社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

フィード

RSS 1.0

2019年02月23日

「善悪は時なり」道元

この言葉は凡人がどっちの結果になっても言い訳できるように使うものではない。
現実の客観的な状況では因縁によって「時には善となり悪となる」という深い言葉だ。

吉田松陰は
「私心さえ除き去るなら、
進むもよし、退くもよし
出るもよし、出ざるもよし」

この心境は自由で自在な心の持ち方を言っている。
ここまで、人間の持ってる五欲(食欲、色欲、睡眠欲、財産欲、名誉欲)に打ち勝って、
己を超克できるかということだ。
松蔭は国家が外国の植民地にされるという危機を感じ、志に動かされていたのである。
明治の志士たちは、みな同じ志だったに違いない。

「大学」の序文に「明徳を明らかにする」とある。
これには二つあるといわれる。
1.人間学(本学)=自己を追求し品格、徳性を磨く、言い換えると五欲に打克つ。
2.自分学(事務学)=社会で生きていくための知識と技術を学ぶ、磨くのである。
この二つは全く方向性が違う。

凡人の私などは「誠」がある時と「誠」がないときがあり(ムラがある)、一本筋が
通っていない。
賢人といわれる人は「誠」であるべく努力を惜しまない人だ。
聖人といわれる人は、自然に耳に従って「誠」ができる人のことだ。
これには不屈の辛抱と修養がいる。

孔子は「知好楽」と、
知ることより好きな事のほうが良い。
好きな事より楽しい事のほうが良い。
継続して行えるというのである。
もう一つ付け加えれば「遊」、あそんでいるかのように行動できたら最高だ。

皆さんは善悪は時なりと自由で自在な自分づくり、どうされてますか?

2019年02月19日

「常楽我浄」ありたい自分を。

欧米では小学校や中学で末来の進路を決め、
自分が一生、生活していくための手段として職業を択ぶ時期が早い。
TO DO (したいこと、なりたい)ということでなく、
TO BE (ありたい)自分と向き合い仕事の道を決め、
学んで実力を磨くというのが一般的な生き方で学校のカリキュラムになっている。

たとえば日本では営業職か事務職、肉体労働の技術化サービス業の接客。
あるいは技術を生みだす研究者や学者ということになる。
現代はマスコミやデザイナーや企画立案や企業のコンサル志望といろんな道がある。
この職業分類はあくまで自分がやりたい、なりたい自分を想定してる。

ところが、欧米はもう一歩進んでいて保険業に携わるなら、
徹底した専門家として、保険論はもとより、金融、心理学などの専門知識も身につけ、
ライフプランを設計する事ができる絵描きであり、緻密な建築家である素養を磨くのである。
(一生食べていくためにだ)
まさに、「ありたい自分」を創造し、自らを学んで創造していくのである。

自分に磨きをかけることが当たり前の世界観がある。
競争と信用という経済的な価値が優先され現実的になっている。
現代の情報化社会はあらゆる情報が手にはいりやすい時代でもあるが、
基本的に大事なのはその中で「自己のありたい姿」を創造し行動する姿勢が重要だ。

日本人は「志」というように漠然と自分を捕らえる傾向がある。
この志の意味するところは自分という自我からの発想でなく、
あくまで社会性であったり、ある人のためであったりする。
言い換えると、「世のため人のため」という大義をかざす」
自我の欲望実現でなく、無我の自分から発想することをよしとする。
欧米が正しいとか日本的が正しいと議論することには感心はない。

では、なぜ日本流の発想があるかというと、
仏教的に目指す「涅槃」の意味するところの影響が強いと感じる。

「涅槃」とは解脱するという意味で、
人間が本能から起こる精神的な迷いがなくなった状態(涅槃寂静)ことを言う。
「悟る」とか「死」を意味する場合もあります。(詳しくは後日書く)
それはどんな状態かと言う事を表したのが「常楽我浄」ですね。
こんな状態でいつもいられる人がいるか疑問だが、
一切の迷いや苦しみから解き放たれ常住不変である状態で「常」、
そして迷いがないのだから「楽しい」そして欲望が主人の「我」でなく、
自由自在で拘束されない「我」(無我という我)を得るというのである。
その状態は人間の本能から解脱しているので清らかで「浄」という。

こんな事いくら理屈で知っていても、
実際にその状態を具体化することができるかできないかが重要である。
私のような凡夫は「知っているがやらない、できない」か、
「知らないがやれ、できる」と意識と行動がばらばらなのである。

さらに、もう二つの分類は「知らないし、やらない、できない」
この人は「知らぬが仏」気楽な人ですね。社会とは交わらない人でしょうね。
もう一人のタイプは「知ってるがやろうとし、できるように努力する」人だ。

御釈迦さんが亡くなる時に弟子たちが言いました。
「明日から私たちはどうすれば良いのでしょうか?」
御釈迦さんは「心配ない」
「自分を信じ、私の説いた法(ダルマ)を実行しなさい」
これを仏教では「自灯明」法灯明」と表現してます。
言い換えると「自帰依」「法帰依」(自分に頼り、法に頼る)という意味です。
「常楽我浄」葉お釈迦さんに貰うものでも、寺や神社にお願いするものでも、
親に貰うものでもありません。
筋肉を鍛えるように筋トレや運動して、自分で創るものだというのである。

天から降ってこないかなと怠け心を出すのは私だけだろうか?
ほんとに幸福実現したいと強くおもはないと!

皆さんは「常楽我浄」どのように自分で創られてますか?

2019年02月16日

「管仲」に学ぶ

中国の春秋戦国時代の斉の桓公に使えた人物だ。
諸子百家時代の法家の第一人者で孔子がでてくる90年ぐらい前の人物だ。
この末裔には秦の始皇帝が「君ともっと早く会いたかったという」韓非子がいる。

始皇帝はご存知のように法体系をびっしり整えて政治をやったのだが、
14~5年で崩壊してしまう。

法と罰則があまりにも厳しかったからである。
その後、漢の劉邦は「法三章」と簡略化したのは歴史的な事実だ。

さて、管仲もラッキーな人である。
故事に「管鮑の交わり」といって大親友というのがある。
鮑叔牙といって桓公の父の僖公の相となった人であった。
管仲は桓公の兄弟の糾(きゅう)の相だった。
跡目争いの時に管仲は桓公を暗殺したが失敗した。
その後糾は殺され、管仲は投獄された。

当然殺されるところだったが、
鮑叔牙が「天下を取るには管仲は使える」と進言し助かった。
その後の働きも素晴しいものがある。
彼は現実主義者で唯物論的だ。

管子の中の牧民篇に、「衣食たりて礼節を知る」の元の言葉がある。
「日々の暮らしが楽になれば、自然に礼儀をわきまえる。
生活にゆとりができさえすれば、道徳意識は自ずと高まる」

重農主義的で農業生産が発展の原動力と考えていた。

乗馬篇では「四民分業定住論」(中国学者説)といわれ士農工商と言う四階層を作った。
これは周王朝の時代からやっている制度でもあった。

枢言篇には、「衆人のその心を用うるや、愛は憎しみの始め、
徳は恨みの本なり。ただ賢者は然からず」

意味=凡人は報いられる事を期待する。したがって、愛は憎しみの始め、
徳は恨みの本となる。しかし、賢者は違う。

「先王は事を持って交わりを合わせ、徳を持って人をひきつけた。
二つの者合わざるときは、成るなく、親なし」

意味=昔の名君は利を持って他国と結び、徳を持って人をひきつける。

利と徳の二つを持ってしなければ、大業は成就しない。国と国、人と人にも円滑を欠く。
この時代は戦乱の世の中、油断すれば戦って奪われる時代で危機感がいつもある。

現代はどうだろう。

危機感ということから言えば、若者に末来の危機が見えてるのだろうか?

故堺屋太一さんは「低意欲時代」と現代を名付け、
欲望、夢、やる気が低いといっておられる。

人で不足の現在、求人倍率を見ても1.6倍とかで仕事はいくらでもある。
生活環境は24時間どこでもお金さえあれば買い物ができるし、食物もあり、
ネットカフェに行けば住居にもなり、雨露がしのげるのである。

日米の貿易戦争は新しい冷戦だという人もいる危機感の人もいる。

皆さんは2600年前の管仲が考えたこと現代人が何を生かせるとおもいますか?

2019年02月09日

近代国家は宗教からの解放

西洋ではギリシャ・ローマの時代からルネサンスに至るまでは封建的で絶対君主時代であった。

1789年のフランス革命によって共和国が誕生するのである。 宗教的にはキリスト教のカソリックは儀式にでれば神のもとの平等を唱え、「免罪符」を買えば罪が許されると形骸化していた。現代もフランス、イタリア、スペインはこの宗教観をベースにした文化だ。

一方、プロテスタント(カルビニズム)は予定説を主張し、 あらかじめ予定されている人は救われるという個人主義的自由、階層社会(階層内自由)を肯定する。
16世紀にイギリスのヘンリー8世の離婚問題でカソリック教会から独立した英国国教として独立したプロテスタントである。
アメリカもピューリタニズムを信仰(ピューリタン)でのプロテスタントだ。
ドイツ、スウェーデンもプロテスタント(カルビニズム、ルター主義)だ。

カソリック教会は中世的に表現すると教皇が上だから、皇帝の権力は認めない。
1077年の「カノッサの屈辱」という出来事があり、皇帝は教皇に頭を下げるのである。
言い換えれば大統領のリーダーシップは認めないという事になり、 逆にプロテスタントの国は大統領にお任せするという傾向が強く、二大政党で議論しあった結果には従うという政治体制だ。

では日本はどうなのかと考えると、 元来、日本の宗教は政治の中の一部に組み込まれていて、聖武天皇時代に東大寺を総本山に初代宗主を行其に定め、全国に国分寺、国分尼寺をつくって、仏教に帰依するのである。

神話の時代から八百万の神を敬い崇めていたのであるから、 リーダーシップを認めない文化が根ずいている。 言い換えるとカソリック教会は教皇が権力があり、 皇帝は世界にたくさんいたように、多数を認める。
逆に日本の多数政党(自民党派閥)ができるのと同じである。

イギリスの産業革命に始まった資本主義経済は一神教の世界観で、 科学主義、自由と民主主義を貫き発展したのも事実だ。
冷戦後の世界はイデオロギーの対立は、国家資本主義(中国)と 自由な個人主義(人間主義)、民主主義の対立となり、米中の貿易戦争に展開しているのである。

ヨーロッパではイギリスの欧州連合離脱問題が起こり、 中東ではイスラムのISがテロを引き起こしているのが実情だ。
マルクスが宗教はアヘンだといった時代から150年以上も過ぎる。
宗教を単に迷信だとか教条的な押し付けという時代でなく、 もっと科学的で現実の心の自立を可能にする哲学として考えられる時代になってきている。

今こそ科学と宗教が一体となる哲学観の時代であり、 それが行動の科学として演繹できる個性の時代であってほしい。

皆さんは宗教と科学が別物だと考えられますか?

2019年02月06日

「お裾分け」は恥の文化を形成し、独立自尊の人間力を養い助け合いの文化だ。

マンションに住んでいるんだが、意外とお隣さんに醤油を借りにいったりする事がある。
気前よく貸してくれて、お返しに何か気持ちだけのものを「お裾分け」といって菓子でも
つけて返す。
そう頻繁にはないが、近頃そんな事もなくなったと思っていたら、近所の78歳になるマダムが、自分の娘のように三女を可愛がってくれ、ケーキを焼いたりぜんざいを作ってくれる。

それが店頭で販売しても良いような出来で、品のある味と香りがする。
たぶん良質の食材を使ってると思っていたら、近鉄百貨店で仕入れているそうだ。
「お裾分け」はお互いさんの精神で、個人を主張するのなく、ご近所は家族のような
一体感がある。
実に居心地の良い文化が現代にもあると気分がよくなる。

さて、話題は変わるが、昨年の戦場カメラマン解放事件で議論されたのは「自己責任」だ。
もともと危ない事を承知で行ってるんだから、自己責任だとの論調が多くあった。
彼は記者会見で「記者としてと遠くで民間人の姿を見るのでなく、戦場下の中に入り民間人はどう扱われてるかを、体感して報道するのが記者の使命感でもある」と自己責任を
わかった上で語った。
でも、そこには功名心や記事の経済的な報酬にあったのではと邪推する人もいた。

日本文化には縄文時代から個人という概念はなく、社会が先にあった。
共に助け合う集団だ。
狩猟でとった獲物はみんなで平等に分かち合って分けるのが当然の世界だ。

「自己責任」は自分の人生を自分でデザインする欧米の社会の規範であり、個人がない日本文化では「恥ずかしい」という自己責任だ。
言い換えると「独立自尊」という人間力を高める意味が強く、寛容さと自己規制が働き、自分を高める意味合いが強い。

日本文化は強いものの味方でなく、弱いものの味方をする。
相撲の行司が言う「残った残った」は負けてる関取への応援である。
強きをくじく弱きを助ける事が立派だというのである。

最近は違ってきた。
欧米のような自己責任論で個々人の生き方を認めるのでなく、陰湿ないじめの現象のように個人を追い詰めていくような風潮を感じる。
自由と民主主義は個人を自由にするのでなく、追い詰めるような変質をして行ってる。
自ら反省する「恥ずかしい」の文化がどこかに消えていってしまったのではないだろうか?

皆さんは「お裾分け」の助け合い、どうおもいますか?