2009年12月24日
「沈黙は金なり」ではない。
幼いころ母は「男の多弁は軽薄だ」と言っていた。
何かしら反抗したくなるのが私の性質なのか、話し方ばかりに興味があった。
「沈黙は金、雄弁は銀」という格言は私にとって実に不愉快な言葉だった。
私は他人と比べると聞くことより話すことのほうが多いタイプの人間であることは間違いない。
自己弁護するわけではないが、
他人に話すと実行しないで言うばかりだと信用を失うので、
ある意味では自分で自分の首を絞めて、
自分で追い込んでるところがあるのも事実だ。
先日、朝の打ち合わせで、部下には二つのタイプがいるとS課長が言った。
1)会話していて自分の頭の中で「正解を探す人」は話がはずまなく閉塞する。
数学的に表現すれば、1+1=2〔自分にあった人しか対応できない〕
2)会話していて自分の頭の中で「正解を創る人」は話が展開して発展する。
数学的に表現すれば、2=15÷3-3、2×3÷3〔どんな人でも対応できる〕
1)のタイプの人は考えが先で行動が後〔自分本位な傾向あり〕
2)のタイプの人は行動が先で考えが後〔相手本位な傾向あり〕
付け加えて、
「沈黙」は世間や他人に言わないから嫌なことは行動しなくていいという狡賢いことも出来る。
「沈黙」「雄弁」は時によって使い分けるべしと締めくくった。
その瞬間私は道元の「善悪は時なり」と、
「諸悪莫作 衆善奉行」を解釈したことのすばらしさに気づいた。
善悪は外にあるのでなく自分の内にあるのだということに通じると直観した。
外に善を求めるのではなく自分の心に善を創るのだこれが主体なのだ。
善人を捜し求めたり、善行とはどんなことするのか、
幾つあるのか外に思いを置いて考えるからこそ悩むし、
考えと行動が一致しない。
自分の内に「こうしようああしよう」と創りだし行動することで、
考えと行動は一致する。
「積善の家に余慶あり」だ。
「沈黙」「雄弁」は呼吸のように時が決める。
もし息が止まったままなら死ぬ。
これこそが「絶対正しい」のだ。
自分〔主体〕がなくなる。考える自分も行動する自分も!!
「沈黙」だ「雄弁」だと自分はどっちなどと、
外から見た目にこだわる分別に振り回されぬことだ。
「沈黙」は金にも銀にもなる。
皆さんは如何考えられますか?














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