社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

2010年08月10日

無用の用・荘子

有用と無用とあれば有用がいいに決まってる。
ところが、「無用の用」こそ大事だと皮肉っぽく語るのは、
中国の儒家の荘子である。

『いや、無用なりゃこそ、用の足しになるんだよ。
 地面にしたってそうだ。人間が立つためには、
 足をおく余地さえあればいいわけだが、
 さて足をそば立てて、その周りをみんな奈落のそこまで、
 掘り下げたと見たまえ、それでも足下の地面が何かの役に立つだろうか』

『それは立たさないさ』

『してみれば、無用が実は用の足しになることもわかろうというもんじゃないか』

剣豪宮本武蔵も同じようなことを語る。
剣には流儀や流派がある。すなわち剣の構えの形である。

自在に剣をさばくには『無構の構』を極めることだという。
誰でも最初は効率の良い形(フォーム)を創るが,
対戦する相手のフォームは解らないので、
いったん創ったフォームを捨てて、真剣に戦うのだそうだ。
それには『無構の構』でなければ自在な動き(臨機応変)ができないからである。

荘子も『私は、役に立たずとたたぬの中程にいようか。
    もっともそれもまだ本当に『道』に遊ぶというには足らんから、
    ほんとに『道』に遊ぶというのはな、誉められもせず、謗られもせず、
    その時々に順応していささかのさかしらも弄さぬこと。
    浮くも沈むもままにして人と争わず、『道』のままに身をまかせ、
    物を制しても物に制せられぬことだ。』
自在に自分をコントロールすることだと言うのである。

有用、無用は見てる人の分別だ。
この分別を離れることだが、なかなか出来ないのも事実だ。
『無私』とは自分がないことではない、
有用、無用を使いこなす自分があることだ。

志を高く持つことが「自在な道」を学べる第一歩であることはまちがいない。

皆さんは如何考えられますか?