社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

2010年02月28日

「怒り」について考える

サラリ-マン時代に仕事をいち早く覚え、
会社のために役に立ちたいと思っていた時に、
先輩の課長〔年長〕から嫌がらせを受けたことがあった。

私の解決方法は『怒り』です。
それを実力行使で、本人に直接喧嘩を挑む方法を選んだ。
真正面から四つにがっぷり組んで喧嘩する。

単純で馬鹿な自分はわかってるが、
他人を邪魔する奴は許せないという正義感が自分を固まらせた。
怒りを実力行使したのは若気の至りだと今は猛反省だ。

直情的で単純だ。
逆に言えば「素直」とか「馬鹿正直も馬鹿のうち」と他人が評価した。
自己正当化するつもりはないが、
自分を納得させる謎解きがほしいと学んでいたら、以下のように解けた。

1)論語の中に孔子は自分のことを「憤」といって、発憤する性質だといってる。
ご飯を食べるのも忘れ集中して学ぶ、年老いることもなく夢中に生きてるのが「憤」
怒りではないのだが、怒りも自分に「発憤」を振り絞る。

2)理趣経の「忿恕の門」は「金剛忿怒大笑のこころ説き給う」
大いなる怒りが、最後には笑いとなると教える。
苦しみに打つ勝つには怒りをバネにしてもいいということだ。
欲望が生きるエネルギ-だと教えるところには共感だ。

それには条件付だと、佐藤一斉〔陽明学者)は区別して解く。

悪しき欲望=己の良知〔真己〕を曇らせ、他の人々を不幸に陥れる欲望はダメ。
良き欲望=己の暮らしに喜びをもたらし、他の人々を決して不幸にせぬ欲望だ。
要するに良心に従うことだ。

世の中を生きてると理不尽な出来事にも当たる。
今では笑い話だ。

皆さんは如何考えられますか?

2010年02月26日

『私』は下宿人

般若心経は「観自在」という言葉からはじまる。
「観」=正しい知識、智慧でもって対象を子細に観察し、その本質を見極める。〔仏教語辞典〕
『阿字観』〔真言宗〕 『一心三観』〔天台宗〕など使われる。

禅宗では『観』という見方は、変化そのものを意識におく、その入り口は呼吸だ。
呼吸は常に変わる、それに意識を沿わせる。その意識してる人間も一緒に流動してる。
この状態を体得すると『観』が解る。

ところがこれが簡単なようで、できないのだ。
五感を使って固定的に限定的にものを見るのが私たちの『脳』のクセなんだ。
この意識が『私』なんだ。

この『私』は『本来の命』のところに三才以降住み着いた下宿人だ。
ところが下宿人が大きくなるたびに知識を獲得し、母屋の『命』を占領し、
まるで自分がもともと『命』の支配者みたいな顔するのだ。

ことわざに『二十歳過ぎれば唯の人』と言うのがあるように、
名前だけが逆転してしまうだけならいいが、
物の見方も自己中心的に成り逆転してしまう。

あの楽しかった子供時代の「楽」から「苦」へ、
考え方もいきいき「生」を求めて生きるのから、
「死」なないようにはどう生きると逆転してしまうのだ。
他人に喜んでもらうにはまず自分のこと先にと利己的言動になる。

これじゃ、人間関係がうまく行くはずがない。

だから元に戻せば良いのだが、脳のクセは取れにくく、
下宿人を追い出せないでいるのが『私』〔私と私とかけてる〕だ。

こんなことを教えてくれるのは福島の玄侑宗久さんだ。
情報の蔓延する変化の時代こそ、
『私』をほどいて、『ほとけ』に近寄るチャンスだとやさしく解かれる。

皆さんは如何考えられますか?

2010年02月23日

『希望』はこころの様相を元気にするクスリだ。

もし自分の心を元気にするクスリがあるなら、『希望』を投与ください。
『絶望』は他人や自分のおかれた環境に責任転嫁することで起る心の様相だ。
だからといって、全責任は自分だと極端に悲観主義になり、うつ病になることはない。

サミエルウルマンの『青春』という詩はこころの様相を教えてくれる。

「・・・・・・人は信念とともに若く疑惑とともに老ゆる
    人は自信とともに若く恐怖とともに老ゆる
    希望ある限り若く失望とともに老い朽ちる・・・・・・」

上記のフレ-ズが私の好みだ。

生まれて親に育てられ、自分で家庭を持って子供を育て、
仕事に励み生活をし、苦楽を味わってきた。
気づいたことは、
1)親に育ててもらって当たり前。
2)子供が生まれて当たり前。
3)仕事して生活するのが当たり前。
4)何もなくいつも平和なのが当たり前。
「当たり前」と考えると、不平不満しか出てこない。
日常と違うことが起ったら、ビックリして臨機応変にできない自分になる。
だから喜べない心が育つ。

この『当たり前』を取り去り、
すべてに感謝すると、
喜べる心の様相が出て来ること間違いなしだ。
薬剤師〔自分〕さんに『希望』というクスリを調合してもらうのですが、
材料がいる。
それは「感謝」という材料だ。

この材料には二つの種類があり、一日に何十回も「感謝」すれば、
自分の心の免疫力が上がり、物事がうまく解決され、
他人にも喜びを発信できると断言されるのは、
「健康方程式365」の著者の井上敬さんだ。

「感謝」の種類
1)感情的感謝
価値に対してこころから素直にありがたいと思うこと。
秋の早朝の太陽、緑の風、水面に光る夕陽、もっとも単純で強靭な感謝
〔関心×感動=感謝〕

2)理性的感謝
素朴な心の動きでなく、少し手の込んだ言語と知性の働きを伴う。
この感謝方法は普通では感謝できないことも感謝できるようになるのだ。
特に、損する、嫌いなもの、嫌いな人に感謝することができるのだ。
嫌いなものや不愉快なことが起ると、
人間はノルアドレナリンが分泌され免疫力が落ちるが、
反面教師として自分は損しても怨まず、嫌いなものも身体に良いと受け入れ、
嫌いな人も自分はそんな態度しないでおこうと受け入れ、
ピンチがチャンスの思考回路が働くようになるのが最上級の感謝材料だ。

さらに、感謝の材料になる言葉も二つある。
1)『ありがとう』積極的で開放的になる。
2)『ごめんなさい』悲観的で閉鎖的になる。
「ごめんなさい」よりは「ありがとう」と表現するほうが、
『希望』というクスリの効き目はビッグだ。

皆さんは如何考えられますか?

2010年02月19日

十多の説

張道陵(ちょうどうりょう)を開祖とする道教の教えに『十多の説』がある。
道教は「不老長生」の教えで、無為自然の存在者の長生を願う民間信仰だ。

この説を見て、正岡子規の『病床六尺』を思い出した。
書き出しは『病床六尺、これは我が世界である。
しかもこの六尺の病床は余には広過ぎるのである・・・・・・』
不治の病の中で必死に生きた子規は『悟りとはいつでも死ねることでなく、
どんなことがあっても生きること』と考えるのだ。

だが、なんでもかんで善行を思いっきりやればいいというものでもない、
というのがこの教えだ。

私も行動をチェックをして見ましたが、一方に偏ってることの多いこと。
こだわりでバランス感覚がない一方通行人間だと思い知らされた。

『十多の説』
1〕思い多ければ神(こころ)怠る。
2〕念多ければ志散る。
3〕欲多ければ知損ず。
4〕事多ければ形疲る。
5〕語多ければ気傷る(やぶる)。
6〕笑多ければ臓損ず。
7〕愁多ければ心懾る(おそる)。
8〕楽多ければ意溢る(あふる)。
9〕喜多ければ志昏し(くらし)。
10〕怒多ければ百脈定まらず。

笑いすぎると臓器がしまりなくなるんですね。
また喜び多いのも志が見えなくなるというのは実に奥深いと感じる。

皆さんは如何考えますか?

2010年02月17日

健康はつくるもの

数年前に一ヶ月の入院をする病気になった時、
ベットから動けない自分が腹立たしく思った経験があり、
健康については日ごろから意識するようになった。

さて、健康とはあるものなのか?つくるものなのか?

「健康方程式」を考えた井上敬先生の提唱が、
非常に興味深いので紹介する。

「健康方程式」
究食=休食+求食+球食

実に科学的で楽しい発想だ。
人間の生きる欲望は生産するエネルギーで抑圧的に取り扱うのでなく、
開放的に、前向きに自主的に捉えることが大事と力説される。
だからといって、他人に迷惑かけたり、
利己的な自己中心性を肯定する考えではなく、もっと大人のスマートな説だ。

どんな人も生活することが大事だ。
そのためには仕事をする。
働くことに一生懸命身体を使い神経をすり減らして、
健康が当たり前と考えて走った結果私は病気になった。

これが美徳のように考えてきたが、
身体から考えると不健康〔病気〕の方向へ目指す道だった。
実は全く逆に考えなければ健康が維持できて働くことができないのだ。

これがこの健康方程式を実行するということなんだ。

戦後モノのない時代は求食が中心で仕方がないが、
もう時代は新しい方向へ舵をきる時期に来たようだ。
休食と球食を考え健康をつくる時代になったのだ。

それも単にサプリメントや摂取するものの吟味する健康法から、
地球の贈り物の大豆のたんぱく質や、
断食も視野に入れた健康つくりがはじまろうとしてる。

時代は地球環境の物質的なエコと同時に人間の精神的健康をつくることをつうじて、
生きてる自分〔求める自分〕から、地球に生かされてる自分〔休、球の自分〕
の自覚を深め、物や、精神や命のすべてに「感謝する」ことから始める自分つくりが、
本当の意味での健康つくることなのかも知れない。

私が病気になるのは自業自得ですが、
健康を考える絶好の機会を得たチャンスでもあった。

食物の「摂取の工夫」のなさと「感謝」が足りなかった自分に気づかされた次第だ。

皆さんは健康如何に考えられますか?

2010年02月15日

笑顔の本質

仏教では『和顔施』といって、
無財の七施〔お金がかからないですぐできる布施〕と教えているが、
なかなか続けることができないのが私だ。

渡辺和子さん〔ノートルダム清心学園理事長〕は笑顔をやり続けるキッカケと、
その後の継続について本質を学ばせてくださる文章を見つけた。

理屈っぽい私にも『笑顔人間』になれるかもと期待を下さったので、
みなさん方にお福分けの気持ちで紹介する。

1)キッカケ=笑顔を誉められたこと〔二十代〕
2)持続するようになったのはある詩との出会いからだそうだ〔三十代〕

『もしあなたが、誰かに期待した
 ほほえみが得られなかったら
 不愉快になる代わりに
 あなたの方から ほほえみかけて
 ごらんなさい
 ほほえみを忘れた人ほど
 それを必要とする人は 居ないのだから』

この詩と出合って、笑顔の質が変わったとつづられる。
1〕チヤームポイントの笑顔から、
2〕他人への思いやりとしての笑顔へ
3〕自分自身の心への戦いとしての笑顔へ
こう転換したそうだ。

そして力強く以下のように語られた。

『それは ほほえむことのできない人への愛の笑顔であると同時に、
相手の出方に左右されなく、私の人生を笑顔で生きるという決意であり、
主体性の表れとしての笑顔へ変わっていきました。』
そして結果、二つの良いことが起り、心が豊かになると断言される。

1〕物事がうまく行かない時に、笑顔でいると不思議に問題が解決すること。
2〕自分自身との戦いの末、身についたほほえみには他人を癒す力があるということ。

80歳になる渡辺さんは笑顔で生きることは、立派な『エコ』なんだといわれる。
不機嫌は立派な環境破壊だと、私たちは時に、顔から、口から、態度から、
ダイオキシンを出して大気を汚染し、環境を汚し、人の心を蝕んでるといわれる。

具体的なものの環境も大事だが、精神の環境も同時に「エコ」にしてこそなのだ。
反省、反省、もう反省だ、
私の日ごろの言動を思うと恥ずかしい限りだ。

皆さんは如何考えられますか?

2010年02月11日

ナンバーワンとオンリーワンについて

先日、友人Nさんと食事をしていた時、
「世界に一つだけの花」という流行歌の、
「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」
という歌詞について誤解されるというのだ。

1)あらゆる動植物は強いもの〔優性遺伝〕を残すようにできている。
どんな花でも、同じ花同士でなくても、
他の植物と光の当たる場所の取り合いをする。

2)また生き残るためには、
どんな栄養のないところでも生き抜くようにがんばって光に向かって伸びようとする。
必死で生きるということが遺伝子にインプットされてるのだ。

しかし、人間は自分の意志で怠けることもできるし、
誰かに依存して甘えても生きれるからだという。

人間が努力するといことは、目標や志を持つことだ。
自分の天分を生かしきり、ナンバーワン〔成長したいと必死に〕になり、
強い意志を持って実行することだ。
生命にとって、生きることは必死なのだ。
〔これをそばで見てる人が、競争と表現したに過ぎない〕

この歌詞のように、『ナンバーワンにならなくていい』というのは努力の否定で、
マイペースで自己肯定して好きなことだけしていれば、
勝手にオンリーワンになるように錯覚すると主張するのだ。

続けて、彼は言う。
二宮尊徳流に、
『ナンバーワンのないオンリーワンはマイペースの自己中心的な人、
オンリーワンのないナンバーワンは他人を押しのけ、傷つける自己本位な人』

人間は、目標をもって努力する意志を持つからこそ、
すばらしいオンリーワンを磨き上げることができる〔表裏一如〕と力説してた。

わたしも同感だ。

皆さんは如何考えられますか?

2010年02月08日

「中庸」に学ぶ

「中庸」とは四書の一つで『礼記』の一編だ。
反対語が極端だ。
意味=考えや行動などが偏らないこと。

理屈はわかるんだが、できてるかというと時々できて、
すぐ忘れて偏る自分がいるのが現状だ。

私が偏るのは良いのだが、
がんばってるときの私は、
他人にもモットガンバレ理想的にやれと愚痴や怒りがこみ上げる。
一方気を抜いてリラックスしてる時の私は、
どうでも良いと投げやり無関心になる。

まさに「中を養う」とは解っているができない。
どうすれば良いか、第二十章に書かれてる。

『知仁勇の三者は天下の達徳なり』
ようするに、世の中でこの三つを修しろと言うのだ。
『子曰く、学を好むは知に近し、
     力〔つとめ〕を行なうは仁に近し、
     恥を知るは勇に近し、
期(こ)の三者を知れば、則ち身を脩むる所以(ゆえん)を知る』

意味=学ぶことを好んで嫌がらないのは、知に近く、
   勤めて行って怠らないのは、仁に近く、
   まだ自分が故人、先哲に及ばないのを恥じるのは勇に近い、
   この三つを知れば自分を修めることを知る。

もっともなんだが、
これができて続けられる人は極(ごく)僅かではないか?と言いたくなる。
できない私の自己正当化であり、反発なのか皮肉りたくなる。

しかし、さすが孔子先生だ。
第七章には、できない私を励ます言葉が書かれていることに感動した。

『子曰く、人皆世を知ありと曰う。
 驩〔か〕って諸(これ)をコカクカンセイの中に納れて(いれて)、
 これをサクルを知る莫きなり(なきなり)。
 人皆予を知ありと曰う(いう)。
 中庸を択んで期月も守ること能(あた)わざるなり。』
〔漢字がないのでカタカナにしました〕

意味=孔子さんが言う、世の人は皆私を知者というが、
   それはあたっていない。
   たとえば獣や魚を捕らえる網やわなや落とし穴に追い込まれても、
   これを避けることを知らないのである。
   世の人は皆私を知者というが、
   中庸の道を択んで一ヶ月も守ることができない。

自分の至らなさを述べておられるんだが、
私とは数段深さが違うことはわかってるが、
人間くさくて大好きだ。

弱さのない人間は居ないし、みんな発展途上人だ。
天上天下唯我独尊といったのは御釈迦さんだ。
唯我独尊、ただ私一人の命を尊ぶ、感謝して生きるということだ。
孤独でなく、人間の肉体も意識からさえも開放されることだ。

こんな体験を味わう未熟な自分を尊ぶことにする。
〔驕りの気持ちで言ってるのではないので書き添える〕

皆さんは如何考えられますか?

2010年02月06日

「NHK竜馬伝」に思う

NHKの連載ドラマは『竜馬』を取り上げ、
幕末の幕藩体制から、富国強兵の近代日本へ大転換するストーリーだ。

昨年の秋、民主党に政権交代したドラマと重なる。
歴史はどう発展するか解らないが、
今までの延長線ではないことは確かだ。

先週の「竜馬伝」で福山雅治演じる竜馬がぺリーの黒船を見て、
千葉道場で剣の修業することの意味に迷いだす。
根本が揺らぐところの場面で終わった。

その後の坂本竜馬の熱い思いは西郷隆盛をうならせ、勝海舟をも納得させた。
薩摩と長州は不倶戴天の敵であった固定観念を破る。
近代日本の土台をつくった。
一方幕藩体制の改革、改善で乗り切ろうという井伊直弼は、
桜田門外で外様大名に殺される。

これが日本の歩んできた歴史だ。

近代国家の発展の原動力だった中央集権体制が地方主権へ移行しようと舵が切られた。
コンクリートから人への財政支出を変化させ、
国の形が変わろうとしている激動期だと察するのは私だけだろうか?

民主主義の行き過ぎは大衆迎合主義〔ポピュリズム〕に陥り、目先の利益優先になる。
逆に独裁政治が行き過ぎると恐怖政治に成り、情報統制がなされる。

国民主権の政治が始まったところだ。
そのために、国民は責任を負わされてる。
今の不景気と失業という実情において!
一人一人の創意と工夫を集め、仕事を創造し、
自覚、自律、自主の国民として、この現状を切り開く時期だ。

まさに新しい時代の幕開けだと感じる。
坂本竜馬のように、根本からあるべき姿を問い直すいい機会だ。

アメリカのナサの航空宇宙局にサバイバル研究所がある。
ジャングルや砂漠で人間が生き残るには、
なにが重要な条件かを探る実験が行われた。

最重要条件は、
答え=話し合うこと。

歴史は幕藩体制を根本から否定し近代国家をつくった。
今この近代国家を根本から否定して地方主権へ舵が切られたのではないか?

私には解りませんが、あらゆる価値が転換するような予感がする。
人類のまた日本国民の叡智を期待するとともに、
私自身も固定観念に縛られず、
柔軟な発想と決意と行動が問われてることを自覚させらた。

皆さんは如何考えられますか?

2010年02月02日

自分を良くするいい方法

どんな人も自分を高め能力も人格も社会的活躍の場や、
物心両面の豊かを享受したいと考えるのが普通だ。

上記の結果を得るための、
「方法論」と「持続する意志」を持ち続ける秘訣を知りたいのが本音だ。

わたしも弱い人間だから、
目標を持っては挫折、挫折、逃げ出したいと現実から目をそむける。
自分が思うようにならないと怒り、周りの人、傷つけることを何度も重ねてる。
反省はいくらしても足りないが、
そのつど「こうすれば」と考えたことを以下に書くことにする。


1)自分を励ますいい方法は他人を励ますことだ。

他人に「がんばろう」と言ってるんだが実は自分に言い聞かせてる言葉だ。

2)人間の本来的欲望が悪い方向に振り回され他人を傷つけないいい方法は、
志を高め(徐々に志のレベルアップをする)、
一意専心で集中して行動することだ。

目標が達成されない時は誰でも真剣にわき目もふらず目標に向かうことが出来る。
逆に、目標が達成され、
周りからも称賛された時こそ落とし穴だ。
同じ人なのに、驕ってしまい謙虚さや努力を怠り、
怠惰になり、単なる遊興に溺れる人がいる。
こんな状況の時こそ、
たとえば富士山に登頂すればエベレストに登頂、
エベレストに登頂すれば三浦さんのように何歳までできるか挑戦し続けること、
志のレベルアップをして自分を鍛え、モチベ-ションが下がらないようにするのだ。

3)健康を保ついい方法は自分の環境を病気の状態にすることだ。

人間は病気にならないと健康を考えない、
だから意図的に病気の環境状況を作ると、
健康に成りたいという本能にスイッチが入り、
集中して努力し心身を鍛えるのだ。
孫子の兵法に『治にいて乱、乱にいて治』、『健にいて病,病にいて健』
ついつい健康が当たり前で、自ら病気を作る行動をしてる自分に気づかない。
健康はあるのでなく、
自分の身体を鍛えながら身体に相談し創っていくのだ。

上記のように、現実を逆に想定することで智慧が働きブレない信念(健康)が達成できる。
(言うはやすし行うは難し)反省、反省

4)自分の身体とこころをしっかり活かしコントロ-ルしながら使ういい方法は、
自分の身体とこころが「天」からの借り物だと思って大事に使うことだ。

身体とこころは自分のものどう使おうと誰に文句言われる筋合いがある。
そうでしょうか?親がなければ存在しない。先祖がなければ存在しない、
仲間が泣ければ切磋琢磨できない。半分半分かな?いっそのこと、
借りてると思って、返すとき(死)には奇麗に使わしてもらって返すのが礼儀だ。
(レンタカ-なら元どうりに奇麗にして満タンで返す)

ここに書きましたが、いつでもどこでもできるてると言い切りたいですが、
現実は違います。(発展途上人)
できてるかどうかは、他人のほうが良く解かる。
100点は永遠の課題、だから寿命(時間)が与えられている。
志を高め、大事に時間使わうことから!!(コツコツ)

皆さんは如何考えられますか?