社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

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2018年04月26日

「ドラッカー」に思う。

ドッラカーは経営学というより、社会人間学といった方がぴったり来る。

成果を出すための技術論を語るのでなく、
そこに関わる人間関係を根底に据えての解決を導き出そうとする。実に痛快な感じがする。

言い換えると社会改革という視点より、 仕事に取り組む人間の目的意識や社会の要求を観察する。 人間の人間品質革命(人間形成)を突きつけてくるように感じる。

ドラッカーの言葉

「強みが成果を生む。 弱みはたかだか頭痛を生むくらいのものである。 しかも弱みをなくしたからと言って何も生まれない。
強みを生かすことにエネルギーを費やさなくてはならない。」

「働く人の判断基準が間違ってませんか?」と問いかけてくる。

古来、日本は易経のような陰陽一如的な考え方をする傾向がある。
「陽極まれば陰になり、陰極まれば陽になる」と陰陽のバランスが整うところを「時中」と言って、一番バランスが取れ、課題解決が的確にいくというのだ。

科学の方程式のように応用がきいて何度も使える正解があるわけではない。

ドラッカーの言いたい事を日本的に言い換えると、 ドッラカー的な相対表現でなく、
三つ(トライアングル)の表現になる。

1.眼に見える技術、商品、サービスの強みを徹底して掘り下げ常に革新、進化させる。

2.眼に見えない人間に対する「人心収攬」ができるということを同時にやるのが日本流。
それは弱みを見せる事によって他人に安心感を与え、 「キレ者も同じ人間」、また、仕事の新米なら、「解りません。後で調べて返事します。」と、 子供のように他人が感じてくれ、親近感を増すコミュニケーションのきっかけとなり、仲間や他人が心開いてくれる。

3.この三つめが一番大事である。 「弱音をはかない」(ネバーギブアップ)である。
弱みは見せても弱音を吐かない気概をもたないと、 独立自尊の責任ある社会人の資格がない。ドラッカーが言いたいのはこの三番目の独立自尊の精神という人間の品質だ。

曽野綾子さんが、 「してくれない」という言葉を口にする人は精神的老化が進んでる。 逆から言うと幼児性があるということだ。

ドラッカーの表現はわかりやすいが、 さらに深く彼が伝えたい真意を汲み取れば、 彼が親日家で白隠禅師の書を集めた意味がわかる。

皆さんはドラッカーの真意感じられてますか?

2018年04月21日

「儒教の世界観」を学ぶとき

日本の世界観は中国的でもないし、
朝鮮的でもなく神道をベースに易経始め、
四書五経という儒学と仏教特に禅を学び、独自に進化していった。

中国は諸子百家時代の儒教が形骸化してきた宗の時代に、
朱熹が朱子学を体系化する。
理気二元論の展開である。

近思録は幕末の薩摩藩でも学ばれた重要な朱子学入門書だ。
朱熹と呂祖謙がまとめた14章からなる書物だ。(詳しくは後日)

朱熹の「性即理」に反し「心則理」を説く
「伝習録」を著わしたのは、陽明学を唱えたのは、王陽明だ。
幕末の日本の儒学塾で多くの武士が学んだ。

明治になって、西洋により植民地化される脅威から、
漢籍より西洋の学問が学ばれるようになった。
日本のおもてなしの心や、茶道とか華道のような文化を生み出したのは、
儒学をベースに禅的思考が大きく寄与してることは間違いない。

今こそ、儒学の人間観や世界観を学び直す時が来たように感じる。

遺伝子の組み換えといった自然の基本構造まで立ち入った科学技術の進化は、
人間を含めた自然との調和が壊れていく危険性をはらんでいるのではないかと危惧する。

歴史を逆戻りはできないが、自然を変化させる技術によって社会を変革させる事と、
同時に、人間そのものが利己心を中心とした、物質の豊かさの戦いの世界観だけでなく、
互いが相補的に助け合う、精神の豊かさの人間形成を学ぶ事が重要になってきている。

アダムスミスは、「資本主義に倫理観がなければ暴走する」と言ってる。
言い換えると人間としての良識を磨く事だ。
具体的に学ぶべきは、江戸時代まで基本とされた朱子学や陽明学といった
儒学に違いない。

皆さんは儒学の世界観学ばれてますか?

2018年04月18日

「自分で選択した」こう考えるのが独立自尊

一休さんが蓮如さんにあてた手紙に「食べて寝て、寝て食べて」と書いたら、
蓮如さんは「ああしてこうして、こうしてああして」と返事を返した。
実に現実に生きる素直な人間の、行動の真実をついた会話だ。

ところが、われわれ凡人は善だ、悪だと分別して、どちらが良いとか悪いとか、
学歴があるとかないとか、お金を持ってるとか持ってないとか比べたがる。(分別知)

自分よりすごい人を見たら素直に「喜べない」で卑下したり、
自分より愚かなことをしてると思えば「馬鹿」にしてえらそうにする。
一休さんも蓮如も、言いたいことは、この「分別する知」を捨てて現実の行動を見よというのだ。

凡人のわれわれは相対的に〇✕を決めてかかって、二分化して考える癖がついている。
これを解脱して、現実の世界(一如、分別せず)を楽しく味わえと言ってるのである。
これがなかなかできないのも凡人のわれわれ人間の性だ。

さて、逆に自分に何か悪いことや良いことが外から起こった時の処理の仕方も重要で、
分別して考えると二つの対応が考えられる。

1.「他人のせいにする」言い換えると自分は悪くない、
愚痴ばかり言ってすべて他の人や環境が悪いと原因を探らない。

2.「自分のせいにする」言い換えると自分に自信がなく悲観的になって自分を責めて、
体を壊すか精神的にうつ状態になる。

ではどうする事が良いのかというと、「ありのまま」の現実を受け入れることだ。
「自分が選択した」という主体を持つことだ。
自分の意志で決めたことは勿論だが、
偶然に出あって相手から望んできた場合も「自分が選択した」と主体性的姿勢をとる。
これが「ありのまま」である。

勿論、良いことも起こるし、悪いことも引き受ける覚悟ができてることが独立自尊だ。
中村天風いわく「絶対積極」とは消極でも積極でもない相対を超えて現実に処す姿勢の事だ。
仏教で言う分別智を解脱し、無分別知を体得して明るく、ワクワク生きたい。

皆さんは「自分で選択した」という独立自尊の姿勢できてますか?