社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

2009年09月29日

隋処作主立処皆真・臨済録

『随所に主なれば、立処皆真なり』
意味=どんな状況でも主体的に自己を見失わず、
   万縁万境を使いこなして行けば、
   その時その場が真実の妙境となる。

わたしたち凡人は貴賎貧富、利害得失、美醜好悪、順境逆境、
という回りの出来事に引きずり回されるものだ。

しかし、人間として生きるには、それを感じる感性も必要だ。
現実の具体的問題に処するためにも。

身も心もあげて、万縁万境を自在に使いこなしてゆくことをすれば、
その時その場に成りきることを「主」という。
之は理屈だが実践してこそ意味を成す。

ある人が盤珪禅師に訊ねました。
『わたしも年をとりました。死ぬるにはどのよう覚悟をしたら良いでしょうか?』
盤珪禅師は、
『覚悟はいらぬ、死ぬ時は死ねばいい』

良寛和尚も、
『災難の時は災難に遭うがよろしく候、病む時には病むがよろしく候、死ぬ時は死ぬるがよろしく候』

人間心で考えると、実に人間は天邪鬼(あまのじゃく)にできている。
病のときに健康の大事さを思い、健康な時に病にならないかおびえる。
実に無駄なこと考えて苦しむだけで行動しない私がいる。

親しい友に上記の話をしたら、以下に答えた。
『人生は山坂があるから面白い、頭で平らな道を描いて、
 現実に平らな道がないと不平不満を言って、
 山坂のない平らな道を一生懸命造って、起伏のない道を歩いて、
 喜怒哀楽を忘れてしまう人がいる』

皆さんは如何考えられますか?

2009年09月28日

判断と決断について

判断と決断の基準=利己的基準(損得、好き嫌い、勝ち負け)
         利他的基準(正誤、善悪、役立ち、喜び)

私たちは誰しも個人的判断がある。
まず最初にどうしても利己的判断で考えるのが一般的だ。
でも、それでは他人を納得させたり、説得できないことは誰でもわかる。
また、自分が他人や社会に役に立ち喜ばれ、
尊敬や感謝される存在にはならないことも事実だ。
言い換えると、
自分本位なマイペースや自分の世界は守れ、
自己満足を達成することができるが、
やりがいや生きがいが感じられなくなるのも事実だ。

そこで、本音と建前を使い分ける智慧が出る。
本音=利己心
建前=利他心

ここが悩み迷う原因の根本である。

私はどちらか一方に偏ることをすすめる。
思いっきり利己心に偏って行動すると、
集団の中ではコミュニケーションがうまく行かないことは明白だ。

だから逆に、利他的判断基準で行動することが、
目標なり、夢なり、志を実現することは間違いない。

判断で止ってる人と判断し決断する人の違いは、

○判断で止ってる人=無責任(傍観者)行動がない。志(目標)がない。自分なりの正しさはある。
○判断し決断する人=責任がある。行動がある。志(目標)がある。共有した正しさがある。

判断し決断する人は1)利他的判断基準で考え、
         2)責任、行動、志(目標)このトライアングル(三方よし)を実行する。

逆に言うと利己的判断を2番にして、
共有する「志」、共有する「正しさ」「善行」があることだ。

オノ・ヨ-コさん(ジョン・レノンの妻)は語る。

『一人でみる夢は夢でしかない、いっしょに見る夢は現実だ。』

先人の多くのすばらしい人達に共通する決断力は、歴史を創ってきた。

その人たちの生き様は志を持って共感を得、
誠実な行動を心がけたに過ぎない。

今、国民は政治に対し、自民党を2番にし、民主党を1番に選ぶ決断をした。
希望ある未来を創り、子孫に残すために!! 

今こそ、国のことだけでなく、
自分の人生・仕事をチェンジする時だと私は胸に刻む。

みなさんは如何考えられますか?

2009年09月27日

恥について

論語に「憲、恥を問う、子曰く、国に道あれば穀す。
    国に道なきに穀すは、恥じなり。」(憲問)

意味=弟子の憲が恥について孔子に訊ねた。
   「国家に道あれば、仕官して俸禄を受ける。
    国家に道がないのに俸禄を受けるは恥である。」

是を京セラの稲盛会長は以下のように考えられる。
「もし、王道を突き進んでいる会社組織ならば、そこに属して給料をもらっても良い。
 もし私利私欲や自らの覇道を築くために利益を追求する会社組織ならば、
 社員となって給料をもらうのは恥じである。」

もっと突っ込めば「自分の環境を変えるのは自分の意志次第。
         その意志を貫かず、環境に甘んじるのは恥。」
言い換えると環境が厳しくても、
常に未来に希望を持って切り開き道をつくって行く意志がないことを恥と考える。

さらに稲盛さんは仕事を成功させるには、
「仕事は楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行するべき。」と結ぶ。

会社は自分の私利私欲を追及する道具ではなく、社会の公器だ。
だからこそ、覇道でなく、王道を自ら創って行く覚悟がいる。
その結果、働くものの生活が守られ、人生に生きがいをもたらすのだ。

私利私欲を前面に出し自己主張することが正しいと考える世の中より、
道を求めることを前面に出す自己主張し、
世の中を希望に満ち、明るく創りあげる喜びを得たい。

江戸時代から明治にかけての日本人はまさに「『恥』を自覚した国民だった」と、
外国の人たちが書き残してる。

皆さんは如何考えられますか?

2009年09月21日

はちと神さま・金子みすず


     「はちと神さま」

「はちはお花の中に、お花はお庭の中に、
 お庭は土べいの中に、土べいは町の中に、
 町は日本の中に、日本は世界の中に、
 世界は神さまの中に、
 そうして、そうして、神さまは、小さなはちの中に」

     金子みすず


私たちはみんなつながっていて、
自我と思ってるものがなく、
縁によって生かされてる存在であり、
私たちには神さまが宿ってる。

私たちは自分の神さまに話してるでしょうか?
神さまが面(おもて)に出てきてるでしょうか?
それとも自我(執着と妄想の我)で神さまを隠してないでしょうか?
それとも自分(自然の分身と書いて自分)を自然に振舞えてるでしょうか?

神様を呼び出す時には二つの呪文がいる。

1)どんなことでもどんな人にも感謝すること。
 (損得、好き嫌い、勝ち負け、どちらが自分に起こっても感謝する姿勢)
2)どんな時でもどんな人にも素直に接すること。
 (目標や志を自分以外に持つこと、世のため人のために生きる姿勢・私心なし動機善)

でもこの考えと行動の呪文は、
なかなか口にできないし、
行動できないのが人間。

人間には神さまが宿ってるのに、
不平、不満、愚痴を口にし、
不安と心配で心を一杯にし、
神さまを引き出せない自分を作り出し苦しんでる。

たた二つの呪文さえ心がければいいのにと解っているのにできない自分がいる。
反省、反省、決心、決心、実行、実行

皆さんは如何考えられますか? 

2009年09月16日

根気が志を成就する

アメリカメジャ-野球界で9年連続200本安打を達成したのは、
イチロ-選手だ。

イチロ-がこの偉業を成し遂げたのは野球が好きだからという。
しかし、好きを本気で好きにするには上手くなければ続かない。

上手くなるには誰にも負けない努力がいる。
彼は自分の一日の決めたトレ-ニングを欠かさないでこなす、
そのためには子供も産まない(ほんとかどうかは定かでない)、
生活のリズムが狂うからだ。

野菜もあまり食べないそうだが、
食事には気をつけていて、
毎日のカレ-ライスにはたくさんの野菜を入れて奥さんが作るそうだ。

文学者の芥川龍之介が、なかなか芽がでず苦しんでいた時がある。
そんな時、師匠の夏目漱石が「世の中は根気に頭下げる」と手紙を書いて励ました。
イチロ-が偉業をなしたのも、あきらめずに続けられた根気だ。
龍之介も、十年が経ち、飛躍的に上達して弟子をたくさん持つようになったそうだ。

二人に共通するのは、「志というのは根気によって成就する」ということだ。
中途半端な努力を本格的努力に変えてこそ志は成就する。
よく「死ぬ気でやれ」と喩えられるが、死ぬ気で生きろということだ。

イチロ-のすばらしい記録のニュ-スは、
「世の中が根気に頭を下げる」まで、
私もこの仕事をやりぬきたいと心、奮わせた。

皆さんは如何考えられますか?

2009年09月15日

儒教を考える

先日、加地伸行さんの儒教について話を聞いた。
宗教と儒教の違いが二つあるという。

1)地獄極楽を語らないのが儒教
2)神秘的なことについて語らないのが儒教

だから儒教は宗教ではないそうだ。
この儒教の中でも「論語」は、
孔子のただひたすら「仁」の実践の問答を書き表したものだ。

私がこの孔子を見習い、自分を高めるのに間違いないと考えるフレ-ズが二つある。

1)「徳は弧ならず、必ず隣あり」(里仁)
意味=徳の備わった人は孤立することはなく、必ず周りに人が集まる。
損得で生きると回りは敵だ、また人間を100%信じれず、常に猜疑心を抱くからだ。
実際は得のために「孤独」を余儀なくされる。
家族だけ信じる、あるいはごく親しい人だけを信じるしかできなく自分で孤独を創ってるのだ。

先日、園田 直という政治家の三回目の奥さんの園田天光光さんが言った言葉は実に深い。
「地獄極楽は自分の思いようだ」

2)「君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸(これ)を人に求む。」(衛霊公)
意味=君子は何事の結果も自分に責任を求め、反省する。
しかし、小人は(自分の考えや意見を持たない人)は他人のせいにして、反省することはない。

君子というのは清廉潔白で神様のような人物を創造するんですが、
そうではなく、「仁」を貫きとうす人物のことだと考えるとわかりやすい。

孔子さんの人物像がわかるエピソ-ドをひとつ紹介する。

56歳から13年間ふるさと魯を離れ、その旅で立ち寄った、衛の国の匡での出来事だ。
衛の国の匡(きょう)の国の陽虎という乱暴者が孔子さんとよく似てたので、
間違って孔子さんを殺そうとした時だ、

論語には、
「天の未だこの文を喪(ほろ)ぼさざるや、匡人其れ予(われ)を如何にせん。」

文王(周の名君)の心は私(孔子)の中にあり、
天命により私が後継者に伝えると引き受けたのに、
君たちになぜ殺されねばならんのか?、
と居丈高にギョロッとにら目付け、大見得を切る役者だ。

この立ち居振る舞いは実に現実的で信念に満ちた行動で迫力を感じる。
之でお解かりだろう、
どんな人も世の中、生きるには「仁」を実践してるのだ。
仁=人が二人と書くのだ。
社会人の大人なら、相手に譲ってその後自分の思いを通すという順番は、ごく普通だ。
しかし、人間として「徳」の磨きが弱いと、
時々は自分が先になり子供(利己的)のようになってしまうのも事実だ。

「仁」を貫き通す社会こそ理想の社会(国家)建設だ。
孔子は13年旅したが理想の君子は居らず、
自国の魯に帰り、理想を持つ若者を育成することにしたのだ。
国家も、企業も、家庭もこんな方向で三方良しになれば、
すばらしい世界、地球になることは間違いない。

皆さんは如何考えられますか?

2009年09月13日

友人と再会

帽子にトレンチコ-ト、生地はイタリヤ製の鮮やかな色のジャケットを着こなせ、
音楽と蝶の好きな友人が、7月30日に突然なくなった。

我々仲間4人が満中陰の法要に参列できた今日は、
少し曇り空で雨が降りそうな模様で彼らしく落ち着いたグレ-の雰囲気だった。

定刻に読経がはじまり「お-い元気か』と挨拶するように焼香したのは初めてだ。
法要が終わり住職が大乗仏教の他力本願「阿弥陀様に総て任せ、阿弥陀の舟に乗る」と話されてるとき、
どこから来たのかわからないが、
晴れがましくなくグレ-の色で大きくもなく小さくもないジャノメ蝶(息子さんに聞いた)が、
祭壇の中央で話される住職の頭の周りを二、三回回り、
「俺はここにいるぞ」といわんばかりにみんなの視線を引きつけ、
向かって左の花飾りのそばに止まり、少しして右に移り、
祭壇右横下に飾られた、長男(蝶博士)が7月に結婚した写真と、
9月にもらった博士資格(論文集)を見るかのように低空飛行しながら舞った。

そして迷いもなくジャノメ蝶は、前列右の娘さんと新妻の足元から「悲しまいでくれ」と気遣うように飛び、
前列左の長男と奥さんのところに「よろしくね」と挨拶するように下から上に舞い、後方へ去った。

隣の部屋に食事が用意されていて、長男のお礼の挨拶から始まり、ふと正面を見ると、
開閉口は二つしかないのに、いつ部屋に入ったのか、
ジャノメ蝶が遺影の飾られた左端の壁の高い位置に、
黙って見守り聞いているようにジッとしている!

それからまもなく、彼の好きな音楽を歌いたいと、
月に一度自宅を開放し応援していたカンツオ-ネの歌い手の方が、
「オ-ソレミ-ヨ」「帰れソレント」の二曲を披露した。
そのときもジャノメ蝶は椅子に腰掛け目をつぶって聞いてるかのように動かなかった。

動きを見せたのは宴もたけなわとなり、
われわれが彼のことを面白、おかしく話だした時だ。

羽の音もなく低空飛行で一人一人のお膳に寄ってきて、
「俺の話しはいいよ、食べろよ」と、
照れくさそうに、仲間の膳に止まってはつぎの膳へ、
「早く」と催促してるように飛んだ。

何秒か居たかと思ったら、右端の壁の高いところに止まって、
高見の見物をするかのように私たちを見てじっと止まったまま動かない。

宴も終わり帰るときもジャノメ蝶は壁からはなれなかった。
奥さんが「あの蝶はお父さんよ」といわれた時に、
こんなことがあるのかと驚くと同時に、
再会したうれしさといつものように彼と食事した自然な自分がいた。

蝶が舞っていただけですが、ほんとに友人と再会しました。

みなさんもこんな体験されたことありますか?

2009年09月11日

養生訓・貝原益軒

人間にとって、精神のあり方で肉体が変化することは確かだ。
故に、どんな精神を持つかが重要だ。
ひいては、人生の幸不幸が決定されるといっても過言でない。
だからこそ、先人の智慧に学んだり、周りの立派な人から学ぶほかはない。

だが、精神だけが出来あがっても、
それを表現する肉体が、いつも万全に動き、行動できないと、実現しない。

さて困ったことに、精神も肉体も個々人、多少違うのは解るが、
根本的な「取扱説明書」が、どんな人間にも渡されないというのが原則だ。

人生は逆に考えると、精神と肉体のあり方ではなく、探求なのだ。
「自分とはなにか」を探る旅に違いない。
健康な時は決して肉体の使い方など考えたことはない。
自分の思いどおり、動くもの思ってるからだ。

貝原益軒は、
宇宙のエネルギ-の「気」を養うことが大事と語る。
考えよりも、行動よりも、
元のエネルギ-をいつも充満させることが真の養生だというのだ。

「摂生の七養あり。是を守るべし。」

一つには言を少なくして内気を養う。
二つには色欲を戒めて精気を養う。
三つには滋味を薄くして血気を養う。
四つには津液を飲んで臓器を養う。(津液=唾液)
五つには怒りをおさえて肝気を養う。
六つには飲食を節して胃気を養う。
七つには思慮を少なくして心気を養う。

この七つは明代の医者・劉純が書いているとある(本の名=是寿親養老書)

このうち、私がどれだけできてるか?
自分の胸に手をあて考えると、
どれもみんな真ん中より上で、行き過ぎてることは確かだ。

自分の欲が勝って、自分を潰してる状態だ。
バランス、自然体を身につけ、自戒する心で自分を制御することが肝要だ。
ブレ-キのない肉体の酷使は、良い仕事も人生も送れないことは確かだ。
反省、反省。

皆さんは如何考えられますか?

2009年09月09日

真っ直ぐに見る

一休さんの庵の庭に、小さな池があり、
池には曲がりくねった松があり、とても風情が良い。

ある日、一休さんが弟子に向かって、
「あの松を真っ直ぐ見ることが出来る者はいないか」と尋ねた。

松はどう見ても曲がりくねっていて真っ直ぐには見えない。
第一、質問の意味が解らない。
誰も答えられなかった。

そこへ、武術に秀でた蜷川新左衛門がやってくる。
一休さんは、先ほどと同じように新左衛門に質問すると、
「曲がっていると見ました」と答える。

一休さんはポン!と手を打って、「そのとうり」

一休は弟子達にこういった。

「曲がったものを曲がったものと見るのが、真っ直ぐな見方だ。
曲がったものを真っ直ぐに見たら、そのものの心が、曲がってるのだ。」

我々は事実を見ないで、言葉に振り回されることの多いこと、
心して真っ直ぐ見ないといけないと反省させられる逸話だ。

みなさんは如何考えられますか?

2009年09月08日

貫くこと

何事でも一心にやり通し、貫くことが人物を創る。
「論語と算盤」を貫きとうした人物といえば渋沢栄一だ。

明治六年に大蔵省総務局長を辞職し実業界で活躍した人物だ。
その考え方の根本は「道理」と「事実」と「利益」はかならず一致すると断言し、
証明するために会社や学校を起こし運営した。

これは近江商人の「三方良し」という利害関係者の対立する矛盾を飛躍させる智慧と同じ考えだ。
明治の日本の背景について渋沢栄一は以下のように語る。

「役人は武士精神は持ってるが、商才がない、
 逆に実業界は道徳を離れた欺瞞、
 軽佻な商才で小利口な利益を求める拝金主義者が多い」

こんな時代背景の中で理想を求め、
「道理」、「事実」、「利益」の三方よしを貫き証明したのである。

渋沢と対比される人物に岩崎弥太郎がいる。
彼は政治も巻き込む度胸のある政商だ。

しかし、渋沢は自分の信念に従い、頑として「論語と算盤」を貫ぬき通した。
自分を慕ってくる企業経営者や管理者のために龍門社(明治20年、1887年)
を組織して企業経営の担い手を育てる活動をしたのだ。

論語の中に、孔子と子貢のやり取りがある。

孔子が、「子貢よ、私が多くの事柄を学んでそれをみんな記憶している人間だと思うか?」と、尋ねると、
子貢は、「はい、そう思います。違いますか?」と、聞き返す。

それで孔子は「違うんだよ、私はただひとつのことで貫き通しいるだけなのだ」と答える。

論語のことを儒教といわれてるが、
仏教のように修行して仏になるというものではない。

孔子のいう「仁」は悟るものでなく、貫き通すものだ。

最愛の弟子顔回や子路をなくす晩年であったが、
身近な実践の人間味のある人物だ。
彼が嫌っていたのは聖人君子と呼ばれることだそうだ。
孔子は謙虚に、過去の文王や武王の古を学んだだけだと言い切ってる。

「温故知新」大切な言葉だ。

みなさんはなにを貫いていらっしゃいますか?

2009年09月05日

一番大事なこと

民主党が圧勝の選挙に思うことは、
「自分の国を何とか自分の一票で変えたい」
こんな国民の意志だと思う。
意志だけではどうにもならないが、
選挙制度が小選挙区制であることも仕組みとして大事だ。
この両輪がタイミングよく具体化したのだ。

経済は利己心を前提に発展してきた、
言い換えると人間の欲望を追求してきた。
それも誰の欲望かというと、
お金がお金を欲しい欲望に変質してしまったのだ。

その具体性がアメリカで昨年起こった「リーマンショック」だ。
人類はお金のグローバル化に法がついていけなくなって、
あわてて規制をつくった始末だ。

さて、経済において「利己心」の全面的肯定は「善」なのかだ。
私は人間の奥にある「利他心」を育成して、
「利己心」より価値観が勝ることを必要と感じる。

「利他心」とは仏教では慈悲、西洋的なキリスト教では「愛」のことだ。
自分のことより先に他人のことを考え行動する価値観だ。

今まで個人主義だ個性だといってきたが、
家族や地域、さらに国家までがばらばらで殺伐としてきたのは、
個人を全面的に認めすぎた考え方の偏りに原因があると察する。

社会では利他的判断を優先し、
個人生活は自分の好みで判断するものだ。
今、この公私の境目がなくなってきてると感じるのは私だけだろうか?

個人の価値を否定するつもりも、社会が総てというつもりもありません。
一番大事なことは判断の基準だ。
少なくともみんなが集まる社会では「何が正しいか、間違ってるか?」
「何が善で何が悪か」という当たり前の判断基準が、貫かれなければなりません。

もちろん服を選ぶときには個人の価値観である、
「損得好き嫌い」で選ぶのが当然のように!!

民主党の圧勝は国民が政治家に「何が正しいか」「何が善か」の基準で、
国家運営することだと突きつけたのだ。

政治家が利権をバックにあぐらをかいて欲しくない、
また官僚も天下りで血税を使って欲しくない。

小さい時に親に教えられたシンプルで解りやすい判断基準を、
見えるようにやって欲しいというメッセージだ。

政治の変化は利他心の育成の変化でもある。
もちろん国民であるわたしも政治家に要求するだけでなく、
社会人として自分も「利他心」を養い、
「何が正しいか間違ってるか」を一番大事に考え判断し、
子供たちへ未来に希望のある社会を残したい。

皆さんは如何考えられますか?