2009年06月29日
陽明の五溺
王陽明は中国を代表する儒学者なんですが、
自分の道を極めるのに五つの他のことに溺れるぐらい没頭したそうだ。
1497年北京で26歳のころだった、科挙の試験を受けようと頑張ってるときだった。
友人の湛甘泉(たんかんせん)は語る。
「はじめ任侠の習いにおぼれ、再びは騎射の習いにおぼれ、
三たび辞章の習いにおぼれ、四たび神仙の習いにおぼれ、
五たびは仏氏の習いに溺る」
35歳になり、「聖賢の学=儒教、に帰正す。」
ここが実に面白い、学問の世界も寄り道、道草が大事だ。
若いときには悩み苦しむが、
自分探しに、いろんな体験や学びが必要だ。
溺れるくらい没頭するものがあることが大事だ。
人生は一度しかない旅だ。
この道を行くとあせって決めなくても、
道楽して寄り道、回り道こそが大事なように思う。
わたしも、道を求めて小田切瑞穂先生に飛び込んだ。
正直、自分より大きい人に飛び込んで行くのは怖かった、
振り回されるからだ。
そこで、先生に「もし道を教えてくれなかったり、
自分を利用したと感じたら殺してもいいですか?」
と恐る恐る言った。
もちろん答えは「イエス」だった。
さて、王陽明がたどりついた陽明学は「知行合一」をもっとうに、
「知りて行わざるは、只これ、いまだ知らざるなり」
「知るは易し、行うは難し」とあるように、
陽明は、痛みを知るにしても、自分で体験して、はじめて知ることができる。
また、寒さや飢えも同じだ、どうして知と行を分けることができようか。
是が知と行の本来のあり方であって、
かってに分断できないものであると断言する。
日本では中江藤樹(1608~648年)を始め、大塩平八郎(1793~1837年)、
佐久間象山(1811~1864年)や勝海舟、吉田松陰、西郷隆盛へと受け継がれているのが歴史だ。
人間の幅や奥行きつくるには、
何かに溺れるぐらいの寄り道が幾つもあったほうがよさそうだ。
みなさんはどんなことに溺れましたか?














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