み、そのまま甘味かな」
与謝蕪村は「この泥があればこそ咲け蓮の花」

「煩悩即菩提」と瞬間移動し毒が薬になる。
妙好人の浅原才市は「煩悩具足、お慈悲も具足、具足尽くめのなむあみだぶつ」
この瞬間移動には理屈はありません。

行動がどっちの方向を向いてるかというだけのことだ。
皆さんは三毒を三薬に転換どうされてますか?

2017年11月07日

私があなた

「私があなた」という矛盾したことが真実だ。
1.「私は私」という絶対的な自己を知る(自分しかない)
2.「私とあなた」というのは相対的な自己を知る。(比べる)
3.「私のあなた」という自他不二として行動する自己を知る(親とこの関係)
4.「私があなた」という絶対矛盾の自己同一を行動する(西田幾多郎の超絶対は善)天人合一

親鸞は人間は「善悪の二つ総じて持って存知せざるなり」というように、
矛盾した存在であるといっているのである。
この自覚から始め、善悪もった不完全な存在である。
聖徳太子は「我、必ず聖にあらず。彼、必ず愚かなるにあらず。ともにこれ凡夫のみ」
と十七条の憲法に記しているのである。

仏教では「善悪無記」と言う言葉もある。
善悪を持ってることを自覚はして、物事や人に善悪のレッテルを貼らない。
三毒というのは「貪欲、瞋恚、愚痴」の三つを言うが、なかでも「瞋恚」は怒りである。

怒りは自己正当化であり、正義に成りすまそうとする1番の自己に逆戻りだ。
自分の思うように行かないと正義を100%にしてしまったら、戦争にしかならないのである。

こうなると人間は最も残虐になれるのである。
神の名のもとになされたイスラムのジハードは世界各国でテロを繰り返している現実がある。

仏教は「無」「空」という思考の踊場を作って「0」に自分をする。
言い換えると車をニュートラルにするように、自分を「0」にすることだ。
どちらか一方に偏しない自分「中道」とも言うが、
現実から離れると虚無になるから気をつけねばならない。

慧能大観の言葉に「無一物無尽蔵」という言葉がある。
まさに「0」は「∞」(無限大)ということだ。

「私があなた」
皆さんはどう感じられますか?