社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

2009年05月29日

詩集「さながら」 里 みちこ

    「なくす」

「忙」しいと
   こころを亡ぼす
 こころを亡くしたとき
   「忘」れる
 こころを忘れたとき
   「放心」
 わたしを忘れたとき 
   「無心」 
 わたしを
    無くしたとき
   「無私」

〔急ぐとこころがおいてきぼり〕 

ほんとに人間は「無私」になるには努力がいる。
自分自分が捨てられない、
善悪や損得の分別から解放されない自分がいる。

      「しあわせ」
逃れたくなったのは
     規格品の仕合せ
触れてみたかったのは
     規格外れの
         幸福
そうしてやっと掴んだのが
     わたしの
        しあわせ

〔青い鳥の見つけるまでの長いこと長いこと〕

人間は今ここに自分を取巻くしあわせがあるのに、
不平不満ばかりで、外に理想ばかり押し付ける。
自分が理想に努力してやればすむことが!!

ほんとに良くしてくれる身近な人に感謝の念をもって接することだ。
今ここで働き生活し人から頼られる自分がいることに気づかず!!!
頭で考えてばかりで一歩も行動しない自分がいる。

白隠禅師の「坐禅和讃」のなかに、
「衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ
 たとえば水の中に居て、渇と叫ぶが如くなり
 長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず
 ---------」
この逆が体感できないのだな!
自分という「我」と「理屈」で考える癖がついてて!!

皆さんは如何感じられますか? 

2009年05月26日

形見の書

先日、昨年なくなられたBさんの奥さんから、
主人の形見にもらってもらいたい書があるという申し出をいただいた。

学生時代から京都・天竜寺に襌の勉強に50年近く通っておられた。
また奈良・薬師寺の故高田好胤管長とも親しかった人だ。

いろいろ見せていただいて、ご本人の書があった。
「手を打てば、ハイと答える 
   鳥にげる
    鯉はよりくる
        猿沢の池」とかかれてる。

立場によって同じ手の音の聞こえ方が違うと言うことだ。
古来中国では「一月三舟」と表現する。
その書をもらって、大変うれしかったので「うれしい」と書いて礼状を出したら、
返礼のハガキをもらった。

わたしも「うれしい」
「半人前で」がんばりますと書いてあった。

そのハガキには、
「里みちこさんの詩」が書かれていて、感動したので紹介させていただく。

   絆の道
「この道は畦道誰のもの
  並んで通れぬ 細い道
 お先にどうぞと譲りあい
  歌とあなたと歩く道
 前になったり後ろになったり
  風とあなたと歩く道
    ともに伴い歩く道 
 そうして絆が
      生まれます
 わたし一人じゃ
      半人前
 あなたと生きて
      一人前」


皆さんこの詩、如何感じられますか? 

2009年05月24日

怒ってる人対処法・お釈迦さんのユ-モア

人間の三毒(貪・瞋・痴)の一つが怒りだ。
利己心のなせる業だ、
自分の思いどうりにいかないと怒りくるって怒鳴るのだ。
修行の足りない自分には耳の痛い話だ。

2500年前は「俺は悟ってる」と一人聖者も横行してらしい、
またインドではカースト制度といって、
バラモン(バラモン教の司祭)が一番偉い身分とされた。

あるときバラモンが御釈迦さんを厳しく罵ったそうだ。
この対処方法がユーモアだというのは、
アルボムッレ・スマナサーラさん(スリランカ初期仏教長老)だ。

そこで御釈迦さんは罵倒するバラモンに質問した。
「自分の家に来るお客さんのためにご馳走を用意したのに、
お客さんが現れなかったら、そのご馳走をどうしますか?」
バラモンは即座に「家族といっしょに食べます」と答えた。

御釈迦さんは続けて、
「今、あなたは私に非難・中傷・侮辱などの接待をしましたが、
残念ながら、私は受け取りません。
だからどうぞその非難・中傷・侮辱は、
あなたたちご家族で受けてください。」

怒りを抱いたら自分が燃える。(動機が不善の発憤だ)
怒りを受け取らなければ、相手が総て受け取ることになる。

わら人形のように釘を打たれてもニコニコしてる人は心を汚すことがないという。
御釈迦さんは心をいつも明るく清らかにすることを大切にされると言うのが結論

この態の交わし方は高度すぎる。
普段は利他行で動機善の行動に集中することで自分を納得させれるが、
突然現場で怒りだされたら、間違いなく怒るに違いない。(未熟な自分)

皆さんは如何態度されますか?

2009年05月22日

会社の主役は誰

1900年には共和国は世界で三カ国だった。
現在は正確にはわからないが、世界180数ヵ国が民主主義の国家運営だ。

もちろん主権は国民だ。
さて一方、会社は誰のものか?

この100年に一回の不況はアメリカのサブプライムのファンドによる金融恐慌だ。
世界中が金利を稼ぐことに熱中した結果だ。
その根幹にあるのが会社は株主のモノという論理だ。
言い換えると資本の自由で、金利稼ぐことの正当化だ。
昨年の9月以降、世界中でファンドの取引の透明化や届出の義務などの規制を強化した。

単純に資本主義を容認するとそうかもしれないが、
国が国民のものという世界的民主主義が現実の昨今では、
会社は誰のものなのか、再定義が必要だ。

さすれば、会社の主役は従業員だというのは、
日本生産性本部の牛尾治朗さんで、
「従業員資本主義」と表現される。

21世紀の経営は自然と共生し、
人間の心を大事にする時代だからだというのが理由だ。

人間をコストと見るんでなく、
IT、BT(バイオ技術)を中心とした技術革新をし生産性を上げ、
人間的教養や人間の心をつくる徳育を大事にした人材育成し、
ワークバランス(仕事と生活の調和)をつうじて、
一人一人の人生をより質の高いものにする経営が望まれると結ぶ。

私の目指すものも牛尾治朗さんと同じだと確信した。

また古来中国の孔子も、
論語に「利によりて行えば、怨み多し」
「営利、健全、公共」は会社の三つの目的で、
近江商人流に言うと三方良しを実現することだが、
利益だけに走ると恨みをかうのは昔も同じだ。

また、その基本は「近き者説べば、遠き者来たらん」
まずは領内の人々を喜ばせと孔子はさらに語る。
お客さんを感動させるには、働くもの(従業員)が感動してないとね。

皆さんは如何考えられますか?

2009年05月20日

「時」の三要素・易経

易経では「時」といえば三つあると解く。
1)時(時間)
2)処(場所、環境、状況)
3)位(立場、社会的地位)

このトライアングルがすべうまく結合する(三方良し)ことが良い結果につながる。
もっと宇宙的に表現すると「天・地・人」とも置き換えられる。
時は「天」
処は「地」
位は「人」

「昔の人はすごい」と感心するばかりだ。

襌では「今・ここ・自己」こそ真理という。
これも「天地人」だ。

佐々木閑さんは仏教と科学は共通すると断言する。
ともに合理精神に貫かれている。

科学は我々人間の外の世界の隠された法則を追求する。
力学、物理学、化学、生命学と社会科学、段階的に法則がある。

仏教は絶対を認めず、神秘主義も認めません、
人間の内の世界を科学する。
1)諸行無常(変化)
2)諸法無我(運動と関連)因縁因果と解く
3)涅槃寂静(泰然・心定まり生きれる)になる

だが一つ、くぐらなくてはいけない難関がある。
お釈迦と同じように最低でも6年は肉体的苦行、精神的苦行を体験しないと、
本物の智慧が出ないのだそうだ。(ごまかしの小ざかしい悪知恵は修行なしで出る)

人間の脳という物質の作用である心の科学を探求することと、
外の世界の法則を理解する科学は同じだという。

最近は茂木さんや養老さんによって、
脳という物理的な運動のあり方が科学的に証明されてきた。
このことは2500年前の御釈迦さんが理解した智慧のことだろう。

仏教の「苦からの開放」の答えが智慧だ。
人間として生まれたからには、
楽しく生きる権利があり、
周りを苦から開放し楽しくする義務があるんではないでしょうか?

皆さんは如何考えられますか?

2009年05月17日

孟子のお母さんの話

「孟母三遷の教え」と昔から母親の鏡のように言われる。
孟子のお母さんはいったいどんなことしたんだろうか?

孟子ははじめ墓所の近くに住んでいたところ、
孟子は葬式の真似して遊ぶので市中に引っ越した。

今度は商売の真似をするので学校の近くに引っ越した。
すると礼儀作法を真似したので、そこに居を定めた。
という故事だ。

三度も引越しして最後は学校に定着した。

ところが孟子も人間だ。勉学に挫折して故郷に帰ることがあった。
その時母はどうしたか?

「孟母断裁の機」といって、
学問をやめて帰ってきた時、
母親は自分の織っていた織物を断裁し、
これと同じよと諭した。

その後、猛勉強して歴史に残る天下一流の儒学者になった。

もし、「そんな母がほしかった」と言って自分の努力の至らなさをごまかしたら、
「そんな息子ではなかった」と孟子のお母さんに叱られそうだ。

孟子の母を羨むより、
今ここに生かされて育てられた自分に感謝することから自覚することだ。
「ありがとう」「感謝します」「ツイてる」は魔法の言葉だと五日市さんは言う。

何事も不平不満は自己中心的な自分がなせる性だ。
利他心で善行すれば感謝も生まれ、不平不満も忘れて小さくなる。
心はシ-ソ-のようだ。(ここが重要だ)

一番を世のため人のために善行をし、
自分を二番で生きることが幸運に恵まれることは間違いない。

皆さんは如何が考えられますか?
 

2009年05月14日

良観房忍性の教え・中庸の実践

鎌倉時代1274年飢饉、1283年疫病流行、
この時期に奈良-西大寺にいたのがこの忍性さんだ。

東大寺の大仏殿を北へ行くとコスモスで有名な般若寺がある、
その先に般若坂北山に光明皇后が癩患者(らいかんじゃ)を洗ったと、
伝えられる癩病舎を復興救済した人だ。

この人の福祉の考えが中庸の実践だ。
「手足が不自由で乞食に出られない一人の病人を一日おきに背負って朝、
 町に連れて行き、夕方には病舎に運ぶ、乞食で生活が成り立つようにしてやった。
 これが休みなしに数年間続いた」

忍性は、ただ他人を金銭や物質で保護する福祉でなく、
相手の尊厳を充分配慮したものだ。

これこそ中庸の精神の実践だ。

普通ならば相手を子供のように完全に保護すると言う極端か、
また、われ、関せずと割り切って見捨てると言う極端になる。
この両極端を排して、偏りのないほど良い解決、これ中庸だ。

理屈では解ってるが、実際実践できてるかどうか己に問うと疑問だ。
まだまだ「生死」の極端にゆれている自分がいる。

白隠禅師の「坐襌和讃」に「いつか生死をはなるべき、
夫れ摩訶衍(まかえん)の禅定は、称歎するに余りあり----」

とあるように、心が定まって微動だにしない状態が寛容だが、
生死をはなれないで、一喜一憂してるのが現状だ。

理屈で解るものでなく、
実践で極端をしない超理性(総てを明るくする)の体得がいる。

仏教は奥深いから楽しい。
誰にでもすぐに実践できるものなら、
「論・律・経」の三蔵の書物も要らないし、宗派もいらない。
自分で体当たりの体験を積む必要が必須で、体得には時間が要る。

また三毒(貪欲、憎しみ(怒り)、愚痴)を持つ人間の自己中心性から、
すぐに開放されないからこそ、
人生のいろんな人との出会いと時間が楽しく意義あるものになる。

世に名をなし功を遂げた人には三つの特徴があるとフランスの哲学者は言う。
1)戦争体験
2)貧困
3)大病
この三つを「なぜオレだけがこんなに苦労する」と怨みに思わず、
克己した人が三毒を薬に変え、世のため人のために中庸を実践できる人なのだ。
経営者では松下幸之助さんをはじめ稲盛和夫さんもそうだ。

皆さんは如何考えられますか?
 

2009年05月09日

天敵に思う

天敵とは自分を食ったり犯したりする自然の動植物のことに使う言葉だ。
ヒメバチやヤドリバエのような寄生性天敵や、
テントウムシのような捕食性天敵がいる。
他にはウイルスなどの微生物性のものもある。

さて、ペンギンはなぜ飛べないかというと、
天敵がいなかったからだそうだ。

では、人間を襲い、蝕む天敵は何かというと、
「心の中に巣を作ってる不平不満だ」

人間の天敵は外の世界に具体的に存在しません。
人間の内なる心だと断言するのは藤尾秀昭さんだ。

だからこそ、天敵の対極にあるのは「感謝」が一番大事だという。
感謝こそ人間と言う生命体を健やかに成長させる根幹だと言ってはばからない。

安岡正篤師は、
「我々は天地の恩、人間の恩、道の恩、教えの恩などの、
 あらゆる恩の中にあります。
 これに絶えず報いていくのが生活であります。」と報恩感謝を解く。

さて、心の道しるべのキ-ワ-ドは何かと考えれば、

医者の傍ら神代からの日本史を編纂した人物=本居宣長は「好、信、楽」だと言う。

このキ-ワ-ドは決して、人間の外の世界にあるものではない。
自分の内なる心の世界だ。

1)自分が自ら好きになり、
2)自分が自ら信じ、
3)自分が自ら楽しくする。

我々凡人はついつい外に目をやり、
好きだ嫌いだ、損だ得だと探して苦しんでいるのが実情だ。
自分の内なる心をいつも「好信楽」に保つコツを修証すれば、
一生大和楽人生間違いなし。

解ってるのだが、すぐ忘れる自分がいる。
困ったもんだ。
皆さんは如何考えられますか?

2009年05月07日

常識から創造(脱常識)へ

船井幸雄さんは「エゴからエバへ」本物の時代ととかれる。
経営も本物が必ず世の中に存在を認められると断言される。

本物の定義=エゴを持たず、良心に従いて、
      世の中のためになろうと努力する人。

その条件は
     1)執着をなくす。
       (自分にとらわれることで、世のために切り替えたら良しだ。)
     2)束縛をなくす。
     3)嫌いなものをなくす。

そんな事できるわけがないから人間だと言いたいと同時に、
今の自分はこの条件とはま逆だと自覚する次第だ。

ここを自覚しないといけない、
自分はもうすでに「エバ」ができてると錯覚してる自分がいる。
知ってるかもしれないが、できてない。

今の社会=「エゴ、対立、競争」(これ常識)
エバの社会=「愛、調和、互恵」(これ創造)

相互=ギブアンドテイクで50%対50%という対等な関係、自己犠牲の関係はない。
互恵=ギブアンドテイクでなく、50%に対し80%と言う自己犠牲をする関係。

これを本に書いてはばからない、実践できてるから書けるのだ。

今、競争と信用の社会に生きてる常識を一歩進める創造力がいる。
常識の中で自分が自分がと「我」を張ってる自分がいる。

アインシュタインは言う。
「常識とは18歳までに身につけた偏見である」

本物でありたいが常識が邪魔するのが現実だが、
挑戦する値打ちはある。

皆さんは如何考えられますか?

2009年05月06日

松原泰道「仏教の極意」

102歳になられる禅の坊さんだ。
やはりシンプルだ。
極意は素直に三つができることだと言う。

1)「ありがとう」時間は一刻たりとも止まらない、
   今生きてること感謝の念を持ち続ける。
2)「すみません」自分は生きてるんだが、
   その「恩返しが済みません」のすみませんだ。
3)「はい」自分が計らったわけでなく、
   天が出会わせてるめぐり合わせに「拝」(おがむ)だ。

人間は仏ではない、このものさしから必ずぶれるのが個性だ。
ぶれ過ぎて法を犯せば罰せられる、悪意を持ってすれば憎まれる。

だからこの三つが自分の人生のハンドルとして必要だ。
完璧に出来る奴はいないが、完璧を目指す人は多い。

さて、現実にお金が一番の経済社会で、
できるかどうか疑問をお持ちの方もいる。
逆に私利私欲が当たり前の経済優先の社会だからこそ不可欠だ。

史記に「利は智をして昏(くら)からしむ」
利とは目先のことで、人間を曇らせ馬鹿にしてしまうという意味だ。

左伝昭公には「義は利の本なり」
利が得たければ義理を通すという意味だ。

心だけでは生きれないのも事実だが、
人間として当たり前のこの三つを実行する結果は、
大和楽を得ること間違いなし。

皆さんは如何考えられますか?

2009年05月05日

菩薩行に思う

5月の4日、5日は毎年なら薬師寺では「玄奘三蔵会大祭」が行われ、
必ず記念講演がある。
今年は龍谷大学の楠淳證先生が日本の唯識学僧の中でも、
「命が終わるときの心のあり方」にこだわった解脱上人貞慶(1155~1213)
のお話だった。

印象に残ったのは輪廻の話だ。
人間は0が16個もつくアソギコウと言う、
とてつもない長い時間「生死」を生まれ変わるというのだ。

だから、菩薩行をしろと教える。
菩薩行=智慧と慈悲の実践をして輪廻(生死)を離れるというのだ。

「善因楽果・悪因苦果」という教えだ。
善(善心・善根)の種子(因)が衆縁と和合して楽を生み、
悪(煩悩)の種子(因)が衆縁と和合して苦果を生む。

要するに生老病死の四苦に加え八苦の心を起こさないというのだ。
これが誰でも直ぐ実行されるなら大安楽だ。
できないから凡人だ。(凡人の自分を知る)

こんな話を聞いて、楽しく活き活き生きることが素晴らしいと、
先人は言ってることを思い出した。

孔子の論語の「雍也第六」に、

「子日わく、之を知る者は、之を好む者に如かず、
 之を好む者は、之を楽しむ者に如かず」

すなわち、知ってる人は、好きでやってる人に勝てない、
好きでやってる人は楽しんでやってる人に勝てないということだ。

楽しんで人助けが出来る人がほんとに人生を安楽な心持で生きる人だ。
今の自分の心が安楽ならOKだ。

しかし、怒っていたら無知を戒め、
    泣いていたら修行と堪忍して、
    笑って楽しめたら大安楽だ。

この物差しを心に刻むことに再確認した。
皆さんは如何考えられますか?

2009年05月03日

泥棒人生

私は先人の智慧を盗んで人生気づいたといってはばからないのは、
井原隆一さんだ。
十四歳で埼玉銀行に入行、同時に夜学に学び、父の死が襲い、
膨大な借金を背負い、勤めの傍ら農業をし、
過労で腸カタル、脱毛症になっても古典を学び、

「学なし、地位なし、カネなし、頭髪もなければ青春もなし」
とユ-モラスに表現された人だと雑誌「致知」に紹介されていた。

十代に「十八史略鈔本」をぼろぼろになるまで読んだのが原点だそうだ。
振り返って自分も泥棒人生だ。
もっと悪いのは両親が働き者で住むところとご飯は充分あったので、
生活のために何とかしなければというより、生き方を迷っていた。

そんなときに出会った社長がいる。
「お前は頭が悪いから、新聞記者になれ」
こういわれたが、頭の悪いことは自分も認めるが、
どうしていいか意味が解らない。

要するに、耳学問だ。
本を読んで噛み砕くほどの知性もないし、
人生に切羽詰ってるわけでもないし、
人生に対する真剣さは軟弱なものだ。

その社長は学ぶことの大切さを教えてやろうと考えてのことだ。
ところがこの学び方には欠点がある。

「本」に嘘つかれても、理性で実際との違いを、思考すれば間違いに気づく。
ところが耳学問は相手に真実を引き出すために、
私から裸で素直にぶつからねば引き出せない。
だから「本」と違って、
行動してしまうと実際に騙されるというおまけつきだ。

信じすぎて裏切られた人が一杯だといえば聞こえがいいが、
実は信じきる馬鹿さだ。

騙されてばかりの私を見かねて、
月に二時間20年教えてくださった信じれる先生に耳学問した。
捨てる神あれば拾う神ありだ。
やはり古典を一から学ばされた。
最初は言葉が抽象的で眠くてたまらなかった。

数年して人類の歴史にさらされ、
読まれ続けてきた古典には真理が宿ってると確信するに至った。

還暦を迎えて、古典のすばらしさに気づいたが、
これからは実生活の中で応用し楽しみたいと念願する。
学びは10倍人生を豊かで楽しくすると味わい深く感じるこのごろだ。

皆さんは古典の泥棒人生、如何考えられますか?

2009年05月02日

奇跡・さだまさし

JR福知山線脱線で事故に会って夫をなくされて四年になる。
平凡な夫婦に突然死を突きつけられたのは原口さんといご婦人だ。
テレビのニュ-スで見た。

もし、自分に突然起こったらどうなるだろうと考えた。
多分なぜ自分がこんな目にあうかと悲劇の中で自暴自棄になることは間違いない。
生きることへ無気力になるだろう。
人生には「上り坂」もあるが「下り坂」もある、
自分は何も悪いことしていないのに襲ってくる「ま坂」がある。

四年の時を耐え彼女が口ずさむのは、
さだまさしの「奇跡」という歌だ。

「どんなに切なくても、必ず明日が来る
 ながいながい坂道を登るのはあなた独りじゃない。
 
 僕は神様でないから、ほんとの愛は多分知らない。
 けれどあなたを想う心なら、神様に負けない。

 たった一度の人生に、あなたとめぐりあえたこと、
 偶然を装いながら奇跡は いつも近くにいる。

 ああ大きな愛になりたい、----------」
こんな歌詞をピアノを弾き語り、
彼女はもし主人が帰ってくる奇跡が起こるなら、
「お帰りなさい」といってあげたいと今日も明るく生きる。

自分の不平や不満のなんと小さなことかと思われたニュ-スだった。
皆さんは如何考えられますか?