社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

2010年08月30日

天上天下唯我独尊について

御釈迦さんは『天上天下唯我独尊』
釈尊が生まれて七歩あゆみ、右手を持って天を指し、
左手は地を指し、語った言葉と言われてる。

伊藤仁斎の解釈=釈尊は天下と共のその善を同じくすることを欲し、
        天下を離れて一人その身を善とすることを欲しない。
        衆生と共にであるということ。人間世界の中で!!

でも独尊であるというのはすべてのことは自主的に主体として存在そのものは尊い。
縁には感謝ですが依存はしないという主張だ。
これはほんとに言ったとか言わないということよりも人間の存在だ。

だからこそ『孝』が大事である。
『孝』のうちでも大事なのは『親孝行』である。
中江藤樹は父親が雷が嫌いだったので、夏の雷がなった日には、
庭にあった父の眠る墓石に自分の羽織をかけたという逸話が残ってる。

さて、親孝行にも「上、中、下」があると古来中国ではいったそうだ。
1、下の親孝行=親を尊敬して所帯は別に暮らす(金銭的関係がない)。
2、中の親孝行=親を引き取り生活の面倒を見る。
       (尊敬してやまないといことでないが具体的に生活の面倒見る)
3、上の親孝行=親を引き取り生活の面倒を見て、親の恩に感謝し、
      親の言に従い逆らうことなく、尊敬した態度を取る。

親へ感謝し、恩に報い、尊敬の態度を取ることができる人こそが上の親孝行だが、
一般的には自分の価値観と対立する部分や、
親も人間だからすべてが正しいわけはないと否定し全面的にとは思えないのが普通だ。

今の私はどうかというと、父は亡くなり、母だけで89歳で認知症だから、
記憶はあいまいで、作り話もするが受け入れられる親孝行が出来るようになってきた。

森信三先生は『父母の恩の有無厚薄を問わず、父母ありというが即ち恩ありということなり』

自分の価値観や親も間違ってると理屈で親を見るんではない、
私という存在をつくってくれた「神さま」として考えろと教えられた。

感謝、感謝、感謝!!(よく忘れるのは愛敬!!)

皆さんは如何考えられますか?

2010年08月28日

共存共栄=愛情×自主経営

昭和39年(1964年)10月販売店会議で松下幸之助さんが語った。

『自主経営のない人は依存経営になります。
 それでは「共存共栄」になりません。助けられてするということはいつか破綻します。
 自主経営は相手から与えられるものではない。自主経営は自分でするものである。 
 その自主性があった時に、相手の力というものが生きて働く。
 それが「共存共栄」働くのだと思う。
 みんなが助け合っていくということは、みんなが実力を持つということです。
 実力をなくした人を助け合うというようなことではない。
 実力を持つようにお互い助け合う。これが私は「共存共栄」と思うのです。

 これがなくては世の中うまく行かないと思います。慈善事業であれば別ですが、
 そうでないのだから、みんながそれぞれ職責を全うして、
 自分の仕事をしていこうという場合にこそ、その実力の上に「共存共栄」の花が咲く、
 と私は思います。』
          松下幸之助

ここで松下さんが言いたいのは、自主経営でないと「共存共栄」はできない。
もたれ合いになり、依存する人と依存される人になる。

これは人間が平等で対等と言う考えだ。
ところが日本では親が子供の面倒を見る依存関係で育つ、
欧米のように、小さいころから、自立を促す対等性や責任感をもたせる教育はしない。

親は子供の面倒を見るのが当たり前である。
だからいつまでたっても依存のほうが楽だから責任を取らない。
言い換えたら自主的に自由を求めない、多少不自由でも無責任な立場を取る。
親子が愛情の依存関係で情緒的な関係になる。だから気を察する動きができる。

愛情という情緒的なところでは確かに日本のほうが深いが、
自立という面では欧米には叶わない。
いつまでたっても、失敗しないようにとか責任を取らされないような振る舞いをする。

景気の低迷な現代、たっぷり愛情で育った日本の風土を活かし、チームが一丸となって、
自分の仕事・人生を依存経営から自主経営に、
「愛情×自主経営」のハイブリッドな哲学観を樹立するチャンスな時期だ。

みなさんは松下幸之助さんの「共存共栄」の考え方如何考えますか?

2010年08月26日

ドラッカーの企業定義


『企業の目的としての有効な定義はひとつしかない、
 すなわち、顧客創造である』

   ピーター・ドラッカー
『企業とは何かを決めるのは顧客である。
 なぜなら顧客だけが、財やサービスに対する支払いの意思を持ち、
 経済資源を富に、モノを財貨に変えるからである。
 しかも顧客が価値を認め購入するものは、
 財やサービスそのものではない。
 財やサービスが提供するもの、すなわち効用である。』

先日のブログに書いた石田梅岩は、
『武士の録は主君に仕えることで、
 商人の利益は天下の人々(お客さん)である』
今で言う顧客満足(CS)を身分制度の強い封建社会で対等な人間関係を語っている。

歌舞伎役者も芸の見る目のあるお客さんが掛ける『成駒屋』などの掛け声が、
芸を一流にしていくキッカケとなり、お客さんに育てられるといいます。

芸人は芸を一流に磨くように、
『利益は企業が世の中に貢献した結果の報酬である』と考えたのは松下幸之助さんだ。
だから、具体的には、以下の三つを実行された。
1)商品の品質、性能においてどこよりも優れたものをつくる。
2)お客様にどこよりも優れたサービスを提供する。
3)どこのも負けないコスト力を持ち、
  お客様に喜んでいただける価格で商品を提供する。

1980年代はジャパンイズNo.1といわれたのは、
きめ細かい商品やサービスを改善工夫する技術力や接客力、仕組み力があったからだ。
リーマンショク後の低迷する経済の環境だからこそ、
誰のために仕事をし、働く意義と意味を原点回帰するチャンスとプラス発想したい。

みなさんは如何考えますか?

2010年08月25日

石門心学・『都鄙問答』(とひもんどう)

290年ぐらい前の江戸時代、京都に石田梅岩の商人道の問答形式の本だ。
都とは京都人で、鄙とは田舎人の問答の古典だ。

当時は「士農工商」といって商人の身分が一番低かったが、
流通が盛んに成り、大衆文化が発展するにつれ庶民も学問を学び始めた。

だが、町人の地位は低く、商売も未熟で騙しや、
権力を傘に来た押し付けがましい二枚舌の商人が横行しやすい環境であったことも一面ある。

当時は少し裕福な商家の人は子供に学問を習わせるようになってきたが、
必要か必要でないかが議論もされていた。
全部は紹介できないが、今でも充分通用する基本的なことをいくつかあげる。

1)利益肯定=利益は武士の録と同じだと言い放ち、
2)市場原理=政府が価格を決めてはいけない市場の取引に任すと発展する。
3)競争原理=倹約精神にはけちとか節約でなく、
       「積極的な意思と創造力」のある競争していい物やサービスをつくる。
4)誠心誠意=約束を守り誠実に努力し支払いのごまかしや無理な利益を取らない。

商人は『心』の尊重を第一義に考えることだと教える。
これは万古不変の原理であり、今も商人の基本とされる日本式経営だ。
ここ十数年は欧米式の経営手法がはやり、マニュアルだ、マーケッティングだ、
職能性を重視だ年功序列廃止などされたが基本は変わらないと考える。
さて、元に戻って石田梅岩の言う心について考えるヒントを紹介する。
梅岩の言う心=よりひろく全体的で関係性を含んで感謝の心を重んじる。
ハート=情緒的
マインド=知的な意味
ゼーレ(ドイツ語)=精神性にかたよる
ヘルツ(ドイツ語)=感情的

大阪では食堂を出るとき『ご馳走さん』といってお客が出る。
京都ではお客さんに感謝のお礼に『おおきに、またお越しやす』とお客に一礼する。
奉仕、感謝が商人の倫理観だが、
欧米は情緒的な要素より、『適法性』や『公正』が重点なのは、
日本のように均質な人の集まりでなく、
いろんな人種や国の非均質の人の集団だからだ。

古典に学ぶことは現代を考える手がかりだと再確認する。

皆さんは如何考えられますか?

2010年08月23日

無邪気な自分こそ宇宙の意思だ。

物心つき考えるようになるまでの人間は、
宇宙の意志そのものである。
自然の分身だから自分。

幼児は100%親に依存して、自分の命を預けて生きるしか生きれない。
幼児だから依存だが、大人になったら自分で生活するぐらいの稼ぎも身につく。
すると、依存が信頼に変わる。

現実は100%親を信頼することができれば、
阿弥陀仏に帰依する大乗仏教の他力本願の頓境を実現するのと同じだ。

現実はそうは行かない、
もう幼児でなく、以下に書く3つのモノサシができ、
未完成のでこぼこだらけの価値観で、
親を批判し100%信じきることができなく悩みを作り出すのが一般的だ。

1)本能=損得モノサシ
2)感性=好き嫌いモノサシ
3)理性=正邪・善悪モノサシ

人間が考えるようになりできた三つのモノサシは、
誰ひとり重なることはないので個性と呼ぶ。
この価値観の違う個性とやらが人間関係を難しくする。
子供は単純に損得好き嫌いをいうが、
大人は直接的に言うと損すること知ってるので言わない。

特に大人は理性で正邪・善悪の議論し、
資本主義だ共産主義だと善悪を対立させる。

結論は地球も人間も共存し発展に寄与すればいいだけの話なのに!!
襌では自己超越した自己=この宇宙の意志を『本来の面目』という。

さて、この三つを取り払い、本来の面目=宇宙の意志の自分、
言い換えると、損得、好き嫌い、善悪を超越した自分(無我)で、
みんなのためになる行動のできる人こそが覚者だ。
合理的や打算性の強い人は修行がたくさんいる。

マズローの欲求五段階による階層は、
本能的欲求から感性・理性の求める高次元の欲求に進化する。
1)生理的欲求
2)安全の欲求
3)所属と愛の欲求(社会同調性欲求)
4)承認の欲求(自我欲求)
5)自己実現の欲求

そして6番目は自己実現の自分を否定し、
「自己超越の欲求」へ飛躍する。
マズローの実験によると約3%の人が完全に悟るという。

彼の書き残したことが本当かどうかわからないが、
やってみる価値はありそうだ。

皆さんは如何考えられますか?

2010年08月21日

リーダーの心根の変化について

松下幸之助さんの「心根」は経営の規模によって変わっていったとおっしゃる。
私も創業当時の10人未満の時は、
「誠実」が一番だと、
何でもかんでも隠し事なく話すように心がけた。
それも親しみこめて『丸ちゃん、岩ちゃん』言う具合に言葉で表現してた。
なぜかというと、事業そのものの使命感や、経営理念なんかなかったからだ。

その後人数も増え、共通の土俵や何のために仕事するか、
という使命、方向(ベクトル)や志の必要を感じたので創ることにした。

現在のわが社の使命、経営理念、行動指針は以下のとおりである
1)目的使命は『幸福創造』世の中が進歩し、役立つ利他行をする。
2)経営の理念は『三方良し』売り手よし、買い手よし、世間良しの実現。
この理念達成には私の立場や都合で判断したり、考えていてはダメである。
(実はここがわかるのに随分時間がかかりました)
3)行動指針は『六波羅蜜』(智慧精進、持戒禅定、布施忍辱)

そして三方良し実現のなかでも、
特に働く人の物心両面の幸福実現に重きを置き、
実技の技能取得や、社内外のセミナーに参加し、
営業は商道塾、製造工務は森川塾と専門の指導者により、
技能とともに人間としての人格形成にも踏み込み、
人材育成に力を注ぎ、職場環境の改善を進めた。

経営を行っていくうえでの三方良しは当たり前だが、
松下さんのリーダーの心根のあり方、
下座行(心を低く)を述べられてるところに深い感動を覚えた。

「商売心得帖」に書かれていたのを以下に書く。

小規模なら、1)『ああせい、こうせい』と命令して表現し、
        お客さんにも親しみこめて、『ああですわ、こうですわ』と表現する。
百人千人になったら、1)今度は小規模のように、
           『ああせい、こうせい』で率先垂範の命令口調はダメで、
           『ああしてください、こうしてください』でないと全員に伝わりませんし、
           全員によりよく働いていただけないと思ったそうだ。
一万人二万人になると、『そうしてください、こうしてください』
           『どうぞお頼み申します』と語りかける心根になったそうだ。
五万人十万人になると『手を合わせて拝む』という心根にならないと、
           とても部下を生かせないと考えられた。

松下幸之助さんは、状況によって相手の規模が大きくなれば、
それに伴って自分の姿勢や表現方法も柔軟に変化されるところだ。

今の私の表現は規模を考えてるか疑問だ。
反省させられるのみだ。

リーダーの心根がより謙虚になるのが先か、
規模が大きくなったからできたのか?
どちらでもいいが、感謝することと謙虚は表裏一体の行動で、
宇宙の発展法則にかなってることはまちがいない。

松下幸之助さんが経営の神様といわれる所以である。
まだまだ未熟な自分の反省文になってしまった。

みなさんは対人関係の心根の変化如何なさってますか?

2010年08月20日

企業とはなにか?

松下幸之助さんの実践経営哲学という本がある。
以下に「企業とは何か」を書いた文章があるので紹介する。

『企業であるとは利益を追求するものというのがあるが、
健全に事業活動を行っていくうえでは欠かすことができない大切なものだ。
根本はその事業を通じて共同生活の向上を計るというところにあって、
その根本の使命を遂行していく上で、利益というものは大切になってくるのであり、
そこのところを取り違えてはならない。

そういう意味において、事業経営というものは本質的には私の事ではなく、
公事であり、企業は社会の公器なのである。
もちろん形の上というか法律的にはいわゆる私企業であり、中には個人企業というのもある。
けれども、その仕事なり事業の内容というモノは、
すべて社会につながってるのであり、公のものである。

だから、たとえ個人企業であろうと、その企業のあり方については、
私の立場、私の都合でものごとを考えてはいけない。
常に、そのことが人々の共同生活にどのように影響を及ぼすか、
プラスになるかマイナスになるかという観点から、モノを考え判断しなくてはならない。』

この続きの文章では、会社が社会のためにプラスにならないなら、
解散したほうがいいとまで言い切ってる。

プラスもマイナスも視野に入れた、大変柔軟な思考である。
プラスになれば社会から生存権が許され、
マイナスなら生存権はないと断言する。

言い換えると覚悟だ。
「マイナスは絶対にしない」という宣言でもある。

さて上記の文には三つも意味がある。
1)企業は社会の公器
2)私の立場、私の都合でものごとを考えるな
3)人々の共同生活にプラスの影響を及ぼすことを優先する

経営者も働く人もみんなこの三つに目覚めよと自ら『公』の姿勢を貫くのである。
同感で共感する。

今私たちはISO品質や環境、5S運動を通じ、
全社見える化を推進し、改善運動をし、変化化へ、
この三つを実際の行動に落とし込み実践中だ。

皆さんは企業如何に考えますか?

2010年08月17日

三昧(ざんまい)

襌の言葉である。
外界と自分の関係が一体になると自由で自在になると教える。
だが人間は自我があるからなれない。
しかし、この自我を無我に転悟させる修行が坐禅だ。

ただ座るだけではない。
情報化社会の真っ只中で、
若者は情報に振り回され自分を見失うのも無理がない。

体験や智慧が備わってないからだ。
だが、備わったとしても利己的自我の形成に終始していては真実に触れれない。

坐禅を始めたら四つの心境に変化する。、
1)「多念多心」=頭でいろんな音や臭いといろんなものに反応し、
たくさんの感情が絡んでころころ変わる多くの心が浮かび上がる。

2)「有我一念」=そのうち、鳥の声だけが聞こえてくる。まさに一念を持つ私になる。

3)「無我一念」=その鳥の声に自分が飛び込み一体となり自分が声になる。一念はあるが無我だ。

4)「無我無念」=これが三昧だ。自由で自在な自己になる。

理屈はこうだ。
今ここで、大変なトラブルが起ったとしたら我々はどうすかといえば、
自分の心は外界を見て取って、刺激され動揺するのが普通だ。

ところが、深く修行された人は違う。
受け入れ、自分の立ち居地を即座に変え、順応し適応し、さらさら行動するのだ。

出来るようになりたいが方法は二つだ。
1)漸境(ぜんきょう)=小乗仏教的自力本願で、修行によって徐々に体得して目覚める方法。
2)頓境(とんきょう)=大乗的他力本願で、修行はしないが阿弥陀仏にこの身を捨て、即座に体得する凡人にとって簡単な方法だが、信じきる(自我を2番にして出さないが、なかなかできない)のは容易でない。

しかし、日本の仏教は大乗仏教として発展してきた。
自ずと日本人の文化は『葉隠』のように、
「武士道とは死ぬことと見つけたり」というような、
捨て身な受動性の強い精神風土が形成された。

仏教だけではなく、農耕を主体とする経済は自然にいつも左右されて、
耐えることを学んできたのも重要な条件である。

「平常心」言うは易いが体得、体現できることだ。
私にとって課題は明確であることだけは確かだ。

皆さんは如何考えられますか?

2010年08月15日

適者生存とは

世の中は変化するのだから、
その変化に適合して自ら脱皮することが、
仕事・人生の成長であり適者生存だと察する。

だからといって何もかも変化させることではない。
芭蕉は『不易流行』といって、
変わらないものと時代によって変わるものがあり、
これを巧みに俳句に読み込むことを提唱したように、
不易=本質的で人間と自然の意志が一体となること
流行=現実的で時代により目に見えてちがうこと。

この不易流行を現実的にハイブリッドにすることが寛容である。

現在の市場主義の厳しい掟は『競争と信用』である。

市場の競争とは自分が意識するしないに関わらず、
商品やサービスの向上が図れてる人のみが適者生存する厳しい掟があり、
情報化社会では情報の鮮度や発進スピードの早さも大事だ。

孫子の兵法に『彼を知り己を知らば百戦してあやうからず』
という言葉がある。
孫子は『若ざればよく之を避く』といって、
自分に弱いところがあったら準備して戦いはするなという慎重さなんである。

さらに続けて孫子は、
「彼を知らずして己を知らばひとたび勝ち、ひとたび負けし、
 彼を知らず己を知らざれば戦うごとに必ず敗る」

適者生存とは自己変革能力で自分が脱皮することだ。
古来競争と考え戦ってきたのは、
自分を守ろうとする保守的思考(利己心)と、
自分の身を守ろうとする保護本能(保身)である。

京セラの稲盛さんのように『私心なく動機善』で世のため、人の為に行動する自分つくりが、
結局は適者生存で、成長する自分のためであるようだ。
理屈は解っても、できることが大事だが頂上はまだ遠い。

皆さんは如何考えられますか?

2010年08月12日

盆供養 ・薬師寺東院堂にて

お盆は仏教の行事で『盂蘭盆会』(ウラボンエ)という。
梵語では「逆さ吊り」という意味で、
『ウランバナ』という言葉を漢字に音写したものである。
逆さまに吊り下げられるような苦しみに会ってる肉親を救う法要である。

御釈迦さんの弟子の目連尊者が神通力によって、
亡き母が餓鬼道に落ち、逆さ吊りにされて苦しんでることを知り、
お釈迦さんに相談したら、
『夏の修行が終わった7月15日(旧暦)に、
僧侶を招き、多くの供物をささげて供養すれば母を救うことができるであろう』
とおっしゃられたので,尊者が法要を行ったところ、
その功徳で母が極楽往生が遂げられたという話に由来し、
父母や先祖に報恩・感謝をささげ供養を営む日となった。

もう25年ぐらいになると思うが、薬師寺の東院堂にて盆供養をするのが恒例だ。
今年も39名の人と般若心経を30巻、先祖と両親に感謝の気持ちを込めて唱和してきた。
約一時間、汗びっしょりになるが清清しい気持ちを味わった。

その後、安田英胤長老から、現代日本は感謝と尊敬が失われ、
自分にも自信を喪失してることを数値を並べ説明された。
1)先生を尊敬する。
 中国80.3%、アメリカ82.2%、韓国82.9%、日本21%(世界の平均は72.3%)
2)親を尊敬する。
 日本25.2%(他国の平均は80%)
3)自分をダメな人間だと思ってる。
 中国13%、アメリカ22%、日本66%

大正生まれの両親は『もったいない』『始末しろ』ということを、
食事の時など米粒を残すと『お百姓さんの悪い」といって茶碗の米粒取らされた。
われわれ人間は自然の恵みで生かされてることの自覚を呼び覚ます意味ではいい言葉だ。

江戸時代には幕府の事を『公儀』といった。
西川如見の『商人嚢』によると、
『公儀をおそれ慎むことは、下にいる人にとって第一に肝要である。
 公の字はおうやけと読んで、天理であって、私がないことである。
 天使は万民の上におられて、天道のご名代であり,天道をおそれ慎み、
 万民を教え誡め給う役割をもっておられる。・・・・・・中略・・・・・・
 私事からでたものでなくい。だから宮中の事を公儀というし、・・・・・・』

公=私がなく天理にかなってるサムシンググレードということだ。

幼いころ悪いことしたら母から『お天道さん』が見てるといわれたり、
お土産をもらったら、必ず仏さんにお供えしてから、『仏さんからもらい』
と言われ、生活の中に人間を超えた存在(サムシンググレート)があるように育てられた。

警察や公務員や教師それに年長者(親も含め)は、
われわれ凡人を救ってくれ、
「天道」や「天地の理」を理解した人として無意識に尊敬していたが、
あらゆるものが戦後労働者になり、尊敬の対象でなくなりつつあるのが寂しい。

医者と弁護士は少しは尊敬される人物だろうが、
最近のニュースを見ているとそれも疑わしくなる。

『報恩感謝』が幸福への扉であることを考えさせられる一日であった。

皆さんは如何考えられますか?

2010年08月10日

無用の用・荘子

有用と無用とあれば有用がいいに決まってる。
ところが、「無用の用」こそ大事だと皮肉っぽく語るのは、
中国の儒家の荘子である。

『いや、無用なりゃこそ、用の足しになるんだよ。
 地面にしたってそうだ。人間が立つためには、
 足をおく余地さえあればいいわけだが、
 さて足をそば立てて、その周りをみんな奈落のそこまで、
 掘り下げたと見たまえ、それでも足下の地面が何かの役に立つだろうか』

『それは立たさないさ』

『してみれば、無用が実は用の足しになることもわかろうというもんじゃないか』

剣豪宮本武蔵も同じようなことを語る。
剣には流儀や流派がある。すなわち剣の構えの形である。

自在に剣をさばくには『無構の構』を極めることだという。
誰でも最初は効率の良い形(フォーム)を創るが,
対戦する相手のフォームは解らないので、
いったん創ったフォームを捨てて、真剣に戦うのだそうだ。
それには『無構の構』でなければ自在な動き(臨機応変)ができないからである。

荘子も『私は、役に立たずとたたぬの中程にいようか。
    もっともそれもまだ本当に『道』に遊ぶというには足らんから、
    ほんとに『道』に遊ぶというのはな、誉められもせず、謗られもせず、
    その時々に順応していささかのさかしらも弄さぬこと。
    浮くも沈むもままにして人と争わず、『道』のままに身をまかせ、
    物を制しても物に制せられぬことだ。』
自在に自分をコントロールすることだと言うのである。

有用、無用は見てる人の分別だ。
この分別を離れることだが、なかなか出来ないのも事実だ。
『無私』とは自分がないことではない、
有用、無用を使いこなす自分があることだ。

志を高く持つことが「自在な道」を学べる第一歩であることはまちがいない。

皆さんは如何考えられますか?
    

2010年08月09日

大人の精神の柱創れてますか?

経済活動が悪いのではない、
便利すぎる社会が「人間の耐える力」を遠ざけたのだ。

その結果、心が弱くなり耐えることが美徳ではなくなってしまった。
それとともに、お金さえあれば耐えなくても便利が手に入る社会になった。

こんな環境の中では、二つのことが起こる。
1)拝金主義だ。とにかくお金が目的になる考えだ、
2)利己主義だ。自分を磨き、志を立て(立命)努力する価値がもてない。
        自分さえよければいいが、だからといって他人を押しのけるわけでもない、
        協調性のないマイペースというわがままなんだ。
これが現代の社会が生み出した心のあり方だ。
真剣に考える人は、理想がすぐ実現しないと我慢できず、
手に入らない苛立ちから、統合失調やうつ病になる。

もう一方から社会を見ると個人主義の台頭だ。
これが、昔からの共同体としての仲間意識を育て、
相互扶助ができていたのが、
付き合いが面倒くさいと自己主張ばかりで気遣いができない社会になった。
気が利く人はうつ病になるか、
自分でリセットして人間関係を遮断することで病気にならないように防衛する。

結果、
1)便利すぎて、努力して手に入れる喜びがわからない、
2)10年我慢したものを愛しむ喜びを味合わえない。
3)すべてが手っ取り早いことがいいと言う時間感覚になってることに気付けない。

なぜこんなこと書きたくなったかというと、
恩師小田切瑞穂先生の追悼文集が出てきた。
そこに、『精神公害』という言葉で科学至上主義や物質文明ばかり追っかける世相を憂い、
『科学解脱』なる本を50年も前から講義していたことが書かれてた。
私は23歳からご縁を結んでいただいて、平成五年お亡くなりになるまで教わった。(当時45歳)

物質を超えた哲学を持てと、
自ら『潜態論』という総合科学の立場と哲学の立場から書かれた事を、
特に「臨済録」「無門関」「碧眼録」を通じてみんなにわかりやすく講義されていた。

だからといって経済を否定したり、物質を否定しては生きれないのも教えられた。

荘子は『大人無己』(大人己無し)
意味=大人の人は利他心からの発想ができ、
   利己心むきだしの自己主張の自己がなく、
   縁でできてる人間関係や自分(己無し)に立脚し行動できる。

京セラの稲盛さんは『足るを知る』ことだと教えられる。

先生がなくなって17年経つ、理屈でなく実践できることを指導されてたのに、
まだまだ「大人の精神の柱」できてないのが事実だ。

皆さんは現代を如何考えられますか?

2010年08月07日

善行について

本音と建前がなくなった時代がテレビ時代である。
裏と表もなくなった時代といってもいい。

言い換えるとすべてが表の時代であり、ビジュアルな固定画像で考える余地がない自分ができる。
このことが『うつ病』と関係し、
自殺者3万人を超える原因のひとつと察するのは私だけだろうか?

裏とは『悩み』『苦しみ』『もがいてる自分』であり、同時に考える自分である。
この裏(本音)の自分には二つの自分がある。

1)動物的な本能的で感情的な未熟な現実的で利己的自分。
2)まだ開花していないが、咲こうと必死に生きる、
  未来への可能性に満ちた不安定な創造的自分。

私の学生時代はキエルケゴールやサルトル、マルクスの生半可な知識を振り回し、
友人とわけがわからないぐらい徹夜して激論を交わした。
お互い本音の自分をぶつけ合った。

現代は若者に思考することを停止させるぐらいに過剰に情報が氾濫してるといえる。
論語に人物や物事を洞察するのに、三つの段階があると教える。
1)視(目に見える形や状況)
2)観(目に見えないが、形や状況から主観的ではあるが直観すること=イマジネーション(想像)
3)察(自分が主観的にイメージしたものを相手や周りも溶け込むようにすること=クリエーション(創造)

「想像」と「創造」のちがいはお解かりでしょう!
想像=頭で考える主観性だ。(判断といってもいい見てる自分だ)
創造=実際に行動で環境成り人物なり仕組みなりをつくっていく客観性を引き出す行為だが、
   人間だから誤謬があるので修正しながら前進するのが原則だ。
   (決断して自己責任を取る覚悟の自分だ)

さて、考えるには『視、観、察』と進化させるが、行動の方向性が必要だ。
行動の方向を、
儒教では『積善の家に余計あり』、
また仏教では『善因善果』という因果の法則がある。

そこで重要なのは善行とは何かである。

白隠禅師の「坐禅和讃」には、
『布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、その品多き諸善行』
とお坊さんの修行内容を書いているが、

二宮尊徳さんは解りやすい。
『今やってることに打ち込みなさい、
 真剣に打ち込んでいると、
 仏性が輝いてきて
 次第に善行が積まれるようになる』

要するに、好きや嫌いや言わないで、
今、与えられたことを真剣にやる結果善行が出来る。
内の自分の心の姿勢の問題だと言い切る。
善行を分別して、外の世界に探すのではないのである。

自分で善行と思ってるだけで、思い込みんでる状態は、『動機善私心あり』になる。
しかし、今与えられたことに真剣に徹しきったら、
当然自分の価値観の分別を超越することになり、
結果、稲盛さんの言う『動機善私心なかりし』になる。

理屈でいくら解説しても真実ではない、
先ず、その方向で行動する気があること。
そして、できるように努力することだ。
まだまだ未熟な自分が恥ずかしいのが本音だ。

みなさんは如何考えられますか?

2010年08月03日

客家に学ぶ

客家とは今から300年前ごろ黄河流域から福州のアモイに南下してきた漢民族である。
彼らは丸いドームのようなものまたは四角いのもあるが大きくて220人ぐらいの仲間が住む。
なんとその壁の分厚さは1メートルもある土壁で4階建てだ。


もちろん、土着の民族からの襲撃を恐れ、身を守るためのものであることは言うまでもない。
今、世界遺産に登録され世界中に脚光を浴び観光客が絶えない。

彼らは、大変民主的な議事運営がなされ、協力体制ができてるのである。
客家出身の偉人に孫文、鄧小平がいる。

その格言には、
1)兄弟姉妹が仲良くできない人には世の中で友人ができない。
2)早く起きなければ一日台無し、早く学ばなければ人生台無し。
3)事を興す前に人間であれ。
4)水は低きに流れるが、人間は志高きに住め。
5)先祖の土地は売ってもいいが、先祖の教えは守れ。

私の父はよく言ってたのは、
1)鶏頭となれども竜尾となるなかれ!
(他人のせいにするな、自分の責任で生きろといってました)
2)恩は石に刻め、情けは水に流せ
(他人に世話になったら、一生掛けて恩返し、情けを掛けたら忘れろといってました)

皆さんの家ではどんな教えが言い伝えられていますか?