社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

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2018年07月20日

皆が意識をかえれば

朝日新聞の朝刊にこんなタイトルの記事を見つけた。

これは受動喫煙による健康被害をなくす、
すべての人に受動喫煙防止を義務付ける改正法の意義について書かれていた。

受動喫煙問題の反対には喫煙の権利があり、タバコを売る営業の自由がある。
この喫煙者と受動喫煙者の調整は難しいのも事実だ。

法の施行から15年たって、喫煙をある一定の場所とか全館禁煙とかは増えたのも事実で、
今までのようにどこでも喫煙できなくなったことは確かだ。
「常識で考えるのでなく、常識を考えた」結果である。
そこで、この結びの文に、対策を考えることを進めるのも良いが、
われわれが意識を変えていくことが不可欠だと締めくくっている。
この結びの一文に感動した。

私が常々思っているのは、唯物論的な考えが先行して、
構造上の対策を打てば社会がよくなるという偏った考えだけでほんとの意味で上手く行かない。

たとえば、水が人間として堤防の高さや方向を決めれば、
水(人間)が良き人間になると考えるはおかしいのと同じだ。

差別するわけではないが、水(人間)にも清い水も濁った水も放射能に汚染された水もある。
水(人間)の意識に目を向けて、日本の歩んできた歴史を学ぶなり、
四書五経などの古典を学び、
人間としての品格や精神の骨子を創る教育が望まれる。

人間の肉体と精神の両輪の輪を同時に健全な発達をさせてこそ、
次世代を告ぐに相応しい人間形成ができる。
変化する世の中で遅れがちな意識革命を、昔の寺子屋のように、
同時に進行させる学びの場が必要不可欠だと念じる。

皆さんはいかが考えられますか?

2018年07月18日

「経済の拡大再生産と人間関係拡大再生産」両輪の輪を創る

経済が成長発展する生産の三要素は、
1.生産力(労働力と生産関係がかけ合わさったその時代に生産する力)
2.生産手段(その時代の道具や、機械)
3.生産関係(人間によって生産する上で結ばれてる関係)

この関係を効率よく合理的に結び付けていくことで生産力を拡大再生産する。
その基本的な鍵を握るのが生産手段である機械の技術を革新し、何十倍もできる技術の開発だ。
生産する機械や作り方の仕組みの改革を行いより多くの生産をすることだ。

現代はAI(人工頭脳)のロボットが人間に替わってホテルの受付までやる時代だ。
さて、ここで一番大事なのは経済の発展だけでは車は前進しないのである。
それは人間関係の拡大というもう一方の輪を回し両輪そろえる事が重要だ。
資本主義を「信用と競争」といわれ人間関係の拡大こそが「信用」である。

当然、この人間関係拡大の課題は二つある。
1.自己中心的な利己行動(相手から奪う行動)ではなく、
 利他行(与える、役に立つという行動)を一番にする。(先義後利、先憂後楽)
2.人間関係は感情関係であるから、感情コントロールの技術がいる。
 人は育った環境や親の遺伝、知識(語彙)の環境によって無意識に価値観ができてる。

言い換えると個々人の損得、好き嫌い、善悪、といったものは一億人なら一億価値ある。
この無意識に形成された価値に感情が加わると「喜怒哀楽」という表現になる。
それだけでなく、この感情は無意識だから自分で自分がコントロールできにくいのである。
(自分で自分の目が見れないように、価値も積み重なった環境のなかででき自覚がない)

一般にはEQは感情指数(心の知能指数)といわれてIQは知能指数だ。
感情とは喜んだり楽しんだりする心のことだが、
五感を通じて入ってきた情報を自分にとって「苦と楽」に分けるのである。
「苦」(恚覚)と受け取ると→うれい→悲しい→怒りと育っていく、
「楽」(貪覚)と受け取ると→喜び→楽しさ→高ぶりへ変化していく。

感情の豊かな人は喜怒哀楽を前面に表現して心に溜め込まない。
だが、周りでは傷ついてる人もいるのが事実である。
喜怒哀楽を表現しないで溜め込む人は不機嫌な人になって人間関係を上手くつくれない。

他人を批判したり、陰で悪口言ったり、自分に自信がもてなく、
そんな引っ込み思案な自分を肯定して、関係性からはなれて自信をなくし、
そんな自分を固定化して思い込みついには鬱にもなる場合もある。

では、どのように解決するかである。
それには三つある。
1.モノの見方を変える。(相手を100%受けいれる。不機嫌な人もピンチもチャンスやと
 受け取る)
2.行動を変える。(前進したいなら後退する行動を取る。右に行くなら上に飛ぶでも
 良いですね)
3.自分を信じること。
 何を信じるかですが、能力や運や経験でなく、自分の「成長願望」を信じる。
 学びたい、知りたい、できるだけ資格とりたい、こんな人間になりたい。
 という次々でてくる成長欲求を素直に信じる。

成長願望の人は不機嫌でなくいつも機嫌が良い、失敗してもあせらない、
難問にぶつかっても放り出さない、マイペース、ゆったり構える。
権威や肩書きに物言わせない。
自分の生き方に確信を持ってるから、相手の話しを良く聞き正しいと思えば受けいれる。
感情的におおらかで、上機嫌だ。
見栄やプライドにこだわりませんし、自分より優れた人を素直に認める。
謝ることや教わる事にためらいはありません。
嫌な事も簡単に忘れる技術を持っていて、執着しません。
今を生き抜いて楽しむのですね。
積極的に行動して人間関係の拡大再生産をする。
勿論、利他行で相手に役に立つ行動をする方向で成長を願ってる。
現実の経済と人間関係の両輪の輪が整ってこそ成長することまちがいなしである。

皆さんは人間関係をどのように拡大再生産されていますか?

2018年07月15日

国のあり方

政治のことはあまり解らないですが、
世界の中で日本はどのように国民を守り、
生活ができ、助け合う世の中を構築するかであろう。

1945年に第二次世界大戦が終結し、ドイツと日本は目覚しい発展を遂げた。
それには幾つかの条件があるが、社会の構造的な面から考えることにしたい。
今朝の朝日新聞の記事から参考にする。

1985年にプラザ合意があり、世界は円高容認するという決断をして、
日本に内需を拡大し、世界への輸出をしないように迫ってきたのである。

ここで、日本は空前の不動産価格、ゴルフ会員権の高騰などバブル景気となった。
1986年に中小企業が533万社あった。
2014年には381万社で約30年間で150万社が消えている、年間5万4千社である。

この約30年間日本は労働賃金の安い韓国から中国へと生産拠点を移すことで、
デフレ化でも何とか生活水準も維持し、500兆前後のGDPを確保した。

国内の変化は1990年のバブル崩壊で、ビックバーンが起こり金融の再編が行われた。
平成に入って山一證券の倒産や北海道拓殖銀行の倒産が続いた。
2000年には大店法の廃止に伴いスーパーが一機に拡大し、モールやタウンという名で、
地元の小売店をシャッター街にしていったのである。

勿論、大手の製造業の下請けの人たちも、コストダウンを年二回強いられ、
大手と中小の格差がどんどん開くのである。(賃金、利益額)

2008年のリーマンショックはアメリカの新自由主義の名のもとに、
デリバティブのような金融派生商品を小口化し出せば課題は起こらないと考えたが失敗した。

世界的に不況風に巻き込まれたのだ。

現代も中小企業の廃業が続き2014年には381万社になっていて、
さらに追い討ちをかけ中小企業の70歳を越えた社長で跡継ぎのない会社が127万社ある。
日本の消費を支え、雇用を支える会社がなくなるということは日本の経済が破綻するという事だ。
もし、126万社が廃業すれば650万人の雇用がなくなり、22兆円のGDPがなくなるという試算もある。

金融庁も地銀を一府県に一行にするように進めるのも致し方ない。
中小企業の廃業が50%を越えるのは山形、富山、青森で、40%は岩手、高知、
大阪は20%で、東京、福岡は10%と記事には書かれていた。

地域を支えてきた金融も地域に会社がなくては金融の必要もない。
大手のビックスリーのように海外に投資できるわけでもない地銀はあえいでいる。
というより、地方自治も赤字財政となり成り立たなくなる。
東京一極集中に何か名案はないのだろうか?

人間の内面の道徳観や人格形成が基本だが、
理想の社会という国の形という政治も両輪の輪の如く重要だ。

皆さんは国の形どんな風にお考えですか?

2018年07月13日

「人情」に思う

凡夫のわれわれは、無意識に「生を愛し、死を憎む」「福を愛し、禍を嫌う」
これが人情というもである。
この基本的な自己愛が本能である。
だから他人からは愛してほしいと求めるのが基本のスタンスだ。(受身な利己心)

何かことが変化すると無意識に生を愛し死を憎む判断をする。
仏教で教えてることは、この無意識の分別知の判断に振り回されるなというのである。

もし、この判断が当たり前と行動すると「喜怒哀楽」に振り回され感情的な人間になる。
うれしいことがあれば異常に有頂天になり、悲しい事があれば怒りと悲しみに鬱屈する。

何度となく、こんな自分を体験したら、一方を貪愛したり、一方を瞋憎するのでなく、
両方を受けいれ乗り越えていく事に着眼する。

ではどうすればできるのか?

「生きてよし、死してよし」100%現実絶対肯定するしかないんだ。
良寛は「裏を見せ表を見せて散るもみじ」と表現する。

100%現実を受けいれるとは、生死、善悪、損得という分別の相対性の意味づけが重要だ。
「ピンチはチャンス」
マイナスなことが起これば、額面上を素直にマイナスと受けいれたら、鬱屈する。
だから、自己成長と意味を転じて受けいれるテクニックがいる。
これを仏教では「転依」とか「転悟」というのである。

王陽明は人間は「喜怒哀楽を出でず」と言ってる。
道元流に言えば「身心脱落」して、天から事実を俯瞰する事で、
生死を超えた道を智慧出して行動することだ。

大事なのは生死を離れて傍観者として評論する虚無主義者にならない事だ。
あくまでも現実を生き抜くために意味を転じるのである。

キエルケゴールは中世の神による精神的な支配に背き、
実存主義を提案する。(神に背く実存主義)

彼は「人間の存在は矛盾」と言って人間の身体と精神の一体化したもの、
また、有限と無限、時間と永遠の総合であるべきものを「絶望」というのだ。

しかし、これに気付いたら二つの道があるというのだ。
一つは現実から逃げるという「弱さの絶望」である。
実存ではあるが精神がない。

真の実存は人間的に絶望して、絶望のなかで「希望の壁」を築いて生き抜く「強さの絶望」でなければならないというのである。

洋の東西を問わず、間は面白い。
喜怒哀楽を楽しめるような自分でありたい。

皆さんはいかが思われますか?

2018年07月12日

老子を受け入れる

老子を誤解していたように感じたのは、
伊那谷に住む加島祥造さんの詩に出会ったからだ。

「求めない」という詩集から・・・・・・

求めないー
すると
簡素な暮らしになる

求めないー
すると
いまじゅうぶんに持っていると気づく

求めないー
すると
いま持ってるものがいきいきとしてくる

求めないー
すると
キョロキョロしていた自分がおかしくなる

求めないー
すると
心が静になる

求めないー
すると
心が広くなる

求めないー
すると
ひとに気がねしなくなる

求めないー
すると
恐怖感が消えてゆく

もう一つの詩集に「受けいれる」・・・・・・

受けいれるー
それは
柔らかな自分を
いたわることなんだ
そうしないと
固くこわばって
たたかい
たがいに傷つけるようになる

ともに生きる心は祈るー
競って生きる心は
求める

生きていくにはこの両方がいる必要だが
どちらかが過剰になると
危ないんだ

老子は言うー

人は陽を背負い
陰を胸に抱いて
和に向かって進む、と
自分の中の不和に
「気づく人」は、タオの道にいる

「無敵」とは味方を創ることでもなく、敵を倒すことでもない。
敵を創らないことだと田中角栄は語った。
他人に味方と敵を分別してるのは求めている自分があるからだ。
他人に何かを求める前に「受けいれる」そして自分の不和に気付くことだ。

老子は決して仙人思想でなく、現実を生き抜く智慧である。
皆さんはいかがおもいますか?

2018年07月08日

神・仏は自分の中にある

シンクロナイズドスイミング日本代表のヘッドコーチだった井村雅代さんがおっしゃるには、
三流の人は道を追う、
二流の人は道を選ぶ
一流の人は道を創る
そうなんですね。

親という道しるべを頼りに生きてきた私たちは
思春期には脱皮して、理想を持ったり、あこがれの人や師匠について学ぶ。
そして気付いたら、自分の道を自分で創ることを自覚していくのである。

神だとか仏という完全無欠の存在を描いて追っかけることから脱皮し、
善だ悪だと分別し、独善的になって他者を排除する自分と、
他者にすがるように善を装う偽善的な自分から、
自ら「無から有」を創りだす自分になる時が来る。

「無から有」を創るには、
自分の外に存在すると思っていた「神・仏」の力を自分に内在する力として、
主体的に引き出す事だと気付く。
決して自分が神・仏だと思いあがることや傲慢になることではない。

人間は自然の分身(自分)として、宇宙の意志が仕込まれてる自覚を言ってるのである。

仏教とは何かというと智慧と慈悲と答える。
しかし、生きていくには基本、自分の肉体を維持し、
種を保存する本能(利己心)が一番で行動することは間違いない。

必死に生きようとすれば「智慧」が湧き、種を保存しようと思えば他人を愛する利他心がいる。
性においても、社会的な分業においても他者の人格を認め受け入れる必然性が求められる。

これが、ただ肉体を維持するという次元から、
みんなで形成した共同体を維持し、発展させようとする利他行へと昇華される。
そのためには「生活、社交(人事)、技能、学問」といった現実の関係性をいったん止めることが大事。

「摩訶止観」という言葉がある。
摩訶=偉大な
止観=日常生活の自分を抜け出しいったん止める(道元流に言うと「身心脱落」)
何十年も青空を見たことない自分から脱落する。
自分も含め全宇宙を俯瞰する。

吉田兼好流に言えば無常観を体得する。
1.生活感情の詠嘆的無常観
2.実相的無常観(原理)
無常観に感情が入ると虚しい、切ないとなるが「常がない」(変化する)ということだ。

凡人の私たちは、ついつい一つの事に執着して変化を止めてしまっている。
一瞬の変化の中を自ら泳ぐことこそが自由で自在を得るにもかかわらず、
時間を止め感傷に耽るものだ。
これを執着というのである。

さて、この根本は仏教で言う「本来の面目」、無我なる主体を獲得すれば、
本来具わってる宇宙の力、相対的分別智を超えた絶対的智慧(叡智)を引き出し、
この世が相対的な地獄から絶対的な極楽の世界へ導く力を得るのである。

「奪い合えば地獄 分け合えば極楽」
分かち合う力を引き出す事こそ、神・仏の力である。
宇宙は与え合い、調和しあうようにできているからである。

皆さんは自分の中の神・仏に気付かれてますか?

2018年07月04日

「高度に発展した資本主義社会」にこそ末来が築かれる

資本主義社会が高度に発展すると私的所有と個人の自由を超えて、共産所有と公民(シトワイヤン)抽象的道徳主体の自由を得る。

ここでマルクスが言いたかったのは私的所有から共産所有になるという、右から左へのプロセスの説明をしたかったのではない。

人間の中にある生存欲求、種の保存という本能は利己的であり、一方で生産力をあげるには分業による協業化を進める事が重要で、人格と人格を互いが認め合う相補的関係(相互依存関係)という利他的主体が必要になる。

言い換えると高度に発展し生産力がいまの何百倍になれば、人は奪い合う事がなくなるとマルクスは考えた。

共産は結果の状態で私的所有を否定する政治構造をつくれば、人間が解放されると考えるのは極端である。

人格を互いが認め合うということは利己的な生存欲求も認め、同時に利他的主体に目覚める事が相互に浸透する関係でなければならない。
人間は不完全な存在であるがゆえに進歩、進化する。
この不完全性を自覚する事ができれば、人間開放という彼岸を実現する事ができると言いたかったのである。

仏教的に言えば「迷悟一如」で現実をありのままに100%受け入れる「受用不尽」を実現する事だ。
これが「愛」であり、「恕」(思いやり、求めない事)の姿勢である。

矛盾こそがありのままである。
だから生きる力が湧いてくる。
当時の西洋の社会ではユダヤ教(貨幣崇拝の利己主義)と位置づけられていた事情があった。

また市民社会は確かに政治的開放はなされたが、一方で私的所有による自由の制約が隠れていて、ブルジュアーの自由を認めてるだけだとマルクスが暴いた。

だから唯物論者は社会変革を一番に考え構造をかえ、ブルジュアーと戦う事だと位置づける。
しかし、自己変革の重要性が置き去りになっているように感じるのは私だけだろうか?

皆さんはいかが考えますか?