社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

2010年05月28日

認知症にならない脳のクセ

脳科学が進歩し、たくさんのことが解明されてきた。
その中でも脳を三つの軸で分析する手法は実にわかりやすい。

1)公私の軸(私利私欲脳と志脳)
2)左右の軸(理性脳と感性脳)
3)受動と能動軸(指示待ち脳と問題解決脳)

この三つで、自分の脳のクセを分析すると、
指示待ち脳という受動的なクセのある脳で、
感情的で私利私欲の強い脳の使い方は、
認知症になること間違いなしであるというデータがある。

さて、組み合わせは他にもいろいろあるが、
認知症にならない脳のクセは、
志を持って、理性的に忍耐強く努力して、
積極的に問題解決を能動的にすることだと言う結論になる。

私は時々私利私欲に負け、感情的に成り怒る傾向の脳だ。
少なくとも認知症にならないために脳をクセづけるには、
志を高め、公のためになる夢を強くもつことが、
現実を創っていく原動力になることは間違いない。

みなさんは如何に考えられますか?

2010年05月27日

競争相手は共生相手

競争相手には四つある。
1)自分以外の他人に求める。
2)自分以外の神仏に求める。
3)自分に求めるが理想の自分。
4)自分の求めるが昨日の自分。

私たちはこの中の四つの相手の誰と競争するかによって、
態度や言葉使いが違うのである。

1)の場合だと自分より優れた人と比べると落ち込むので、
上司とは付き合わないかもしれない。
2)の場合だと絶対に勝てない相手場なので、
自分を卑下しがちになるかも知れない。
3)理想の基準が高ければ卑下するし、低ければ思い上がるかも知れない。
4)いつも昨日の自分より進化しないけないとおもって、
休むまもなく精神的に参ってしまうかもしれない。

さて、競争相手は見方を変えれば自分の鏡で共生相手である。
人間には得意な面と不得意な面があり、好き嫌いが出来る。
しかしどちらも同じ自分だ。

私はできるだけ共生相手と考えるようにしてる。
自分の欲が先になると競争相手になり、
自分の欲が2番になると共生相手になるだけだ。

さて、誰しも幸せに成りたいと思い巡らし、行動する。
それにはコツがあるというのは斉藤一人さんだ。
幸せになるには執着していいことと、
執着してはいけないことがある。

商売は利益には執着してはいけない、
執着するのは『役に立つこと』『喜ばれることする』
結果お客さんや仲間、世の中の人はすべて共生相手になるというわけだ。

私はお客さんや仲間に『役立つ』ために、
競争相手の4番目の昨日の自分と対話して反省します。
他人を競争相手にするのも共生相手にするのも心一つである。

皆さんは如何考えられますか?

2010年05月24日

当たり前にすべて感謝する

『当たり前にすべて感謝する』語られたのは臨済宗妙心寺派 元管長山田無門さんである。
若いころ粗食に耐え厳しい修行をして、肺結核になってしまった。

そこで静養することになりふるさとに居られた。
あるとき風鈴が鳴った。

風が吹いたからだ、それは空気が動いたからだ。
その瞬間空気に感謝したことがないことに気づいたそうだ。

『空気さんありがとう』心から感謝された。
このときから病気は回復に向かい90歳近くまで生きられた。

『当たり前にすべて感謝する』

私たちは何のために生まれてきたか?
それは生きるためだという。

ところが、価値観だの個性だのと言い出すと生きづらくなる。
素直に懸命に生きることができれば丸儲け、
誰かのためになっていればより幸いだ。

感謝は幸福の扉を開き、心身が健康になるキワードである。
私は欲が多く、ついつい怒りっぽくなる自分に反省だ。

皆さんは如何考えられますか?

2010年05月22日

心はどこにある

最近は脳の科学が発達して、心は脳であると考える人がいるが、
しかし、私は違う。

心はやはりハート印の心臓にあると思う。
「考えること」は大きく三つある。
1)虚心に物・人を観察し、法則を知る
2)それを順序良く並べたり、秩序正しくする。
3)人間にとって最短の合理性を見つけ効率を導き出し、
 繰り返し使えるようにする。

現代は考えることを客観的、科学的といって絶対的の思い込んでる人が多い。
人間の考えることはそれほど万全ではない。
ソクラテスは『無知の知』を知ることと言ってるように謙虚でなければならない。
言い換えると科学万能主義者は、
人間をモノ化することだと察する。

現実は音楽や文学、美術といった合理性でない世界があるように、
モノ化だけではうまく運ばないのも事実だ。
そう、『血が通う』ことが大事だと誰もが知っている。
だから心は血を送り出すポンプの心臓なんだ。

効率や合理性だけでない、温かみや、癒し、
やすらぎと言った人間味を味付けるところで、
私たちは『血が通う』と表現する。

キーワードを並べる。

心  技  体
見識  知識  胆識〔安岡正篤さんが良く表現される〕
心臓  脳  足
血が通う、考える 行動する
道  術  動

私は心とは「考えること」でなく「思うこと」だと察する。
これが一番でなければ仕事や人生が成就しないとも思ってる。

一番は「思ったこと」で「考えること」は二番だ。
考えが整理できたら、三番で行動し実現させることが大事だ。

この時には、足で行動するんですが、
気は胆〔へそ下三寸のところ〕に集中し無心でやり遂げる。

一番大事なのは行動すべき手順や方向を考えたことに血を通わせることだ。
そこには熱き心がいる。

単に利己的な熱き心でない、世のため人のためという「志」がいる。
どんな人も自分の使命の自覚に気づくことだし、
役立つからこそ存在するのである。

稲盛和夫さんは『動機善、私心なかりし』をいつも自問自答して仕事に取り組むそうだ。

みなさん、心はどこにあるとお考えですか?

2010年05月20日

私塾に思う

江戸時代は「士農工商」の身分階級があった。
特に江戸の庶民文化が花咲く元禄時代は、経済的に発展していた。

ところが、商人は一番身分が低く、お金そのものも卑しいものとされ、
特に天下の台所、大坂では経済人五人が集まり「懐徳堂」という私塾が開校された。

他にも「合翠堂」、「適塾」、「松下村塾」、
ここかたらは民間学者も輩出し、
明治維新をなしあげた人達がいる。

この時代の基本は、武家の子弟が学問をし剣術をするのが一般的で、庶民はしない。
私塾は「三奪の教え」といって、「職業、年齢、学歴」を問わないのである。
庶民の間では『三脱の教え』と洒落て言ったそうだ。

やる気のある者が、この門をたたき、学問で身を立てるチャンスだと考えたのだ。
今の私塾の目的はこの「三奪」で世の中に役に立つ人物を育成してるか疑問だ。

学問が数学、物理学、地学、文学などなどに細分化され、
正解を答える入試試験に合格する教え方になっていないだろうか?

学問の根本は世の中に役立つことを旨とした「四書五経」のような、
目に見えない精神的支柱を作ることが第一義であり、
そのために、各分野に通じる学びを深めることだ。

試験には答えがある、それを見つける学びで、
融通性が利かない人材を輩出して何になるのだろうか。

現実は違う。
人生や仕事に置いて、正解を探すのでなく、
正解を創って行く創造的な人物を育てることが最重要課題である。

「情報化社会」の次に来るのは、
「創造化社会」だというのは姜 尚中〔カン サンジュ〕教授だ。

創造化社会を生き抜くには「哲学」がいる。
単に、自分個人の利己心を満足させるためだけに学ぶのなく、
世のため人のため自然のためという志を高めて、
正解を導き出す創造力のある人物が求められる。

私塾が学歴獲得の記憶勉強に終わらないで、
『三脱』で機会の平等が与えられ、
どう生きるべきかを学べる道場になることが望ましい。

皆さんは如何考えられますか?

2010年05月18日

人間にしかない家族

人と言う種族ができるのは700万年前、
900万年前にはゴリラ、12000年前はオランウータン、
チンパンジーは200万年前だそうだ。

人の特徴は二足歩行だ。体毛もなく皮膚だけである。
人は肉食獣に食べられるので、多産によって種を保存するようになる。
これが、子供期〔2歳から5歳〕といて、授乳離れを早め、脳が発達するようになる。
毎年、子供を生むことができるのだが、授乳期〔1歳から2歳〕の短さや、
思春期という14歳から19歳の著しく身体が成長しホルモンバランスが崩れる時期に、
手がつけられなくなる。この2つの時期を共同子育てするために、
閉経を早くし、おばあさんに手伝ってもらうように変化した。

14歳までは20%から85%ぐらい脳を作るためにエネルギーが使うわれてる。
この種を保存するためにチンパンジーがでてくる200万年前の500万年間、
進化し続けてきたのである。

人間以外には家族はないのである。

今西錦司先生が『家族の成立条件』1961年に発表なさったのによると、
1)外婚の単位
2)近親相姦しない〔タブー〕
3)男女の経済的分業があること
4)複数の家族が集まり地域社会に存在すること

経済が発展し、情報が容易に手に入ることは良いことだが、
地域社会のかかわりを断ち、個人が優先され家族が崩壊してる現状は、
共同育児の必要性を断ち切り、
おばあちゃんの智慧やおじいちゃんの智慧が伝承されなくしてしまった。

個人が集まって社会ができてるのでなく、
社会があって個人が存在するから、人の種は保存されてきた。
今こそ、共同体、家族の大切さをみんなで考え直す時期がきてるようだ。

草津中学三年生の森田佳代子さんの詩を紹介する。

『おそろしいこと』
困難にぶつかることよりも 人にうらぎられることよりも
つらいことよりも かなしいことよりも
くるしいことよりも もっと恐ろしいことは
あきらめてしまうこと・・・・・・そこですべてが終わってしまうから・・・
この詩は人間同士「支えあうこと」、「絆を大切にすること」、
現代社会の方向が絆や支え合いのない味気なさへむかないように、
「あきらめてしまう」間違った個人主義への警告ではないだろうか?

皆さんは如何考えられます?

2010年05月17日

依存と相補

命のレベルで考えることを、仏教では教える。
しかし、現実の私たちは人間のレベルで考え行動する。

当然、損得、好き嫌い、善悪がある。
自分にとって都合のいいことを選択することが正しいと思い込んでる。

ほんとにそうだろうかと考えると、どうも違う。
すべてはつながってるからだ、仏教では因縁というが、
物事は連関してるということである。〔関係性でなり立ってる〕

依存=お互いが自立してなく、頼りあう関係だ。
相補=お互いが自立し、助け合う関係だ。

我々はこの両極端の間で生きてるようだ。

奈良の文化会館で、重度脳性マヒの子供たちの詩に、音楽をつける大会があった。
山田康文君15歳の詩だけは、音楽がつけれないということで朗読された。
命のレベルだ。〔一行かくのに二週間かかったそうだ〕

『お母さん、僕が生まれて ごめんなさい』

ごめんなさい お母さん
ごめんなさい お母さん
僕が生まれて ごめんなさい
僕を背負う かあさんの
細いうなじに 僕が言う
僕さえ 生まれなかったら
かあさんの しらがもなかったろう
大きくなった この僕を
背負って歩く 悲しさも
「かたわな子だね」とふりかえる
つめたい視線に 泣くことも
僕さえ 生まれなかったら

この詩にお母さんが、

『私の息子よ』山田京子

私の息子よ ゆるしてね
わたしの息子よ ゆるしてね
このかあさんを ゆるしておくれ
お前が脳性マヒと知ったとき
ああごめんなさいと 泣きました
いっぱいいっぱい 泣きました
いつまでたっても 歩けない
お前を背負って歩くとき
肩に食い込む重さより
「あるきたかろうね」と母心
“重くはない?” と聞いている
あなたの心がせつなくて
私の息子よ ありがとう
ありがとう 息子よ
あなたのすがたを見守って
お母さんは生きていく
悲しいまでの がんばりと
人をいたわるほほえみの
その笑顔で 生きている
脳性マヒの わが息子
そこにあなたがいるかぎり

   返歌に、ありがとう おかあさん
       ありがとう おかあさん
       おかあさんが いるかぎり
       僕は生きていくのです
       脳性マヒを 生きていく
       やさしさこそが 大切で
       悲しさこそが 美しい
       そんな人の 生き方を
       おしえてくれた おかあさん
       おかあさん
       あなたがそこに いるかぎり

私たちは大地の自然の恵みをいただき、また身近な家族に支えられ、
仲間や、他人に知らず知らずにお世話になってる。
目に見えない世界に感謝することが先のように思う。
『感謝』の心が明日を開き、
『ありがとう』がこだまする世の中でありたい。

皆さんは如何考えられますか?

2010年05月15日

苦労を希望に変える

この言葉は松下幸之助さんの一日一話の本の中に掲載されている。
そこには以下のように書かれていた。

「仕事のコツを体得するということは、決して楽な技でないと思います。
 相当精魂を込めてやらなければならないと思うのです。
 それはやはり一つの苦労だと考えられます。しかし、苦労であっても、
 それをやらねば一人前になれないのだということを、青少年の間から、
 常に先輩に聞かされてると、それは苦痛でなくなってくるのです。
 それは希望に変わるのです。
 ですから、そのコツを体得することに対して、
 精魂傾けるということができてくると思います。そのように、
 いろいろ難しい問題にも、心を励まして取り組んでいくところに、
 自己の完成というか、自己の鍛えがあると私は思います。」

      松下幸之助

目的は自分の幸福実現のためであるからこそ苦労に飛び込むことも出来る。
「幸せになる」ためにだということを強く強く思わないと、
苦労に飲み込まれるのも事実である。

現代の情報化社会では情報に振り回され、自分探しができず苦しんでいる若者は多い。
苦労に飲み込まれると、努力することや自分を変革し成長させることから心を閉ざしてしまい、
引きこもりや、うつ病や、極度のコミュニケーション拒否症になり精神的発育が遅れ大人になれなく、
社会人として社会の一員としての協調性がかけてくる。
すべての解決は仕事に飛び込み行動することから解決される。
『行動』がキーワードである。

さて、その苦労には三種類の苦労があると断言されてるのは斉藤一人さんだ。

1)持ち越し苦労=やってしまった過去をグチグチ悔やむこと。
2)取り越し苦労=未来のことでまだ起ってないのに過剰に先行き不安を持つこと。
3)持ち出し苦労=不幸な人を例に出して、自分もこんなに不幸だと思い込むこと。

この三つの苦労を蹴飛ばし、即、利他行を行動することに心を切り替えると智慧がわき、
心が定まり、希望に変わっていくこと間違いなしである。

事実に素直であり、どんな事態も受け入れたら苦労が希望となり、
自然と道は開けていく。

みなさんは如何に苦労を希望に変え、乗り越えてこられましたか?

2010年05月13日

宿命と運命

「宿命」とは国語辞典によると、
前世から決まっていて変えれない運命。
たとえば「死は宿命だ」
もっと具体的に言うと、
1〕親を選べない
2〕生まれる社会的環境を選べばない。〔貧富や教養の差など〕
3〕時代〔どの時代に生まれるか〕
4〕性別〔男女〕
5〕死ぬこと
この五つはゆるがせないのが人間の命に宿ってる。
このことを悩み苦しんでもどうにもならないのが現実だ。
これを受け入れることを運命が開くというのである。

「運命」とは国語辞典によると、
身にふりかかる善悪・吉凶、めぐり合わせ、
人間の力ではどうすることもできない力。

これを仏教では「因縁」と解く、
人間として最低限できることは因果の法則があるから、
善行をし、利他行をすることであらゆる因縁から開放され、
自然と我を忘れられ、運命は開けると諭す。

この道しるべは物事を明らかにする「智慧」の火をともせという。
自分の人生を自分で開く主体性がいる。

白隠禅師は『暫時不在 如同死人』
意味=少しの間でも自分が不在だったら死んでる人と同じだということ。
『死』という宿命を受け入れることは、
いついかなる時も自分がいるのだと逆説的に教えてるようだ。

「宿命」を100%受け入れ、真剣に生きることを楽しむ。
「言うは易し 行うは難し」だが、
このちがい、最近明らかになってきたところだ。

皆さんは如何考えられますか?

2010年05月10日

自分に正直に生きるとは

幼いころ、「馬鹿正直は馬鹿のうち」と母に叱られたのを記憶している。
子供心に、嘘をつくな正直に言ってもダメだと言われると、後は沈黙しかないと悩んだもんだ。

この意味が全く解らなかったのだが、
初期仏教を教えられてるアルボムッレ・スマナサーラさんが、
簡単に解かれているのを見つけた。

『仏教は感情で生きることは無意味だと解く』と言うのである。
なぜなら、自分に正直に言うことは感情に正直ということだからだそうだ。

感情に正直とは、
人間の三毒〔貪、瞋、痴〕の感情によって生きることになると言う。
貪=食欲、睡眠欲、性欲、名誉欲
瞋=怒り
痴=無知、人間の認識の限界によるゆがみ

泥棒や殺人犯も実は自分の感情に正直であることは違いない。
結果として、罪人を認めることになる。これはダメだ。

だからといって正反対に不正直を行動することではない。
〔人を信じないにも通じる〕
これは大変ストレスがたまり長続きはしません。

どうするかと言うと、
1)理解すること
2)次は、気づくこと。〔自分の感情の客観化〕
  今、『怒り』を感じる。『欲が肥大化してる』

結論的には、感情に操られる奴隷になるのでなく、
感情を操る御者になることだと断言する。

この訓練は、毎日の日常生活中でどんな人もやってるそうだ。
母親が言いたかった馬鹿正直の意味がやっと解ったが、
どこまでできるかは死ぬまで感性がないので、生き抜いてみないとわからない。
現実は皆さんが思ってるぐらいの馬鹿正直であることは間違いない。

みなさんは如何に対応されてますか?

2010年05月09日

知足知止

『足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆う〔あやう〕からず』
   老子

これは世の中を生きていくためには、処世の術として学ぶべき教えだ。
貪欲にでしゃばっては、周りから反感を買うことになり、
ほどほどにすることだ。

また自分ひとりだけの利益を考えず、周りの人の共存共栄を考えることが、
止まることだ。

ところが、理性でコントロールすることは本能に反することで、
よほど修行しないと有頂天になり、突っ走るのも人間の人間たるゆえんだ。

禅では『吾唯足知』、また『止観』と自己を客観化しろと教える。
理屈じゃないのである。
道元禅師は『冷暖自知』と厳しく理屈を否定する。

皆さんは如何考えられますか?

2010年05月06日

素直な心

「素直な心」を大切にされたのは松下幸之助さんである。
素直な心になると『私の心』がなくなり、
物事を客観的に判断できるし、
その判断が間違ってることが非常に少ないと断言される。

松下さんが戦後PHPの運動を始められたころの標語にある。

『素直な心になりましょう。素直な心はあなたを強く正しく聡明にします』

「私心」をなくすことが一番難しいのは言うまでもない。
本能は人間の不幸をねがう利己的遺伝子であるからだ。

行動力、意欲、望みが多ければ多いほど、
他人とは敵対する感情が出てくるのが自然だ。
『相手より良くありたい』
『自分の行動を邪魔する人を倒したい』

仮に、相手より良くなり、相手を倒したからといって、
自分が良くなるわけではない。

むしろ、他人のために役立つ技能や知識を学び自分を高め、
他人のために自ら行動することが望ましいし、
どちらにとっても良くなる。
近江商人流に言えば三方良しで世間も良くなる。

欲望を否定し、清貧を善だと言いたいのでなく、
また、自虐的に行動を束縛することを良しと言う訳でもない。
むしろ、利他行をすることで、善行がおこなわれ、
一時的に『私心』から離れられると考える。

法句経に、
『勝つものは怨みをうけ、
 負けるものは夜も眠れず
 勝つと負けるを離るる者は
 寝ても覚めても安らかなり』

振り返ってみると、
若きころの不自覚で無知さから来る「依頼心」を「素直な心」と勘違いしていたようだ。
『素直な心』で『私心』のない自分つくりに邁進したい。

皆さんは如何考えられますか?

2010年05月03日

当たり前の基準

斉藤一人さんの言葉に『感謝の反対は当たり前』と言うのがある。
1)健康が当たり前だったら、病気すると腹が立つ。
2)病気が当たり前だったら、健康に感謝する。
こう考えると、自分はどこに基準を置くかで「感謝になるか?」「当たり前で腹立つ」かだ。

1〕親が子供の面倒見るのが当たり前だったら、面倒見ない親に腹が立つ。
2〕親が子供の面倒見れないくらい働いてたら、子供は感謝する。

また、当たり前の基準の質もレベルの高いのからレベルの低いのまであるので、
感謝するかはその人の育った環境によったり、主観的価値観で違う。
こんな分別ばかり気にしても仕方がない。

自分にとって一番幸せになる「当たり前の基準」は、
『どんなことが起っても=ありがとう』と感謝することだと結論付けた。

自分の外の世界を評価して基準をつくるのでなく、
自分のうちの世界を基準につくればすべてに感謝できると解った。

自分にとって良いことが起ったり、良い人と出会えば教師として感謝する。
逆に自分にとって悪いことが起れば、反面教師として感謝するのである。

言うは簡単だが実際行動できるかが問われるのが現実社会だ。

高村光太郎の詩のように、
『僕の前には道はない 僕の後ろに道ができる-----』
こんな風に答えるしかない。

自分の命を思いきり使って行動し、
まだ見ぬ『未見の我』に出会いたい。
可能性は自分で開くものだと思うからだ。

昨日の朝礼でT君が、「私は日本一番の営業になりたい」と言ってました。
失敗や挫折した時に、なりたい自分にまだなってないと自分を励ますそうだ。
彼の当たり前は『志の高さ』なんだと感心した。

皆さんは如何が考えられますか?