社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

2010年09月30日

無事について

無事=1)変わったことがないこと、平穏なこと
      2)無難なこと、失敗がないこと
国語辞典には以上の説明でありますが、
禅の世界では全く逆といっていいほど意味が違うのである。

「無事是れ貴人」これは臨済録にある有名な語である。

意味=無事とは平穏無事のことではなく、
   また何もせずブラブラすることでもありません。
   無事とは仏や悟り、道の完成を求めない心を言いう。
   貴人とは「貴族」の貴ぶべき人すなわち仏であり、
   悟りであり安心であり、道の完成である。

私たちの心の奥底には、生まれながらにして仏と寸分違わぬ純粋な人間性、
仏になる資質という仏性があり、襌の修行はそれを発見するものである。

ところが、えてしてそれを外に求めうろうろするのが現実であるというのだ。

至道無難禅師は「迷いてこの身に使われ、悟りてはこの身を使う」と喝破する。
無事でありたければ勇猛果敢でないといけないということだ。

古いことわざにも「楽を追えば楽が逃げる、苦を追えば苦が逃げる」とある。

最後にもうひとつ紹介する。
中国の詩人卒塔婆が仏印禅師に「いかなるか是仏の人」と問うと、
仏印禅師「一個有血性的男児」と答えた。
意味=血の気が多くなって熱くなってこそ仏となる。
こう答えられた。
この仏印禅師の言葉を心酔されたのは、
言うまでもない歴代の首相の指南役の安岡正篤先生だったそうだ。

みなさんは無事を保守的にとらえますか、勇猛果敢に行動しますか?

2010年09月27日

「豊かさとは何か」

このタイトルの本は1989年に出版され、
「助け合い」こそが豊かな社会だと協調され、
暉峻淑子(てるおか・いつこ)さん(埼玉大名誉教授)の書かれたものだ。

人間は関係の中でしか存在し得ない。(依存性に見え相補性)
もし関係を絶つと「人」として動物的には生きる事はできる。
個人主義を旗印に、
他人との関係は不介入が美徳のようになっているのが日本の現状だと嘆かれる。

ドイツでは小学校の先生が「神さまはわざと人間を不完全に創りました。
そうでないと関係が出来ないから」と、助け合いのこころを教える。

1980年代はジャパンイズナンバーワンといわれ、経済大国を謳歌しモノの豊かな時代だった。
戦争によって地域の助け合う共同体は破壊されたが、
日本の復興を支えた50年代、60年代は企業が家族のように助け合う共同体として機能した。
年功序列賃金に代表され、モノつくりに専念して豊かな日本を作った。

さらに経済がグローバル化する現代こそ、自分から積極的に行動し、
損得のない助け合いの世界に飛び込むことが重要だと協調される。

「社会人になるとはどういうことか」発信していきたいといわれ、
その方向は、お金を稼ぐだけが社会人でなく、異なる意見を持つ人とつながり、
関係を築くことが社会人の到達点であると、主張される。

全く同感である。

「豊かさ」とは、自分が生きていくことに、
周り人間や自然の動植物の命にお世話になってしか生きれないことを自覚することだ。

テレビのコマーシャルに、
「こころは見えないけれど、心使いは見える。」
「思いは見えないけれど、思いやりは見える。」

まず、こころ・思いがないと言動が生まれない。

「助け合う」ことこそ当たり前であり、
個人主義は自分勝手な利己主義でなく、
助け合うことと表裏一体(相補性)の自主的な自己責任に基づいた独立自尊の意味だ。

みなさんは人間関係を自分から積極的に求めて行動してますか?

2010年09月25日

たまご構造論について

小林正観さんが面白いことをおっしゃる。
幸福と不幸は一体のものだとしか考えられないといわれる。

「美味しい」とは「空腹」な状態がないと幸福は感じない。
また、「のどが渇いた」状態があれば「潤せてうれしい」幸福感に浸る。

だから幸福の前には不幸な状態があるのが普通である。
それは不幸と幸福が「1+1=2」ではなく、
たまご構造になっていて、それも生卵でないと一緒にならないので、
「1/2+1/2=1」である。

たまごの白身=空腹(不幸)で抱かれてる黄身は「美味しい」(幸福)、
そして一度かき混ぜたら境界線がなくなり見事に溶け合う。一体のものである。

ところが、われわれは分別することが習慣化し、
それも自分の都合から物事を判断し、幸不幸を決め付けて行動するクセがある。
だから、幸福と解れば行動するという考えができる。
この考えは無意識だから厄介で、
本人は当たり前と考えて行動するが不幸を呼ぶ結果となる。

ここが大事で「たまご構造」を理解すれば、
自分にとって不幸は幸福の兆しと理解でき、
また、幸福は不幸の兆しでもあるから有頂天にならないよう気をつける。

もし私たちが幸福な人生や仕事の成果を願うなら、
1)幸福なことに感謝するのがいいのか?
2)感謝するから幸福になるのか?

どちらが自分にとって幸福な人生が送れるか考えると、
2番を選択され行動されてる人が、
幸福を手にすることはまちがいないのである。

「感謝にまさる幸福無し」「笑う角に福来り」

わかってるのに意識しないと1番を選択し、
不幸を呼んでしまう私がでてくる。

みなさんはどちらを優先して行動してますか?

2010年09月23日

友人を考える

私の友人に植田順三君という早稲田のラガーだった男がいる。
彼の人生訓は先輩に教えられた「どんなボールもひろえ」だそうだ。

「どこかで倒れても、すぐ俺に電話しろ」すぐ駆けつけると言い放つ実に頼もしい奴だ。
日ごろは、彼も忙しいので月に一度か二度会ったり電話したりだ。

ところが娘の病気の時や私が救急車に乗ってるときに、
偶然電話がある不思議な勘の持ち主でもある。

行動力も抜群で、すぐに見舞いに来て、好物を差し入れてくれるのである。
もちろん、差し入れもありがたいが、
事情を把握し相談に乗ってくれる安心感が何よりだ。

さて、臨床心理学者の故河合隼雄さんは「大人の友情」のなかで、
「夜中の十二時に、自動車のトランクに死体を入れてもってきて、
 どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人」これを友人だと言う。

この友人の関係は短時間でできないことと、
損得、好き嫌い、善悪を超えたものであると察する。

友人というものは十年二十年と変わらぬ付き合いの中から熟成され、
お互いを知りつくした信頼関係の証明であり、
自信を持った大人である宣言の表現だ。

また、一瞬で人生の機微を理解でき、
困難を乗り越えた体験された人には時間はいらないこともある。

私も友人が多い、その多くは付き合いの年数が長い。
一番古いのは小学校5年生からとなると50年近くになる岡田五郎君だ。
彼には死体とまで行かないが、
中学時代怪我した時などは風呂屋に行っては身体を洗ってもらった。

寿司屋の芦塚末松君はは中学三年生のときからの付き合いだ。
彼は二十歳から寿司屋を開店した出世頭だ。
何かの時には桶の握り寿司を一杯もって飛んできてくれる。

さて、友達はあるものでなくつくるものだ。
創ると言っても、基本は自分にある。
自分が成長しないと友情は続かない。
人生は日々新たであり、挑戦だ。

情報化社会の現代を見てると、
メル友、ツイッターのような関係の希薄な友人が求められる。
一生の友と出会うことを求めてるのでなく、
いつでも別れることが前提のような友人関係に映る。

私の世代は友人と知人を分ける。
友人は自分を犠牲に出来る価値があり、
友であるとともに師でもある関係だ。

現代は現代の手段でやればいいが、
腹と腹(こころとこころ)をぶつけ合って熟成する友情を育むのもまた楽しだ。

みなさんは如何考えられますか?

2010年09月22日

煙草の話

煙草は十九歳になった時、興味本位ですぐやめるつもりで、
メンソールの効いた10本入りの「泉」という煙草を吸ったのが始まりだった。

最初は煙を吸い込むと頭がくらくらするので、ふかすだけだった。
健康に悪いということや、未成年であり、
罪悪感も手伝い、2~3本吸うと箱ごとほかした。

青年になってからもタバコは止めたり吸ったりを繰り返したのは、
自分の意志と戦うためであった。
一年間自分の目標を決め「願掛け」やめる。
また吸うという調子だ。

煙草のエピソードで面白いのは「白隠和尚詳伝」にある。
二十九歳のとき飯山の正受庵におられたころ、
そのころはあちこちの寺で参禅修行されていたそうだが、
煙草をたしなまれたのだが、なにせ規範厳格な道場に入るときは、
門前の田んぼにキセルと煙草を埋め絶ったそうだと書かれてる。

この後日談があるのがまた面白い。
白隠和尚の後は東嶺和尚へと継がれる。
師匠六十九歳で東嶺和尚は三十三歳のとき、
門人の指導に疲れると「襌心を慰める」ということでタバコを吸い始められた。
あるとき、東嶺和尚が入っていったら、
真面目な白隠さんは隠された、それを見て東嶺和尚はキセルに煙草をつけて渡された。
「すっと」取られて一服すった。

なんと微笑ましい子弟の関係だと思うとともに、
白隠禅師は意志が弱いというのは簡単だが、
あの大悟をされた江戸時代の傑物禅師の人間らしいさがなんともいえない。

煙草はここ6年は吸ってない。
白隠禅師のように六十九歳になって、
また吸い出すかもしれないが今のところは大丈夫だ。

みなさんは如何なされていますか?

2010年09月21日

ダライ・ラマの言葉

ダライ・ラマ法王に「物質の豊かになった日本をどう思いますか?」という質問をされた。
たぶん「モノが豊かになって心がなくなった」となげかれるに違いないと答弁を待った。

「日々の生活の糧を得るのに精一杯の国の人たちは、心の問題に気付く余裕すらない。
 心の虚しさに気付くこと自体、大きな恵みであり、日本はとても幸せな国だ。」

       ダライ・ラマ法王

さて、自然を生かし、科学技術の進歩により生活に多くのものを生み出し豊かになった。
技術系の人が社会ではもてはやされ「ものづくりの日本」1980年代にあった。

今も先端技術では日本が活躍してるそうだ。
飛躍する韓国サムスンの部品は日本が70%供給してるらしいと聞く。

だが一方で「こころ」をうまく解決する技術が開発されていない。
これには二つの方法がある。
1)自分と他人が直接「こころ」で向き合うこと。(本気で)
2)利他行に徹すること。

ダライ・ラマ法王は、
「人間は社会的動物です。私たちは互いに依存しあっています。
 本物の友情と愛情を築く上で重要なのは信頼です。
 この信頼が幸せな家庭の基盤となり、さらに幸福な社会の基盤となります。
 つまり、私たちの生活の土台には他者への愛情があり、
 この人間的な愛情が幸福な人生の鍵となっていくのです。」

無償の愛が親の愛です。
もし、無償の愛(利他行)で社会が充満したら平和がやってくることはまちがいない。
人間は遺伝子的に見て、基本は利己心である。
だから、利他心で行動するには努力がいるのである。

生まれたままの自分に知識という衣装をまとうのは、
利己心に服を着せているだけの嘘の自分をつくるだけだ。
自分のたち位置を180度転換しなければ、家族への愛のように利他行は出来ない。

こころは利己心と利他心の戦いなんですね。
サルと人間の違いは、サルは食べ物を隠す、人間は食べ物を他人に与える。

そして、ダライ・ラマ法王はさらに続けられる。
「この世における平和は人々の心から発しなければならず、
 私達はまず、自分の内側を平和に保つ必要があります。
 内的な平和は、愛、慈悲、他人への奉仕を通じて得ることができます。」

仏教では「衆生本来仏なり」とあり、誰でもなれるという。
方法を問うと簡単だという。
仏教で解いてることを話すことでなく、仏のように行動することだと解く。

科学だ唯物論だと証明主義がはびこって、感じる心が鈍ってる自分がいる。

みなさんは如何考えられますか?

2010年09月18日

芸を極める

美空ひばりさんは待ち合わせの時間の5~10分前には必ず来られる。
さらに、40曲レコ-ドに吹き込むなら一週間前に全曲歌詞を暗記し直して、
本番では間違わないそうだ。

ここからが深い、人生は楽と苦の織り成す織物だが、
ほとんどの真面目な人は楽を選ばず、
御釈迦さんの言うように「一切皆苦」と考え「苦」を選び、
努力する人生を生きられる。

もちろん楽を選ぶ人もいるが、
利己心で自分の都合で損得、好き嫌いで選んだことは事実だ。
その「楽」を選ぶ人は怠け者で自分で考えて事態を切り抜ける行動はせず、
愚痴ばかり言って、他人を動かそうと「欲張る」。

一方「苦」を選んだ人は自分がここまでやってるにもかかわらず、
他人がなんでやらないと「怒り」出す。自分が正しいと押し付ける。

美空ひばりは「苦」を開放する鍵は「愛」(利他行)であり、
その入り口は「笑み」だという。

芸人道の真髄は「お客さん」に喜んでもらうことが目的だからで、
しかめっ面で歌うのは孤独になるだけで自分が悪いと考えていた。

さて世阿弥も同じようなことを言ってる。
芸=軽くなければからない

初心者は肩に力が入る、
中習者は腹に力が入る、
上級者は腰に力が入る
最上級者は頭の先に重心をおいて演じる、
(身も心も自由に動く操り人形のようになる。)

松下幸之助さんも経営は芸術だといっておられる。
経営も芸を極めるも共通の条件は「自分を信じ、あきらめない心」だそうだ。

仕事も人生もまた同じ、私は今、何合目を登ってるのか解らないがベクトルは合ってる。
頂上のない山登り「愛」と「笑み」自分から行動してこそ主体性だ。
日本人は一般的に無表情だが、笑みを心がける。

皆さんは如何考えられますか?

2010年09月16日

「学んではならないもの」 アルボムッレ・スマナサーラ

アルボムッレさんはスリランカの仏教会の長老である。
「学んではならないもの」
1)生命の不幸をもたらす技術
2)自分の心に怒り、憎しみ、嫉妬などが増えるもの
3)心の安定、やすらぎを壊すもの
4)やりきれないもの

以上四つですが、「やりきれない」とは宇宙の果てや起源のことを考えることで、
現実には役に立ちませんので学んではならないのである。
さてもうひとつ学ぶ方向についても語ってて、
「エゴで学ぶと危険」と断言してる。

人間はエゴを肥やすために学んではならない。
たとえば、儲けるために、高い地位を獲得するためにと現実的な欲望と、
内面的に、怒り、憎しみ、嫉妬、見栄などの衝動で学んだら、
他人を見下したり、自分のエゴを満たすために知識を使うことになる。

科学も同じだ。
人類がエゴのために使う科学技術なら地球を破壊するだろう。

昔、恩師から聞いた話を思い出した。
地獄と極楽の話しだ。
「1メートル前に向かい合ってたくさんの人がいる、1メートルしたに金銀食物が一杯ある。
そしてみんな1メートルの箸を持ってる」こんな状況である。

1)地獄=利己心で、我先にと1メートルの箸で1メ-トルしたの食物を取り自分の口に運んだ。
     しかし、箸が長すぎて、口からぼろぼろこぼれてうまく食べれなく、
     みんなやせ細ってるのである。
2)極楽=利他の心で、向かい合ってる人に何がほしいと1メートルしたから、
     好きなものを取ってあげ、またお返しに相手が好きなもの食べさせてくれるので、
     丸々太っているのである。
利他行優先することが人間同志が生きる世の中では極楽を実現するのである。

みなさんは如何に考えられますか?

2010年09月12日

タゴールの詩

「私はただ一人 神様のもとにやってきました
 しかし そこにはもう一人の私がいました
 その暗闇にいる私は 一体だれなのでしょうか

 彼から逃げる事はできません
 彼は大道を練り歩きながら
 地面から砂塵をまきあげ
 私が慎ましやかにささやいたことを
 大声で復唱します

 彼は私の中の卑小なる我
 つまりエゴなのです

 主よ 彼は恥を知りません
 しかし 私自身は恥じ入ります
 このような卑小なる私を伴って
 あなたの扉の前に来ることを」

    タゴール

もし頭をたたかれたら怒るのが普通である。
人間の本能的判断だから必要だ。
本能的自分をエゴというが、なければ生きていけません。
しかし過剰になるとエゴむき出しになり、集団生活では生きていけません。
1)本能=損得モノサシ
2)感情=好き嫌いモノサシ
3)知性=面子と名誉モノサシ
4)理性=善悪モノサシ(良心)

われわれ凡人は1、2、3、のモノサシをもっていることは確かだ。
これでは対立するのは無理もない、
また、知性のモノサシを善悪モノサシと勘違いしてる。
知性はエゴ(利己心)で、理性がエバ(利他心)だ。

しかし恥を知らないエゴを取り去った自分(理性のエバ)は、
4の善悪のモノサシで生きる。
だれもが共通する善の価値=宇宙の意志だ。
これを獲得するのには、以下の二つの方法がある。
1)知性で抑えることもできるが、我慢するのでたまると爆発する。
2)知性を理性まで高め深めると良心に行き着きエバになる。

さて、知性からは利己心(エゴ)で考えることになり、
1)自分を二重構造(内と外を使い分ける)にするか?
2)うそやごまかしで、あいまいを装って生きるか?
3)後は、自分をむき出しにして対立ばかりで生きるしか方法はない。

理性からは利他心で考えると、
当然、善行=宇宙の意志での行動だ。
それは飛行機が着陸する時にエンジンを逆噴射させごとく、
相手の立場で考え行動することだ。(相手に振り回されてることではない)
自分のエゴを捨て自分を宇宙の意志に合わせ行動することだ。

あなたはできてるかと問われれば、
「言うは易し行うは難し」とことわざにあるように、
「このような卑小なる私(エゴ)を伴って」としかいいようがないが居直るつもりもない。


これは庭の雑草(エゴ)と同じで、手入れしないとすぐでてくる。
雑草(エゴ)除去は善行(利他行)することで小さくするほかはない。

ことわざに「積善の家に余慶あり」という。
まだまだ余慶ができてないのも現実だ。

皆さんは如何考えられますか?

2010年09月09日

正しい判断はなぜ必要か・失敗から学ぶ!

私が判断を間違ったことに気付く、
気付かずは別に騙されたことのほうが記憶に多く残ってる。

「石橋をたたいても渡らない性格だ」とよく言われるが、
「三方良し」の経営を実現し幸福創造するには「正しい判断」が不可欠だ。

何億の時も数万も同じだ。
「何が正しいか」という判断基準がないと、
会社は倒産することもあると考え慎重にも慎重でなければならない。

そう考えてる私が判断して失敗した忘れられない記憶が二つある。
ひとつは建築資材の在庫を担保にお金を貸したとたん逃げられてしまった。
もうひとつはある土地の利権を取り付ける仲介者に騙され行へ不明になってしまった。

この二つに共通するのは「利己心」だ。
建築が独自の商品がないといい訳ばかりしていたので、飛びついてしまった。
またもうひとつも同じだ。
販売が売るものがないと売れないと言い訳したときだった。

どちらも、未熟な私はいい訳させたくないので、
現実を突きつけようという利己心が働き、交渉相手を信じてしまい、
正しく判断ができない状態になっていた。(後から考えると)

もちろん印鑑証明や書式はそろってるのだ、
言い換えると嘘ほど形式が整ってるものはないとも言える。

リーダーの判断は自分だけのミスではすまない、
事業そのものを左右する事もある。

京セラの稲盛名誉会長は「動機善なり、私心なかりしや」と、
第二電電創設時に、利己心を払拭し判断、決断された。

私の場合は「動機善なり、私心あり」だから失敗し騙されたのである。
1)従業員の物心両面の生活安定を実現し、
2)お客さんへの商道を貫き約束を守り信用を得、弊社に買っていただく、
3)世の中を少しでもよくし、社会に役立つ、
この「三方良し」の実現には「正しい判断」が、
いつでも、どんな時でも、できるように自らを虚心にする努力がいる。

そうは言っても、どうすればできると考えると利己心を小さくし、
利他心優先の行動をする以外にない。

70%利他心なら利己心は30%、80%利他心なら20%利己心だ。
できたら、100%利他心で行動することが正しい判断であり決断だ。

それも、一回できたらいつでもできるものでなく、
放っておくと遊びたい、怠けたい、
自分の価値(名誉、面子)にこだわるという雑草(利己心)が生える、
利他心優先するには自分の心をいつも耕(カルチャー)し、
雑草抜きをする以外に方法はない。

人生・仕事は頂上のない山登り、
日々の誰にも負けない努力がいる事を失敗から学んだ次第だ。

みなさんは如何考えられますか?

2010年09月06日

何が正しいか!

これは京セラの稲盛さんがいつもおっしゃる言葉である。
事業においてもっともプリミティブな事は、
1)欲張らない
2)騙さない
3)嘘をつかない
4)正直(素直)

集団で生活していくには、ごく当たり前の事である。
このモノサシで自分を図ってみると自分の行動が正しいかどうか解るとおっしゃる。

また、人間同士の信用を得る正しさは以下の三つを行動する事だというのは森信三先生だ。
1)「約束を守ること」であり、
2)「礼」(挨拶を自分からする)を大切にし、
3)場を清める(掃除する)
稲盛さんにしても森先生にしても実に当たり前だ。
こんなことは耳にたこができるくらい母から聞いた。

さてここで、中国の逸話を紹介する。
白楽天は白居易という唐時代の詩人ですが、
実は彼は地方を治める政治家でもあった。

善い政治をするにはどうしたらいいか考えていて、
道林禅師に問いました。
「仏教の極意は如何に」

道林禅師は簡単や。
「諸悪莫作 修善奉行」(法句経)
意味=悪い事しないで、善い事行動する。
と答えた。

白楽天は「そんな事三歳の子供でも知ってる」というと、
道林禅師は「たとえ三歳の子供が知っていても、八十歳の老人も実践することは難しい」と答えた。
白楽天は礼拝してさった。

仕事においても人生においても、誰が見ても聞いても納得する事を「当たり前」といい、
この当たり前に照らすことが「正しさ」で、実現化するには行動して「できること」だ。
知ってるだけでは、あるいは言うだけでは実現しない。

京セラの稲盛さんはその実現には「誰にも負けない努力がいる」と励まされる。
ほんとに謙虚で実践の人だ。
私ができてるかは、
みなさんがわたしの行動を見て判断されてることが正しい。
決して自分で自分ができてると主観的に言って自己肯定しても実現しない。
あくまでも実績で判断するしかない。(厳しい現実は!)

みなさんは如何考えますか?

2010年09月04日

鬼手仏心

これは仏教の古い言葉だそうだ。
外科の医者の座右の銘でもある。
外科医は手術台の上に摘出した臓物が溢れ取り出す、
しかし、心は仏のように思いやりを持って病人を救う使命を果たすのである。

私は人材育成によくこの言葉を使う。
仕事も世の中もすべて人間が主体者だ。
だから仕事という技術を修得はするのだが、
その前に「人間であれ」と願ってる。

一番大事にしてるのは人間学だ。
まさに技術学も人間学も『鬼手仏心』の精神で、部下ときっちり向き合って、
厳しい中にほんとのぬくもりを持って自立させる誠実さが大事である。

私たちが育った時代は、厳しさ8割やさしさ2割だった。
いつも先輩や年長者の前では萎縮したものだ。
ところが今は逆で、やさしさ8割厳しさ2割だそうだ。

理想はやさしさも厳しさも5×5だろう。
松下幸之助さんは冷静な判断×熱き情熱=経営だといわれる。

さて、お百姓さんならご存知のことだが、
稲を育てるには、一杯水を張る時と、
田んぼがひび割れするまで水をやらないようにする時がないと、
良い米が育たないのだそうだ。
稲の根は水を求め自力で根を張るそうだ。
この自力を引き出すのがコツだそうだ。

まさに人間の育成も優しさだけでも、厳しさだけでも育ちません。
私も部下育成と共に育てられていて、
『できる人であり、できた人』の方向を向いてはいるが、発展途上だ。
私たちを支持してくださるお客さんに優れた商品・サービス・感動を届け、
従業員の物心両面の幸福実現するという使命を果たすため、
未熟な自分だが『鬼手仏心』の実践者でありたい。
反省心を忘れず傲慢にならず!!!!

皆さんは如何考えられますか?

2010年09月03日

くじけないで・秘密・朝はくる

「くじけないで」

ねえ 不幸だなんて
溜息をつかないで
 
陽射しやそよ風は
えこひいきしない
 
夢は
平等に見られるのよ
  
私 辛いことが
あったけれど
生きていてよかった

あなたもくじけずに

「秘密」

私ね 死にたいって
思ったことが
何度もあったの
でも 詩を作り始めて
多くの人に励まされ
今はもう
泣き言は言わない

九十八歳でも
恋はするのよ
夢だって見るのよ
雲にだって乗りたいわ

「朝はくる」

一人で生きていく
と 決めた時から
強い女になったの
でも 大勢の人が
手を差しのべてくれた
素直に甘えることも
勇気だと わかったわ
(私は不幸せ・・・)
溜息ついてる貴方
朝はかならず
やってくる

朝陽も
射してくる筈よ

この詩はもうすぐ100歳になろうとする柴田トヨさんのものだ。
産経新聞『朝の詩』に掲載された。
42作品が掲載された本を、今朝、
弊社で商道塾を行っていただいてる中村隆俊先生にもらった。

実に爽やかな気分になりましたので、
みなさんへお福分けで掲載させてもらいます。

みなさんは如何感じられましたでしょうか?

2010年09月02日

夢と希望と挫折・強がり・バカ息子からおかんへ

     「夢と希望と挫折」
『生きていくために 夢を見る
 どんなに小さくても
 夢は 希望を与えてくれる

 ただ
 覚えておかなければならないことは
 夢は 大きければ大きいほど
 叶わなかった時
 大きな挫折をするということ

 大切なのは
 希望も挫折も 受け入れること
 それこそが生きる意味
 それこそが ぼくのスタートライン』

     「強がり」

 『わたしは時に 強がって生きてしまう
  本当は ものすごく辛くて苦しいのに・・・
  本当は 周りの人たちに甘えたいのに・・・
  だけど何より一番怖いには 周りの人たちに流されて
  自分自身を追い込んでしまうこと
  そして悲しいのは 後戻りできなくなるということ
  だから そうなる前に
  自分自身の弱さを認めて生きて行きたい』 

これは奈良少年刑務所の受刑者の詩である。
ほんとに人間の心の奥には良心がある、魂があると感じざるをえない。
しかし、魂は磨かなければ損得の本能や好き嫌いの感情に負ける。
自分の勝手な価値の善悪にも!!
何が正しいかを小さい時から躾けられないと!

故高田好胤さんがこの刑務所にお話しに行かれた時、
いつも話されるのは二つだ。
1)ここは病院だ。
 だから病気治ったら(刑期満了)2度ときたらあかんで!!
2)君たち病気にしたのは大人が悪い、だから代表として、誤りに来た『ごめんな』
そして、受刑者に向かって、「仏壇とお墓あるか?」と手を上げさせた。
100%なかった。
刑務所長に「戻ってくるのは何人?」と聞いたら、約60%だそうだ。

   『バカ息子からおかんへ』
「恩返しなんて おれにはできひん
 もらったもんが 大きすぎるから
 恩返しなんて おれにはできひん
 でも
 悲しませることは もうせいへん
 もうせいへんよ おかん」

何が正しいか?
決して難しい事ではない。
それはシンプルで、『欲張らない』『騙さない』『嘘言わない』『正直・素直』
母はいつもこのように諭して身体に叩き込んだ。
時々、「母も嘘ツイてるのに」と思ったこともあるが、
母親に感謝だ。

みなさんはこの詩如何考えられますか?