社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

2008年05月30日

「ウオ-クマンに思う。」

全国でも最高級の庵治石の展示会が香川県で開催された。 同業者で卸を生業とするH社長からウオ-クマンをプレゼントされた。 ポケットサイズの本体にヘッドホ-ンだ。 外界を遮断し、音楽の世界に浸る。最高の気分だ。 曲目が気が利いてる、1960年代1970年代のポップスに、 当時盛んになってきたフォ-クソングなどの懐かしい曲が入ってる。 H社長は大変な努力家で、行動力もあり、仕事熱心な人だ。 息の抜き方がわからないぐらいの人柄だ。 疲れがたまってきたりして飛行機に乗ろうとする時など、 急に動悸が激しくなったり、息苦しくなるそうだ。 部下のコンピュ-タ-に詳しい人が音楽でリラックスするようにと、 出張に用意してくれたそうだ。 中国での会議や、飛行機の移動も快適だったことはいうまでもない。 この経験から、今回のプレゼントになったらしい。 早速、帰阪する車の中で使ってみた。 時間が逆戻りしたように青春時代に帰り、気分は爽快になった。 情報が満ち溢れ、新しいものがどんどん生み出される現代こそ、 音楽が大切なように思った。 文学のように学ぶとつくと集中や緊張が伴う、 しかし音楽は音学とはかかない、なぜか楽しむと書く。 呼吸に例えれば吸うのが学ぶことだろう。 逆に吐くと筋肉が緩み、発散しリラックスした状態になる。 呼吸は意識しないが、やりすぎると身体は反応するんだろう。 『学』と『楽』が呼吸のように一日の行動の中でバランスが取れたらストレスはその日のうちに解消だ。 『楽、遊、休、止、寝、考えない』こんなキ-ワ-ドこそ大切だ。何か目的を達成するには!! みなさんはいかがですか?

2008年05月29日

「『六方礼経』について」

これは御釈迦さんが資産家の父を亡くしたある青年に、父親の残した財産を失わずに、 人間らしく生きるために守るべき事を具体的に説いたものと伝えられてる。 薬師寺では六方礼拝として、食作法のなかで唱える。 東を向いてお父さん、お母さんご先祖さま 南を向いて人生こしかた先生 西を向いて夫妻子供兄弟姉妹 北を向いて友達 下を向いて仕事を手伝ってくださる人々 上を向いて神仏 謹みて六方を礼拝し奉る 要するに六種類の人間関係を言う。 その中でも大事なのは『友人』との人間関係だ。 なぜならば、御釈迦さんは弟子の質問に答えて『友がすべてだ』とおっしゃってるからだ。 その態度は同時だ。 親鳥が卵の殻をくちばしで突付く、子は必死に卵の殻を破るために中から突付く、 これを『卒啄同時』、とか『啄卒の機』という。 同時=相手の気持ちを察し相手に合わせることだ。 元来、元気で病気などしたことなかったが、 たまたま病院に患者として入院することになった。 患者の目線になり治療、看護を受けた経験をした。 医師、看護士さんの患者目線にあわせてくれることが心地よかった。 そのときは天使に見えた。 もう二年もたち、健康を回復した今、六方を礼拝し同時が出来てるか? 親子、師弟、夫婦、友人、上司と部下、聖者と衆生に!! 自分がどちらの立場であっても相手の目線になってるか、自問自答する。 「喉もと過ぎればなんとやら-------」反省を込めて、他者を愛することが大事だ。 仏教では『愛』については執着ととらえて肯定的には言わないが、 鎌倉時代の無住禅師(臨済宗)は、 『愛は事なり』 訳すと『愛とは相手に合わす心』と肯定する。 お世話になった先生、看護士や両親、上司、友人、子供に感謝と愛だ。 今日は自分へのメッセ-ジとしよう。

2008年05月28日

「入社三年生のA君の言葉」

「最近の若者は器量が小さく、挑戦的な勇気がなく頼りにならない、学力だけで人格が出来てない」 古今東西の昔から、今の若者はと頭から決め付けて、 酒の肴にするのが大人の決まり文句だ。 ところが、S課長の部下のA君は違う。 この課長は本気でとことん面倒見るが、 心の奥底まで入り込み捨て身で指導する。 人は十人十色だから、中には逃げ出す人もいる。 ところがみんなには愛されてる。 それは「動機が善」だからだ。 一人前になるために道術一如だと現場でOJTをやる。 この熱血上司から、実はA君がこんなこと言ってきたと報告があった。 1)お金という物差しを捨てる 2)時間のものさしを捨てる 3)自分の我を捨てる この三つだ。 もちろんなぜかと質問した。 入社当時は、 1)自分が行動したら、時間当たりいくらとかお金で何でも計ってたそうだ。(結果も関係なく) 2)時間もそうだ、仕事が終わろうが終わろまいが時間で仕事と生活を区切る。  だから夜遅くなるとモチベ-ションが下がるどころか、やる気が出ない。 3)誰から話を聞いても、自分ならこうすると思って聞き入れようとしなかった。  (もちろん自分の考えだけで、結果が思わしくないことが続いた) そこで、だまされても良いから、 先ず上司や他人の言うこと聞いて、まねしてみてから自分で考えよう(受け入れる)と決心したそうだ。 自分でやってみて判断して受け入れる。(パワハラの上司でもなく、だましたり利用する人でない!!) 「素直」というのはA君のためにあるようだ。生まれたままの赤ちゃんのような気持ちだ。 この素直が発展進化の原動力だ。今若い人の間でよく読まれてる松下幸之助語録の中でも、 特にこの『素直』を大切にしてかかれてる。 道元の言葉に、 『自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、  万法に証せらるるなり。万法に証せらるるはというは、  自己の身心、および他己の身心をして脱落せしむるなり。』 これを簡単に訳すと「仏道を学ぶということは、 生まれてからこれまでに身につけた知識や経験、思慮分別をすべて捨て去ることだ。 それが何事も包み隠してない、清浄な自分自身である。自分が清浄な状態で人に接することが出来れば、 接した人もまた清浄になる」という意味だ。 ところが、若くても自意識の強い人や年をとって多くを知りすぎて捨てれない人は、 つい『今の若者は!!!!』 自分の思い込みで行動する若者に、過去の経験を押し付け頑固な親父が浮かんできた。 これ自分の過去と今の自分だ。捨てなければいけないのは自分だと教えられた。 A君に脱帽だ、将来どんな人物になるんだろう。 皆さんはいかがお考えですか?

2008年05月27日

「もう人間は一人ぼっちではない・坂村真民」

『もう人間は一人ぼっちではない』 涙にぬれた顔をふこう 悲しみにぬれた瞳をぬぐおう 不幸にぬれた手をあらおう ひとりでいつまでも苦しむことはやめよう みぎにもひだりにも 友がいる まえにもうしろにも 友がいる ひとりで嘆く時代は過ぎ去った 結びあおう 手を取りあおう どんな時でもひとりで泣くのはやめよう もう人間はひとりぼちではないのだ    坂村真民 こんな奇麗事言われても現実は一人ぼっちだ。 誰も助けてくれない、弱肉強食で勝たなければやられてしまう。 こんな理想論で生きれるわけがない、こんな風に考えるのが当然だと考える人もいる。 しかし、ある人にこんな言葉を教えてもらった。 「井戸が水脈で繋がってるように、命は深いところでみんな繋がってる」 この言葉を聴いたとき、ハッとした。 自分の中にも奇麗事だとどこかで思っていて、払拭しきれない自分がいる。 地表の井戸の大きさや本数ばかりにこだわって、 自分の井戸が小さい大きいということのみに感心のある自分が見えた。 地中で繋がってることなど全く創造もしなかった、 目に見える世界だけで考え行動していた利己心の塊だ。 井戸も事実なら水脈こそ根本的な事実だ。 目に見えるか見えないかの違いで、創造力を働かさないとわからないことだが!! 水は万人に天がくれた恵みだ。分かち合い大切にしあう。 こんな簡単なことが出来ない。 戦後は三利主義といって「営利、便利、権利」を求めすぎてないだろうか? 「不営利、不便、無権利」は自然がくれたものだ。 人間は三利を求め、自然は三不利で人間への無償の愛、与えるばかりだ。 自然に甘えて成り立った人間の幸せは自然がゆり戻しを余儀なくする。 ミャンマ-のサイクロン、中国四川の大地震は自然からの人間への警告だ。 人間は自然に生かされてる存在だ。自然の回復力以上の欲は慎まなければならない。 この境目がわからない、各国の国のエゴがぶつかってるからだ。 水脈は想像しないと気がつかない。 水脈を大事にすることは、 言い換えると地球レベルの共生音楽を奏でる仕組みつくりを、 全世界の国々が利害を超えて取り組みことだ。 京都議定書の環境問題で、世界のCO2の削減が経済投機の商品になってるのは、 どこかおかしく感じるのは私だけだろうか? 偉そうな事言うがお前は何をしてるんだと問われれば,ゴミの分別、 ささやかですが両隣りのゴミ拾いや、 アイドリンクせず車のCO2を少なくする。先ずできることから!! 世界の人はみんな繋がってるんだ。 皆さんはいかがお考えですか?

2008年05月26日

「草枕・夏目漱石」

23歳の秋、ススキが一面に真っ白な絨毯のように敷きつめた 曽爾高原の山を登り、人生の挫折に悩んで読んだのが草枕だった。 1906年、漱石39歳の胃カタルに苦しんでいた時に発表されたものだ。 あれこれとまだ見ぬ未来に夢をはせながら、何度も読み返したのを昨日のように覚えている。 『山路を登りながら、こう考えた。  智に働くば角が立つ。情に掉させば流される。  意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。  住みにくさが高じると、安いところへ引っ越したくなる。  どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。  人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。  やはり向こう三軒両隣りにちらちらする唯の人である。  唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。  あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。  越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、  束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という転職が出来て、ここに画家という使命がくだる。  あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするがゆえに尊い。  住みにくき煩いを引き抜いて、有り難い世界をまのあたりに写すのが詩である。  あるいは音楽と彫刻である。細かく言えば写さなくてもよい、只まのあたりに見れば、  そこに詩も生き、歌も湧く―――中略―――各人生を観じえるの点において、  かく煩悩を解脱する点において、かく清浄界に出入しえる点において、  またこの不同不二の乾坤を建立しえる点において、―――中略―――  千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。    世に住むこと二十年にして、住む甲斐ある世と知った。  ―――中略―――少し食えば飽き足らぬ。存分食えば後が不愉快だ。』  後はみなさん「草枕」を読み味わってください。  決して虚無的な傍観者でもない。  実に仏教的な中庸を踏まえた誰にでも経験のある心の揺らぎをうまく表現してる。  地に足が着いた文人としての覚悟がある。  俺は何をしたいのか?  迷ったり、横道にそれるからこそ見えるものがある。  真ん中なんて計って計算できるものでない。  「ころあい」「あんばい」がわかり、できることだ。  今読み返しても新鮮に聞こえるのは私だけだろうか?  皆さんはいかが読まれましたか?

2008年05月25日

「好き嫌いは自分がつくる。」

『誰にでも好き嫌いはある』と語るのは、花園大学名誉教授の西村恵信先生だ。 ところが、この自分で決めた好き嫌いであるにもかかわらず、 相手の人や物に何の責任もないのに、自分の好きなものは『善いもの』であり、 自分の嫌いなものは『悪いもの』と、勝手に決めてしまうのだから人間は罪深い。 世の中にあるものはただ『存在してるだけ』で、それ自体には、 善いとか悪いとか、美しいとか醜いとか言って比べる相対的な価値は持たず、 価値中立的である。 なのにわれわれは好き嫌いという執着を起こし、勝手に苦しむんだという。 至道無難禅師はおっしゃる「ただ好き嫌いを嫌う」そうすれば、 さらさら生きれて人生の道に至るのは簡単だ。理屈ではそのとおりだが、 実際その心境を作れなければならないのだ。さて、どうするかだ? 禅者は座禅によってニュートラルになるのだろう。 西村先生のおっしゃることも事実だ。でも、現実には比べる自分が無意識に出てくる。 ニュートラルな自分でありたいと願うのはごく自然だが、 これが実生活の中ではなかなか体得できないのも現実だ。 ベンジャミン・フルフォードがこんなことを言っている。 「やっぱり魚が飛び跳ねるまでは水の存在を知らないのと同じように、 文明を出ないとその文明が見えないと思った。」 どっぷり自分の価値観の中にいると自分が見えなくなるんだ人間は!! 今やってることから飛び出て違う場所に行くか? 気分転換に自分の好きなことやりますよね!これって元の木阿弥? みなさんはニュートラルにするにはどんな工夫されてますか?

2008年05月16日

「論語・孔子 市側二郎さんの解説」

論語を片手に経営をやった人物はといわれたら、渋沢栄一を思い出す、 最近ではワタミの渡邉さんだ。市側さんは経営という視点より、 ビジネスマンとして、どう社会と向き合い、 自分と向き合うかという視点で訳されてるから実に面白い。 『言うべきことは言って和を保つ』 先生が教えられた。 出来る人間は協調を大切にし、 競争原理を肯定する。 出来ない人は競争を好まず、 協調も恐れる。 こんな風に訳された論語を紹介すると、 『子曰く、君子は和して同ぜず、      小人は同して和せず』 子路第十三 こんな訳をするのは現実に生きて、 どうしようもない事実を受け入れ、自分を励し、 孔子がまるで自分の師匠か親のように、社会、人生の道標を、 教えてくれてるという立場での解釈だ。 だから、読んでいて、何か自分の生き方とダブらせることが出来る。 さて、もうひとつビジネスマンとして訳者が自分に言い聞かすかせてる論語を紹介する。 『自分の生き方を大転換する勇気を持て』 先生が指導された。 ビジネスマンはどっしりしていないと、得意先に信服されず、 学んでも迷うばかりで身につかない。 誠実をモットーにせよ。 価値が大きく隔たる男は、友人として好ましくない。 間違いがあったならば、体面など考えず、さっさと改めよ。 子曰く、 君子重からざれば、すなわち威あらず、 学べばすなわち固ならず、 忠信を主とし、己に如かざる者を友とするなかれ。 過てばすなわち改むるに、憚ることなかれ。    学而第一 何か失敗でもしたんだろうか?辱も外聞も今捨てる時だという決意を感じる訳だ。 欧米人は神を恐れ敬う、日本人は世間を恐れ敬う。 だが今その世間が壊れてる。経済界では会計基準までが欧米化し、 評価の基準が違ってきてる。当然あるべき人物評価も違ってくる。 日本文化には奥ゆかしいく謙虚で頼りがいのある人が本物の人物だという価値観があった。 遡って、孔子の時代の人物像は、 貫禄があって、威風堂々とした、 世間体を気にせず信念に従って行動し、 それも志の高い人物。 さて周りにいますか? いやいや、他人事じゃない。 市側さんのように、論語を味方につけて、自分を育てることだ。 みなさんは論語どのように読んでますか?

2008年05月15日

「自分から自由になる沈黙入門・小池龍之介」

『自分のヨクボーは、おしゃべりすぎて、うるさいのです』 『自分のイヤイヤは、主張しすぎて、うるさいのです。』 『自分のマヨイは、落ち着きなきゆえに、うるさいのです。』 人間として生まれたら、こんな自分があるのが当然だ。 でもうまく生きぬくにはコツがいる。 彼は言う。 『少しだけ、静かに。』 『少しだけ、上品に。』 『優美なる沈黙を、手習いしてみませぬ、か。』 人間とは元来過ぎるものだ。 言い過ぎ、食べ過ぎするのだ。逆の過ぎる人もいる。 言わなさ過ぎ、食わなさ過ぎだ。 沈黙が良いからといって、しすぎたら逆になる。 沈黙は休止符、沈黙は潤滑油として働いた時、生きる。 ヨクボー、イヤイヤ、マヨイをしつける自分を作ること。 肩に力入れず、ごく自然に、優雅に!! 出来てますか?と問われれば、三毒(貪欲、怒り、愚痴)の真っ只中と答えるしかない。 私は自分自分と行き過ぎてることだけは確かだ! 生きるエネルギ-(=利己心)を否定しないで、 人間関係を、生きるコツを体得する、沈黙の意義には共感だ。 みなさんは優美なる沈黙できてますか?

2008年05月14日

「凧を引っ張りましょう。」

あるとき子供を亡くしたお母さんが、 『私のこの苦しみ、子供と代わってあげたい悲しさ、何とかして欲しい』と、 お釈迦さんに懇願しました。 いちもにもなく、お釈迦さんは『わかりました、救ってあげます』一つだけ条件があります。 『この村で死人を出したことのない親をつれてきなさい』 数時間後に子供を亡くしたお母さんが帰ってきました。 もちろん『誰もいません』お釈迦さんは『苦しみ、悲しんでましたか?』 そのとき、はっと気づかれたそうだ。 こんなたとえ話で人を救われたそうだ。 日本電産の永守社長もたとえ話がうまい。 永守社長が『ここ数年好況が続きましたが、ついに不況が来ました。 凧揚げといっしょで、やり方しだいで会社は伸びる』 好不況の波を風に例えられたんだ。 風が強い時(好況時)は立ったままでも労せずして凧は揚げれるが、 ひとたび風を失えば(不況時)凧は失速して落ちる。 今は風がだいぶ弱まってるが、まもなくなくなるだろう。 そのときわれわれがすべきことは何か? アメリカ発信のサブプライム問題で経済の停滞的状況では、 われわれも同じく風を失ってる。 そんなときは凧揚げるには自分が走るしかない。 弊社では5S、ISOの品質と環境に取り組んでる。 方向は決まった。 筋肉質な体質を作るのにはもってこいの、風の具合と活動方針だ。 風が吹き出すときまで凧を引っ張りましょうというわけだ。 好不況に一喜一憂しない柔軟な永守社長の言葉を引用させてもらった。 皆さんはたとえ、話上手ですか?

2008年05月12日

「小野田自然塾に思う」

小野田さんといえば29年間、フィリピンのルバンク島で軍人として生きた人だ。 そして日本に帰ってきたのが1974年のことだ。 日本中が戦争を思いかえした事件で、 彼に対しては多額の見舞金が送られてきた。 この見舞金はなくなった戦友がもらうべきだと、靖国神社に寄付した。 その理由は『自分には同情は要りません、働けばいいのです』 其の行為が軍国主義だのどうのと揶揄された彼は、 日本に居たくないとブラジルに渡って、牧場を始めた。 53歳だった。 一からの出発だ、ブラジルという異文化の地で生きる。 彼は言う『生きるというのは自分の持ってるものを捨てて、相手の文化に溶け込むことだ』 続けて、『人間は目標がなければくじける、自分を切り捨てることが出来ないと悩み苦しむ、 目標があるから切り捨てられる過去の自分を!』 ブラジルに渡って10年後に日本の青少年を育成することが大事と、 自然塾でキャンプを通じて未来をになう若者を教育する仕事をやりだした。 今で20年になる活動だ。 そのキャッチフレ-ズは『親が変われば子は変わる』だ。 約7000人のボランティアが集い、20000人の卒業者を出した。 確実にその若者は全国で活動してる。 それにつけても、子供が悪いのでなく、親が悪いといいたかったのだ。 心を語れない親、叱ることが出来ない親、希望を語れない親、 ほめて育て、知育だけ肥大化するのが教育ではない、 自然界はそのことを教えてくれる無言の教師だ。 小野田さんの言いたいことはここだったのではないだろうか? 面識はないが『あなたの子育て間違ってませんか?』と、 問われてる気がするのは私だけだろうか? みなさんいかがですか?

2008年05月11日

「がばいばあちゃん」

一昨年の正月のテレビ番組で、和泉ピン子が演じた島田洋七のおばあさんの話だ。 お父さんがなくなり生活のために、母の実家の佐賀のばあちゃんに育てられるスト-り-だ。 洋七は学校の成績が悪く、ばあちゃんに叱られるかと思っていたら、 『成績悪くても良い、学校には教科書があるが、人生にはモット分厚い本がある』 といって叱らなかったそうだ。 幼い洋七は理解できなかったが、その後『それは人だ』と気がついたそうだ。 その中でも、ビ-トたけしとの出会いでいろいろ学んだという。 ここで、がばいばあちゃんの言葉を2、3紹介しよう。 「お金より大事なもの見つけたら幸福なんじゃーそれは夢じゃ」 「人間は死ぬまで夢を持て、夢かなわんでも、所詮夢は夢じゃけん」 「悲しい話は夜するな、辛い話も昼すればなんということもない」 「人がこけたら笑え、自分がこけたらモット笑え、人間はみな滑稽やから」 難しい漢字も、言葉もありません、 具体的な対処方法だ、人生で自分が苦しんだ時の!!! わかってるが、自分の面子にこだわったりや自分の価値観と違うと排除しようと思ったり、 感情的に受け入れられなくて気分が悪くなるのも、凡人のわれわれとしては当然だ。 ばあちゃんも自分に言い聞かすように洋七に語ってたのだろう。 洋七の言葉を借りると『ばあちゃんは仏壇に向かってぶつぶつぼやいていたそうだ』 先に亡くなられたご主人にだ。『あんたは気楽でいいな、私一人置いといて、ブツブツ』 なんていってたのだろうか? 御釈迦さんは『生老病死』すべて苦しい『一切皆苦』と思えとおっしゃってる。 そう思えないから、がばいばあちゃんの対処法がわかりやすく聞こえる。 みなさんいかがですか?

2008年05月09日

「『幸福とは自分を勘定にいれず生きる』こと」

どんな人も思いどおり生きてるんだ。 好きなことをして、嫌いな人とは会わない。 雨の日には出かけないか?傘をさして出かけるか? 正確に言うと、思いどおりに選択して自由に生きてるという事だ。 私たちの自由とは、『雲を消す』とか、 自分ではどうしようもない『他人の意思をかえる』とかという、 奇跡的なことが出来ることではない。 何事も自由自在に出来ることを自由と錯覚してるだけなんだ。 そんなことは出来ない、ときっぱり考えることだ。 それでも人間は科学と称して、実験によって法則を導き出し、 理論化して応用しようと神業を考え出す。 いまや遺伝子まで組み変えるとか変えないとか? さて、自由の反対が束縛だ。 自然という法則に束縛されてるし。 社会というル-ルに束縛されてるのが現実だ。 いや自分の肉体という範囲にも束縛されてるし(鍛えることによって範囲は伸びる)、 自分が形成したと思ってる価値観(学ぶことによって広がり深まる)にも束縛されてるんだ。 ある人はこの束縛に対する解除方法が二つあるという。 1)対象に成りきること。(たとえば自然法則に逆らわないで風なら風になる、   また、他人なら他人に成りきること) 2)行為に成りきること(よく禅宗では、風呂に入れば風呂に入り、   歩く時は歩く行為に集中するんだと教える) 仏教修行者が、成りきることを『入我我入』といって、 仏に飛び込んでいったのか、仏が自分に入ってきたのかわからない、 一体化した状態をさす言葉だ。 体得しないとわかりません。 洞窟で座禅中に空海さんは、あけの明星が飛び込んできたと伝えられてる。 幸福であることも、また同じだ。 自分という未熟な価値観という理屈をもって区別したり分別してると、 自分より上があったり、下があったり横があるから腹が立つ。 だから幸福と感じたり、不幸と感じるのは当たり前だ。 先人は『幸福とは自分を勘定にいれずに生きること』と言い放つ。 生身の人間には出来ないと言いたいが、 自分自分とミーイズムが大手を振るう現代には、 味わい深い言葉だ。 せめて自分を二番か三番に置くぐらいの辛抱と謙虚さが求められる。 『敬天愛人』とは西郷南洲さんが好んだ言葉だ。 天の法則に畏敬の念を払い謙虚に学び、 人を愛するしか人間界では住めないから当然だ。 もし人間を憎み愛さない生き方をするとすれば、人でなしの国だ(鬼か悪魔の国かな)。 みなさんいかがですか?

2008年05月08日

「ありがとうの心新聞・近藤博さんより」

今回でこの新聞が発行されて、155回になる。 いつの日からか私に送ってくださる、感謝だ。 いろんな問題を取り上げ、読む人の豊かな心を願って書かれてる。 今回は船場吉兆の問題を考えさせられる内容なので書くことにする。 本文をそのまま転載させていただく。 『人格を磨くという世界』 『頼まれごとや喜ばれることをどんどんやっていきますと、結構時間が足りなくなりますよね。 忙しくなります。忙しいという状態は、英語でBUSY(忙しい)+NESS(状態)ということであり、 BUSINESS(ビジネス)という言葉は「忙しい」を名詞にしただけなんですね。 そこにはお金を稼ぐという概念はないようです。 つまり、仕事(ビジネス)とは頼まれごとや、喜ばれることにわが身をおくということになります。 中略・・・・・・ただ淡々と頼まれごとをやっていくのは、 人格を磨く、品性を高めるという世界だと思えるようになってまいりました。』 常に真摯に自分や心を見つめられて一生懸命行動されてることに感服だ。 『動機善なり、私心なかりし』といわれてるのは稲盛和夫京セラ名誉会長だ。 われわれ職業人は利益を儲けることを正当化する傾向にある。 しかし、儲けるには道ありだ。 お役立ちの結果利益になればいいという商いの王道を願う良心への警告だ。 洋の東西は問わず、仕事は役立つことをすることが大原則だ。 自分ができてるかどうかは他人に判断をゆだねるか、事実が証明だ。 吉兆の問題は他人事ではない。同じ職業人として自分のことと受け止めてこそ意義がある。 今、5SやISOの社内活動を通じて、 モット役立てることの品質を高め喜ばれることを目指し努力を惜しまないで実践する。 反省反省!!!『言うは易し行うは難し』身の引き締まる記事だ。 みなさんはどう思われますか?

2008年05月06日

「森信三先生に学ぶ」

1992年97歳でなくなられた。 明治29年愛知に生まれられた。33歳の時『二宮尊徳翁夜話』 の冒頭の『天地不書の経文を読め』という言葉に開眼され、 なくなるまで、学問と教育に生涯をかけられた先哲だ。 しつけの基本三大原則 1)朝のあいさつをする子に・・・それには先ず親のほうから誘い水出すこと。 2)『ハイ』とはっきり返事の出来る子に・・・それには母親が、                      主人に呼ばれたら必ず『ハイ』と返事をすること。 3)席を立ったら必ずイスを入れ、ハキモノを脱いだら必ずそろえる子に。 ただ、これだけのことがきちんとできることだ。何も難しくない。 われわれ小さいころは当たり前のように、母親からやらされた。 これは社会人として生きるための最低のマナーだろう。 先日も薬師寺のトイレに行ったら、『草履は出船のように』と書かれてあった。 次来られる人のためには当たり前のことだ。日常生活で出来てるかが問題だ。 さて、現実の社会に出て一番厄介なのはコミュニケーションだ。 人間関係を作ることだ。 森先生は三大原則の実践すれば難しくないと言われる。 1)時を守る 2)場を清める 3)礼を正す。 1)時は社会生活するうえで、時間を守ることが相手に損害を与えないということだ。   社会のものさしが時間だからだ。時間で生産を測るからだ。 2)場は整理整頓だ。必要なものを必要なだけ、また誰しも清潔なとこを好む。   まさに、無駄、無理、ムラがなくなるのは整理整頓清掃からだ。 3)お世話になったり、助けてもらったりしたら必ず、   何らかの手段で礼をつくす心構えを持つことだ。   『恩は石に刻め』ということわざもある。    社会の基本は信頼関係で成り立ってる。   信用は互いが礼をつくすことだ。 どんな時もいつでもこれが実行できることが、社会人としての原則だ。 最後に人間の智慧とはと先生がおっしゃられてることを披露しておく。 人間の智慧とは 1)先の見通しがどれほど利くか。 2)またどれほど他人の気持ちの察しがつくか 3)その上何事についても、どれほどバランスを心得ているか ということだ。 実にシンプルな教えだ。無意識に出来るまで意識してやるしかない。 良い事知っていてもできなければ役に立たないのだ。 皆さんは知ってますか?できますか?

2008年05月02日

「シェ-クスピアと道元Ⅱ」

道元禅師の『正法眼蔵』に、 『一日示にいわく、学道は須らく悟我をはなるべし。  たとひ千経万論を学し得たりとも、我執をはなれずば、  ついに魔坑におつ』 魔坑=悪魔の穴の中 道元さんは必要に我執を取れ、自分をはなれという。 それができたら苦労はしないといいたい。 でもそれのやり方をうまく表現する人がいる。 もちろん道元さんと同様面識はない。 その人はシェ-クスピアだ。 作品の中でも好きな喜劇『お気に召すまま』の台詞のなかにある。 この話は知的で快活な女性ロザリンドが男装して恋人をからかう、 明るく伸びやかな喜劇だ。 彼は悲劇で有名なのだが、私はこれが好きだ。 この台詞は、25年前に西宮のピッコロシアターで演劇の監督をやっていた、 田中収さんに教えてもらった。 ほんとに演劇が好きで本が好きな人だった。 台詞はこうだ。 『全世界は一つの舞台だ、そこでは男女を問わぬ、  人間はすべてが役者に過ぎない』 ペルソナとはパーソン(個人)の語源の言葉だ、 意味は仮面という意味だ。 人間はいろんな場面で色んな役を演じ仮面をつける。 演じる自分はあるが自分が無いのだ。 西洋人は実にうまく表現する。 道元のように我執を捨てろといわれると、 自分をリセットして存在を無くすことのように受け取るか? 傍観者で現実を眺めるだけの虚無になる。 世の中では、親になったり、上司になったり、夫であったり、 企画者であったり、監督であったり、色んな役を演じ仮面をかぶる。 夢中になって、自分を忘れて。 実にわかりやすい、シェークスピア的表現は!! 道元さんにいちゃもんつけてるのは不遜だと心得てますが? 皆さんいかがでしょうか?

2008年05月01日

「イチロウが道元に見える」

道元禅師は会ったことがないのでどんな人柄かわかりません。 『正法眼蔵』の中に記されてる言葉をあげると、 『仏道をならふというは、自己をならうなり。  自己をならふというは自己をわするるなり。  自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。  万法に証せらるるといふは、自己の身心および  他己の身心をして脱落せしむる』 万法=あらゆる存在。 証=さとらされる。 脱落=自分と他人の区別がなくなる。 イチロウがバッターボックスに入った姿を思い出す。 彼はきっと、ここで打とうとか?観客が喜ぶだとか? あるいは自分の記録を伸ばそうとか? こんなこと思っていたら、自分にとらわれ集中できないはずだ。 彼はひたすらボールを見ることに集中してるのだ。 もちろん、ただ集中しているだけではない、万法とは野球では、 ピチャーの球筋や、温度、風、守りの甘い場所を感じることだ。 自分に一切関心を持っていない状態で、外部に集中してる。 自分がどう思われようが、辱かこうがかくまいが自分を忘れてる。 この瞬間が自分を忘れるという状態だ。 子供のころ誰でも経験がある無我夢中でボールを追っかけた姿がダブる。 大人になっていろいろ考えすぎて、無我夢中になれない自分がいる。 私には出来ない、野球では。 しかし、自分の仕事の中では出来る気がする。 どんな人もそんな瞬間はあるが、意識していないだけだ。 禅では真理とは『今ここ自己』と今の瞬間、瞬間に生きる。 無邪気に無我夢中に、自己を忘れて!!! 道元さんが生きてたら、わかったようなこと書くな! 『黙って座れ』 理屈を言わんと行動や!!『冷暖自知』(寒い暑いは自分で知れ)!! と、怒られそうだ。 でもイチロウが道元に見えるのは私だけだろうか? みなさんどう考えます。