2009年08月30日
能面におもう
能は何のためにあるか?
それは「顧客のうれしさ」だというのが世阿弥だ。
そのために「体と用」
用=見掛けだけ真似るのでなく、
体=その本質に入り込んで理解することが大切だと言い切る。
ここが実に能の奥義だ。
能には能面をつける。
鏡の間という部屋でつけるのだが、
自分が自分でなくなっていく、放心したようになるらしい。
不思議だ。
能面を「中間的表情」といい、未完の美という。
すなわち待機の姿勢だ。静止だ。
能面は舞うことによって完成される宿命を負ってるからだ。
まさに能面に命が吹き込まれるのが舞うという行動だ。
私たちが仏像に向き合うときいつも感じるのは、
あの中性的な無表情さを見てると仏像はいつまでも、
自分から遠い存在だ。
仏像は面倒な理想主義者で、無感情な理論主義者にしか見えない。
しかし、仏像に喰らいつき、
いや仏像に飛び込んで入っていくと動き出す。
仏を感じる、仏に操られる自分があらわれる。
これが「入我我入」ということなのか?
仏像もあえて無表情なのは未完を意味するからだ。
見る側の人間と仏像が一体になる橋渡しは行動だ。
仏像に決まった表情があれば、
見る人一人づつの個性を映せないからだ。
能面が未完の美であるのも、
演者が自由自在に変化を持たせ顧客を楽しませる所以だ。
熱意と主体的行動で自分に成りきる。
使命と志を明確に自覚し!!
仏像は私たちに「抜苦与楽」を諭すのが目的だ。
「苦を追えば苦が逃げる 楽を追えば楽が逃げる」と格言にあるように、
その教えは、自分から周りのあらゆる物を生かし「行動すること」だ。
逆だと解ってるが、
完成の仏像と思い込んで見て屁理屈こねる自分がいる。
皆さんは如何考えられますか?














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