社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

2009年12月27日

『ありがとう』の面白い話

小林正観とう現代の幸福実現メッセンジャーがいる。
この人、真面目な顔して「『ありがとう』を2万回唱えると奇跡が起こる。」と言う。

それも、心を込めなくていいから2万回唱えることだという。
何かインチキくさいが、誰にも迷惑かけず自分ひとりできる。
のどが渇いてお茶代ぐらいは掛かるかもしれないが、
費用も別段かかるわけでない。
自分で実行する気さえあればいい。

私の友人で本気でやった人がいる。

その人の弁によると、
1万回ぐらいまで力も入らず心も要れずやる、
1万5000回ぐらいになると終わりが近づいてくるので、
気持ちが入り出し自然と声が大きくなる。
2万に近づくにつけ心がこもって全身で唱えてる自分がいるのを発見する。

「終わった。」
どんな幸運が来るか回りを見渡すが、
宝くじが当たったわけでもなく、
急に仕事がうまく行ったわけでもない。
未だこないと話していた。

でも二つ良いことがあったと語る。

1)達成感だ。〔継続は力だ〕
物事を最後までやりきるには、
最初から力まないことが継続のためにもっとも大事だと解った。

2)集中力だ。〔自然と雑念が起らない、私心が起らない〕
「ありがとう」を言って幸福を念じることに、
未来に希望もわき、前向きに明るくなることを体感する。

この小林生観さんは面白いことを言ってる。
一次元=自分
二次元=相手
三次元=矛盾〔相対〕
四次元=気にしない〔絶対〕
五次元=何も問題はない〔無我〕

私たちは頭でっかちで、自分で迷いや矛盾を作ってるというのだと断言する。
三次元で生きたら疲れるだけだ。
だから気にしないでさらさら四次元で生きろという。
さらに、最初からなにも問題なんてないと、
〔山よりでっかい獅子はでない〕と知ることだという。

思い出したので付け加えると、
一休禅師は遺言に「心配するな、何とかなる。」と書き残した。
ほんとに困った時に開けろといわれた遺言。
100年後か200年後に、お寺がどうにも運営できなくなった時に開かれたそうだ。

もうひとつ思い出したので書くと、
五日市さんがイスラエルのおばあさんに教えられた言葉がある。
「すべてのトラブルと元凶は、『不安』と『心配』に支配された心の働きにある。」

皆さんは如何考えられますか?

2009年12月26日

人間形成三方良し

プロゴルファーで世界最年少の18歳賞金王に輝いた人物は石川遼だ。
今朝の新聞にプロスポーツ大賞〔総理大臣賞〕を受賞に、
首相官邸にて鳩山首相がパターを持つ写真が掲載されていた。

18歳の石川選手はパターを贈呈したら、
素振りをする首相に「奇麗ですね」と誉めた。

首相になって100日を迎え、来年度予算編成や、
母からの億単位の寄付についてなどバッシングの多い日々だったので、
思わず「誉められるのはいいね」ともらした。

さらに、記者が「総理はいまボールがハザードにあると思うが」と言う質問に、
遼君は「フェアウェイにあると思いますよ。
   ゴルフは、自分のボールを責任を持って自分だけで打っていくけど、
   総理は全く違うと思うので、なかなか難しいと思います」と話した。

ゴルフに全人生をかけ、主体的に命がけでぶつかってる大人の発言だ。
意識してないからこそ、さわやかで彼の真剣さが伝わってくる言葉だ。
読み手の私には鳩山首相の全人生をかけたリーダーシップを期待したい気持ちだ。

欧米では、政治はボランティアを基本と考えられる傾向があるが、職業でもある。
そこで、政治が職業になったときに「捨ててはならないもの」は何か?
それは「プライド」だ、とアリストテレスは言う。
さて経済を担う人、学者にもある。

「職業人になれば捨ててはならぬもの」
政治=プライド
経済=利益
学者=理想

世界が民主主義を旗印に、国家運営される現代では、
人間として、自由や平等が広がり、公開も進化していくことは間違いない。

その時代を生きる者としては、遼君を誉める側でなく、
遼くんのような大人の精神を養わなければならないと、深く自省する。

一職業人としては政治にも学問にも、もちろん経済の実践を通じ、
1〕プライド
2〕利益
3〕理想
上記の三つの価値観を磨く「人間形成三方良し」への努力こそが、
国民の精神的自律義務ではないかと思うとともに、
夢ある国家ビジョンを打ち出すリーダーシップも不可欠だと感じる。

皆さんは如何考えられますか?

2009年12月24日

「沈黙は金なり」ではない。

幼いころ母は「男の多弁は軽薄だ」と言っていた。
何かしら反抗したくなるのが私の性質なのか、話し方ばかりに興味があった。
「沈黙は金、雄弁は銀」という格言は私にとって実に不愉快な言葉だった。

私は他人と比べると聞くことより話すことのほうが多いタイプの人間であることは間違いない。
自己弁護するわけではないが、
他人に話すと実行しないで言うばかりだと信用を失うので、
ある意味では自分で自分の首を絞めて、
自分で追い込んでるところがあるのも事実だ。

先日、朝の打ち合わせで、部下には二つのタイプがいるとS課長が言った。
1)会話していて自分の頭の中で「正解を探す人」は話がはずまなく閉塞する。
数学的に表現すれば、1+1=2〔自分にあった人しか対応できない〕
2)会話していて自分の頭の中で「正解を創る人」は話が展開して発展する。
数学的に表現すれば、2=15÷3-3、2×3÷3〔どんな人でも対応できる〕
1)のタイプの人は考えが先で行動が後〔自分本位な傾向あり〕
2)のタイプの人は行動が先で考えが後〔相手本位な傾向あり〕
付け加えて、
「沈黙」は世間や他人に言わないから嫌なことは行動しなくていいという狡賢いことも出来る。
「沈黙」「雄弁」は時によって使い分けるべしと締めくくった。

その瞬間私は道元の「善悪は時なり」と、
「諸悪莫作 衆善奉行」を解釈したことのすばらしさに気づいた。
善悪は外にあるのでなく自分の内にあるのだということに通じると直観した。
外に善を求めるのではなく自分の心に善を創るのだこれが主体なのだ。

善人を捜し求めたり、善行とはどんなことするのか、
幾つあるのか外に思いを置いて考えるからこそ悩むし、
考えと行動が一致しない。
自分の内に「こうしようああしよう」と創りだし行動することで、
考えと行動は一致する。
「積善の家に余慶あり」だ。

「沈黙」「雄弁」は呼吸のように時が決める。
もし息が止まったままなら死ぬ。
これこそが「絶対正しい」のだ。
自分〔主体〕がなくなる。考える自分も行動する自分も!!

「沈黙」だ「雄弁」だと自分はどっちなどと、
外から見た目にこだわる分別に振り回されぬことだ。
「沈黙」は金にも銀にもなる。
皆さんは如何考えられますか?
 

2009年12月18日

夢は志へ

12月になるとクリスマスソングの「ジングルベル」がなり、
最近は木に電飾を凝らして、光によるクリスマスツリーを楽しむ。

大阪市でも12月にはいると「光のルネサンス」を数年前から市庁舎開放、
中之島公園で光のイベントが開催されてる。

今年はじめて、5年前から始まった香川県庵治石産地で開催されてる「石あかり」を、
「光のルネサンス」イン中之島で弊社(大阪石材)とコラボレーションで展示開催する運びになった。
初日の来場者は23万人だった。今月25日まで展示される。

さて、25日は子供にとってサンタさんからの贈り物がもらえる大事な日だ。
毎朝朝礼で3分間スピーチをする。

今日は9歳になる子供がサンタクロースが本当にいると信じてるというF君の話だった。
小学校に通う娘さんの学校では、
「トナカイさんは人参が好きだ」といううわさが広がっている。

その根拠は、同級の女生徒がベランダに人参をぶら下げておいたら、
なんと、人参に歯型までついてトナカイのかじった跡がついていたそうだ。
大変優しいお父さんの夢を壊さない心使いだ。
今年はF君のマンションのベランダは人参だらけになること間違いなしだそうだ。

子供は夢を描いて相手に何かしてあげようという役立つ行動をする努力を知り、
信じることで人間関係の大事さを知る。

両親が育んでくれたサンタへの夢を描いて無邪気に楽しんだ自分を知り、
大人になって、自分の人生の夢へと膨らんで「志」となって実り、
世の中のためになる人間になりたいと考えるようになる。

秀吉も「夢のまた夢・・・」といって信長への忠義を貫き、「天下人」という夢を実現する。
夢は大人になって志へと飛躍し人生をより豊かで目的があり価値あるものにする。

皆さんは如何考えられますか?

2009年12月16日

強い弱いは時が決める

母がよく私に言ったのは「外面(そとずら)がよく内弁慶」「馬鹿正直は馬鹿のうち」、
事実かもしれないが子供心に傷ついた。
逆から言うと「気づかいができる」「物事を素直に見て真実にせまる」と、
自分なりに自己肯定しながら逆らった行動をしたもんだ。

とはいえ、強くなりたいと思い、中学で陸上部に入り、
高校には喧嘩も強く成りたいと空手も習った。

これはあくまでも外面的で、肉体的なことだ。
本当に強くなるには内面的で、精神的な信念がいる。
自分にこだわる自我意識ではないモノでなければならない。

自分で事業をはじめて解ったことは二つある。
1)何が起ってもすべてに責任があり逃げられないこと。
2)自分の置かれてる状況にいい状況、悪い状況と選べないこと。

毎日がドラマで、絶体絶命BACKできない、前を切り開くしかない。
自分が選んだ道とはいえ、いつも心は逃げたいと叫んでいたのは間違いない。
しかし、10年、20年とやり続けると、
身体も慣れて来て、
何か起こって当たり前という身構えと心がまえに変化するのが不思議だ。

いつも、ドラマのように何か起こることが普通で、
何も起らないことを求めてた自分がおかしくなってくるのだ。

強い人とか弱い人が生まれつきあるのではない、
それは自分のおかれた状況と求める状況の時が決めるのだ。

弱くなる時は自分の置かれた状況を悪いと思う時だ。
逆に強くなる時は自分の置かれてる状況を良いと思う時だ。

損も得も好きも嫌いもみんな必然と思えた時、
人間は誰でも強くなれる。

皆さんは如何考えられますか?

2009年12月13日

奪い合えば戦争、与え合えば平和

もう三十年も以前の話だ。
月に一度恩師小田切瑞穂先生が会社に来られ全社員に講和してくださってた。
ある日の講和は「地獄・極楽」の話だった。

白板に一メ-トルの高さのイスに、一メ-トル離れて人々が向き合い、
一メ-トル下に金銀、食物が一杯ある(地球には元々ある)絵を描かれた。

そこで、一メ-トルの箸でつまむとどうなるかを以下のように解説された。

1)「地獄」=自分の口に先に入れようと必死になるが、
長すぎて口に入らずぼろぼろ下に落ちてしまってガリガリの人たちが並んで描かれてる。
(利己心優先の行動も考えも同じ)

2)「極楽」=相手の口に先に入れてあげようとして「どうぞ」と差し出す。
ぴったり口に入り、今度は相手が「何か要りますかね」と訊ね、
一メ-トル下の食べ物を取り与えてくれ、
丸々と太った布袋さんのような人たちが並んで描かれてる。
(利他行優先の行動も考えも同じ)

さて、1)のように奪い合えば世の中は殺伐と対立し個々人が孤立し地獄を作ることになる。
逆に2)のようにお互いが相手のことを優先し、思いやり与え合えば平和となる。

元々自然は私たちを養うすべてモノの根源だから、
このように言えるし自然に感謝だとも付け加えられた。

どんな人も平和になることを望まない人はいないに違いないが、
利他行の考えと行動が出来るかできないかが疑問だ。
もちろん私もだ。

襌の話に面白いのがある。
洞山和尚(807~869)が雲居和尚に「君の名前は、何だ」ととうと、
「ハイ、雲居です」
洞山はなた質問した。「それは生まれたあと出つけられた名前だろう。
私が今聞いてるのは、お前がまだお母さんの胎内で生きていたときの名前だ」
雲居は答えた。
「そのときの私は名前がなかった」
洞山は言った。「その名前のない母の胎内の自分と同じ生命で、
今日もこうして生きておられるのだぞ。名前のついた自分も大事だ。
が、名前のつかない自分は、もっと大事だ」

私は名前のついてない自分を大事にするように意識してるのですが、
名前のついた自分に振り回されることが多い。

皆さんは如何考えられますか?

2009年12月09日

「学ぶ」とは生きること。

最近のテレビを見てますと、クイズ番組が多いように感じる。
今の学校教育や塾の答え合わせと同じで、
視聴者は自分が何点取ったか競い楽しんでる。

悪いとか良いとか評価するもんではないが、
知識の量を競うことで生活を豊かに、
幸福を味わって生きることが実現されるかと疑問だ。

私は落ちこぼれだ。
三流の学校にしか行けなかった。

なぜなら勉強してるといろいろ思い巡らし、
単に記憶することが虚しくなったので、
記憶勉強から落ちこぼれ屁理屈ばかり捏ね回していた。

他人からは理屈っぽく言うので疎まれた人間だった。
このことが、自分のコンプレックスでもあった。

さて、「学ぶ」のは何のためでどんな順序でやるのかを、
2500年前の孔子の時代にさかのぼって考えることにする。

当時は今のようにコピ-機があったり、印刷が出来た時代ではないので、
当然基本は口伝だ。
さらに、その後は木や紙に書き写し写本をする。

だから「学ぶ」=「聞」「思」「習」とこの順番で学ぶのだ。
1)「聞」=耳から聞いて学ぶんだ。
2)「思」=学んだこと、聞いたことを整理して、自分の素性、素質、特性に、
      合ったものを選ぶ。こうすると実習可能になる。
3)「習」=繰り返し繰り返し実習する。実習がなければ学んだことが消えてしまうのだ。

これには素直さがいる。行動力がいる。
実際に使えるという実利が在るからつずけられる。
点数をつける「学び」でないから、自律的に考える習慣がつく。

孔子と弟子との旅の中での先生との問答が「論語」で、
弟子の中で学びの一流の人物は「顔回」だ。
孔子は顔回を誉めるのに「怒りをうつさず」といって、
何があっても怒らないでサラサラしてるすごい男だと誉めてる。

その顔回が40年の生涯を閉じ、先生より2,3年早くなくなったとき、
声を大きく出して、まるで親族が亡くなったように孔子は哭のだ。
(ここから慟哭という言葉が出来た)
実に人間らしく事実に成りきって生きてるのを感じる。
2500年前の時代の「学ぶ」根本を現代に伝えてくれてる。

皆さんは如何考えられますか?

2009年12月07日

「知」のハイブリッド人財の時代

司馬遼太郎の「坂の上の雲」がNHKで上映されている。
明治10年代の秋山真之、正岡子規や夏目漱石、が一緒に学び、
明治27年の日清戦争へ向かう人間のドラマだ。

秋山は自ら海軍を志願し軍人となる。
当時の男子は志ありきの学びだ。

身分の差や貧困という現実があり、外国文明の圧力があり、
日本は富国強兵を柱に、西洋に追いつけ追い越せの社会的機運という背景だ。

その時代にあって、「和魂洋才」を標榜し、
技術と精神のあり方の区別をきっちりして受け入れた時代でもあった。

私は現代も同じだと考える。
情報化社会(インターネットによる情報の世界化)という外圧、
日本の和の精神や自然を敬う心と共存させる時代だと察する。

現代流のハイブリッド=「和魂洋才」だ。
今鬱病が日本に蔓延してるのは、豊かになったからだ。
自ら世の中に貢献し世界を学び、
なにを生業(職業)として生活基盤を作るかを考えなくてよい風潮がある。
言い換えると「志」が必要ない時代になったのだ。
「志」ではなく「自己実現」を第一義にと考える時代だ。

なぜなら「志」は他人があっての自分を認めている。(相互的)
しかし、「自己実現」は自分の思ったことが現実になることだけだ。(自分的)

だから、他人が邪魔だ。コミュニケーションがうっとうしいのだ。
「若さ」という性急性(亀井勝一郎の言葉)の欲望が、
コミュニケーションが出来ないことを加速化させている。

社会は他人と自分で成り立ってるので他人を排除できないのが事実だ。
それでも自己実現を優先すると、
秋葉原の事件のように無差別に人を殺戮し暴走するか、
引きこもるかの二つの安直な方向しか選ばないのも事実だ。

物質を豊かにすることは貧困からの脱却を願った先人の努力だが、
同時に「志」を持って生きることまで奪ってしまった。

さて、「知」のあり方には二つあり。
1)インテリジェンス=ダチョウやニワトリのように歩いたり走ったり、
地面を確実に「ダッダ」「トットット」と走る「知」(受験勉強の暗記知)
2)インテレクト=ワシやツバメのように歩くことは出来ないが大空を突っ切ってとぶ「知」
         (生きるための創意工夫の知)
インテリジェントは測定可能な能力だが、
インテレクトは大空だけに道がないので測定不能だ。

秀才といわれる人はインテリジェンスといって、
答えのある解答しか出来ない「知」の持ち主で、
何が起ってもうまくやる臨機応変さのインテレクトの生きた「知」ではない。

どちらの「知」が良いではなく、
時代が求めるのは「知」のハイブリットを深め広める人財である。

皆さんは如何考えられますか?

2009年12月04日

お互いさまは「と」を「の」に変えること

「ギブアンドテイク」は欧米流の助け合い相互扶助を意味する。
まず、「与えなさい」そして「取りなさい」だ。
ここにははっきりと、与える人と与えられる人が存在する。
西洋ではエロス=奪う愛、アガペ=与える愛に分け、
与える愛がより立派な愛で、相互に助け合うそうだ。

ところが、与える人が与えられる人に支えられ、
どちらの存在もなければ成り立たないと考えるのが、日本の相互扶助だ。
どちらが上位でどちらが下位かということに意味はない。
立場に意味があるのだ。
仏教の「縁」というように表現する。
日本家屋には「縁」を結ぶコミュニケーションの場所がある。
それが「縁側」だ。

さて、西村恵信先生が実際に体験された話を紹介する。
あるとき、二人暮らしの老夫婦に、
「二人ともお元気でいいですね。でももし一人になると1+0=1で淋しくなりますね」というと、
旧制女学校出身の老妻さんは「それどころか1×0=0ですからね」といわれたそうだ。
夫婦は足し算でなく掛け算だ。

親子も同じで「親と子」でなく、「親の子」「子の親」で掛け算になるんだ。
「社長と社員」ではなく、「社長の社員」「社員の社長」になる。
この関係は、「お互いさん」で互いに成長するだけでなく、
もっともっと深く自分の立場を掘り下げることができる掛け算だ。

欧米のように個が決まっていて,正しいか正しくないかと対立的に考える文化もあるが、
向き合う相手を自分の分身のように考える日本の文化は、
「と」を「の」に変えると意味が解る。

皆さんは如何考えられますか?

2009年12月03日

雨に思う

「晴耕雨読」という格言がある。
雨の日は本を読んで学び、天気の日は田を耕やし働くのだ。
天候に合わせて仕事を変える、言い換えると、天候に合わせて自分の行動を変えるんだ。

昔の人は、実に合理的に考えたのだ。
ところが昨今はこの合理性の意味が逆で、
天候を変え自分は変わらない論理だ。

実に味気ない仕事のやり方や生活を送ってるのだ。
たとえば、年中一定の温度に空調するから身体は弱くなり、
寒さ暑さを感じない感性になる。
音楽で言うと音程のない楽譜を演奏するようなものだ。

一方自分を変える世界は、
秋に成れば紅葉し冬支度する自然があり、
自然に動かされ変化する自分がある。

真っ赤に燃えるもみじがクヌギの黄色に美しい。
こころは感じて動く感動で一杯だ。
喜怒哀楽を全身で感じる喜びがある。

吟遊詩人の山頭火は雨を詠む。
「雨だれの音も年寄った」
天地と自分が一体だ。

自分を変えるという当たり前のことが今の人はできない。
昔の生活を知らないから、
現代生活から学んだ考えが当たり前と思い込んでるからだ。
そう思い込むことは仕方ないとしても、
生きていく上で一つだけ不便なことがある。

それは他人とのコミュニケーションだ。
天気によって自分を変えれないように、
いろんな考えの人によって自分を変化させて合わすことができない。
合わすことは相手に振り回されてることだと考え、
自分がなくなると思い込んでる節がある。

自分の主体について中国の鏡清禅師の問答にある。
禅師が弟子に「門の外はなんの音じゃ」と尋ねる。
弟子の僧は「雨だれの音です」と答える。
禅師は「人間という奴はあべこべで、
自分を忘れて外のものばかり追いかけるものじゃ」といわれた。

雨だれの音はこの自分のことだということだ。
そもそも自分がいなかったら雨だれの音なんかしないのですからね。

襌には「随所に主なれば 至るところ真なり」という言葉もある。
芯がしっかりして、
どんな状況にも自然のような表情豊かに対応ができるしなやかな人間が理想だ。
頂上のない山登りが人生だ。コツコツやるしかないようだ。

皆さんは如何考えられますか?

2009年12月01日

人物観察法について

現代、コミュニケーションが難しいといわれるのは、
生まれ育った共同体が破壊され、共通の話題やルールがなくなったからだ。

経済が発展するということは、
全国どこでも何時でも誰でもが実現できる地域の壁を越えた流通のしくみがいるからだ。

自由にどこにでも行けるし、誰とでも付き合える世の中になってうれしいかと言うと、
実は逆で、誰もがコミュニケーションに不自由を感じてるのだ。

そこで、2500年前の中国春秋戦国時代の孔子様に教えてもらうことにする。
「論語」の中に、人物を自分の目で見抜く方法が書かれている。

「子曰く、その以いる(もちいる)ところ視、その由る(よる)ところ観、
その安んずるところを察すれば、人いずくんぞ廋さん(かくさん)や」

視=その人の外部に表れた行為の善悪正邪を相すること。
観=その人の好意はなにを動機にしているものなるやを篤(とく)と観ること。
察=その人の安心はいずれにあるや、何に満足して暮らしてるやを知ること。

上記のような三拍子の人物観察が出来れば、
結果その人の真人物が明瞭になり、
如何にその人が隠そうとしても。隠しえられるものでないと断言する。

だから、外部に顕れる行為が正しく見えても、
その行為の動機になる精神が正しくなければ、
その人は決して正しい人であるとは言えない。

また、外部に現われた行為も正しく、
これが動機となる精神も正しいからとて、
もしその安んずるところが、飽食暖衣逸居するにありというようでは、
ときに誘惑に陥って意外な悪をなすかもしれない。

だから行為と動機と満足する点が三拍子そろって正しくなければ、
正しい人物ではないということだ。

これは他人に騙されないようにする人物観察法であると同時に、
自分の人格形成の条件でもある。(表裏一体)

2500年前は周の武王のすばらしい政治体制が終わり、
春秋戦国時代の奪い合いの世界に入り、
それを目の当たりに見た孔子先生の生活の中から出た知恵が「論語」だ。

世界は東西冷戦こそ終わったが、
情報化社会で国家の壁もなくなり、
情報、金融が世界中を駆け巡り、
昨年のリーマンショクにより、ファンドが金融暴走する経済戦争の時代だ。

世界が経済優先の戦争状態であるからこそ、
コミュニケーションの基本となる人物観察法を身につけ、
真人物と付き合い楽しい人生や仕事を送り、
世界が相互扶助の平和を実現することだ。
それには、人間を知ることから始めるのが基本だ。

私にとってはどこまで孔子先生の観察法が身につくか大きな課題だ。
皆さんは如何に考えられますか?

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