2009年12月09日
「学ぶ」とは生きること。
最近のテレビを見てますと、クイズ番組が多いように感じる。
今の学校教育や塾の答え合わせと同じで、
視聴者は自分が何点取ったか競い楽しんでる。
悪いとか良いとか評価するもんではないが、
知識の量を競うことで生活を豊かに、
幸福を味わって生きることが実現されるかと疑問だ。
私は落ちこぼれだ。
三流の学校にしか行けなかった。
なぜなら勉強してるといろいろ思い巡らし、
単に記憶することが虚しくなったので、
記憶勉強から落ちこぼれ屁理屈ばかり捏ね回していた。
他人からは理屈っぽく言うので疎まれた人間だった。
このことが、自分のコンプレックスでもあった。
さて、「学ぶ」のは何のためでどんな順序でやるのかを、
2500年前の孔子の時代にさかのぼって考えることにする。
当時は今のようにコピ-機があったり、印刷が出来た時代ではないので、
当然基本は口伝だ。
さらに、その後は木や紙に書き写し写本をする。
だから「学ぶ」=「聞」「思」「習」とこの順番で学ぶのだ。
1)「聞」=耳から聞いて学ぶんだ。
2)「思」=学んだこと、聞いたことを整理して、自分の素性、素質、特性に、
合ったものを選ぶ。こうすると実習可能になる。
3)「習」=繰り返し繰り返し実習する。実習がなければ学んだことが消えてしまうのだ。
これには素直さがいる。行動力がいる。
実際に使えるという実利が在るからつずけられる。
点数をつける「学び」でないから、自律的に考える習慣がつく。
孔子と弟子との旅の中での先生との問答が「論語」で、
弟子の中で学びの一流の人物は「顔回」だ。
孔子は顔回を誉めるのに「怒りをうつさず」といって、
何があっても怒らないでサラサラしてるすごい男だと誉めてる。
その顔回が40年の生涯を閉じ、先生より2,3年早くなくなったとき、
声を大きく出して、まるで親族が亡くなったように孔子は哭のだ。
(ここから慟哭という言葉が出来た)
実に人間らしく事実に成りきって生きてるのを感じる。
2500年前の時代の「学ぶ」根本を現代に伝えてくれてる。
皆さんは如何考えられますか?














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