社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

2010年08月17日

三昧(ざんまい)

襌の言葉である。
外界と自分の関係が一体になると自由で自在になると教える。
だが人間は自我があるからなれない。
しかし、この自我を無我に転悟させる修行が坐禅だ。

ただ座るだけではない。
情報化社会の真っ只中で、
若者は情報に振り回され自分を見失うのも無理がない。

体験や智慧が備わってないからだ。
だが、備わったとしても利己的自我の形成に終始していては真実に触れれない。

坐禅を始めたら四つの心境に変化する。、
1)「多念多心」=頭でいろんな音や臭いといろんなものに反応し、
たくさんの感情が絡んでころころ変わる多くの心が浮かび上がる。

2)「有我一念」=そのうち、鳥の声だけが聞こえてくる。まさに一念を持つ私になる。

3)「無我一念」=その鳥の声に自分が飛び込み一体となり自分が声になる。一念はあるが無我だ。

4)「無我無念」=これが三昧だ。自由で自在な自己になる。

理屈はこうだ。
今ここで、大変なトラブルが起ったとしたら我々はどうすかといえば、
自分の心は外界を見て取って、刺激され動揺するのが普通だ。

ところが、深く修行された人は違う。
受け入れ、自分の立ち居地を即座に変え、順応し適応し、さらさら行動するのだ。

出来るようになりたいが方法は二つだ。
1)漸境(ぜんきょう)=小乗仏教的自力本願で、修行によって徐々に体得して目覚める方法。
2)頓境(とんきょう)=大乗的他力本願で、修行はしないが阿弥陀仏にこの身を捨て、即座に体得する凡人にとって簡単な方法だが、信じきる(自我を2番にして出さないが、なかなかできない)のは容易でない。

しかし、日本の仏教は大乗仏教として発展してきた。
自ずと日本人の文化は『葉隠』のように、
「武士道とは死ぬことと見つけたり」というような、
捨て身な受動性の強い精神風土が形成された。

仏教だけではなく、農耕を主体とする経済は自然にいつも左右されて、
耐えることを学んできたのも重要な条件である。

「平常心」言うは易いが体得、体現できることだ。
私にとって課題は明確であることだけは確かだ。

皆さんは如何考えられますか?