社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

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2018年01月06日

陋規(ろうき)が失われてる時代

水戸黄門や鬼平犯科帖(池波正太郎作)の時代劇を好んで視るが、
家族は誰も視ない。
それどころか、これからの若者は誰も視ないとまで断言される。

実に悲しい思いがする。
それは陋規が失われるからだ。

お母ちゃん、お父ちゃんで育った全くの庶民育ちの私にとって、
民のために政治をする人たちは道徳的に綺麗でなければ納得がいかないのが普通だ。

政治を行う支配階級の人には清規という表向きの道徳を守ってもらいたいのが望みだ。
しかし権力を手にすると利己心が働き自分の利益誘導して汚職をする、
賄賂を貰うという人がでてくるのも現実だ。

時代劇では海鮮問屋「〇〇屋」と組んで密輸をそそのかし、
賄賂をとる悪代官をこらしめてくれるのが水戸黄門だ。

ストーリーは「この紋所が眼にはいらぬか?」の決め台詞で、
「角さん助さん懲らしめてやりなさい」となって捕らえられる。
この場面を見て悪は必ず滅ぶと胸がすっきりする思いになる。

さて、清規とは喧嘩をしない、親孝行をするといった表向きの道徳だが、
陋規とは裏の道徳だ。

1.弱いものいじめない
2.喧嘩は一対一で素手でやる。
というように、卑怯な真似をしない。

義賊と呼ばれるねずみ小僧は盗賊には違いないが、
1.女性に乱暴しない
2.貧しいものから奪わない
3.放火をしない
4.盗みはしても人を殺さない
という人間としての暗黙の掟がある。
任侠道では「仁義」という。

民主主義が発展し個人の権利を保証する社会ができているのはいいことだが、
その裏側の義務を果たす道徳が失われているように感じるのは私だけだろうか?

日本では「恩は石に刻め、情けは水に流せ」ということわざがあるように、
お世話になったら「恩返しする」というのが暗黙の掟だった。

ところが西洋的な権利と義務という論理の世界がまかり通って、
義務先行の考え方が失われ、陋規が失われている。

昔は良かったなどと感傷的なことを思ったり、昔に帰れとは思わないが、
新しい庶民の陋規を構築する必要を感じる。

それがFB、インスタといったSNSというコミュニケーション手段で拡散していけば、
日本はもっと素晴しい国になることは間違いない。

世界の先進国が日本人を素晴しい民だというのは、
大きな自然災害を受けても暴動も起こらず、助け合い支えあえる空気があり、
我先にと醜い争いも起こさない事実を見るからだ。

眼に見える世界での共有でなく、
眼に見えない雰囲気や空気を感じ、
その場を共有できる世界で唯一の人種である事を誇りに思う。

だからこそ、子々孫々に清規と陋規の道徳観を伝承するのが、
今を生きる者の義務だと察する。

皆さんは陋規をどのように伝えてますか?