社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

2012年01月19日

リアルとバーチャル

回転寿司は寿司屋という職人の世界の工場化に成功したのだと考える。
もうひとつの観点からは何年もかけた職人のわざはにぎりという作品の中に、
温かみ、優しさ、人間味、季節による味の加減があり魂を込めた個性があった世界の無個性化だ。

私の同級生は寿司屋を1970年からやっていたが、当時給料が安く好きなものは頼めなかった。
一度でいいからカウンターで好きなものを頼んで食べるのが夢だった。
寿司は40年ぐらい前には大変な高級品で、
職人さんによっても味は違うが、なんと言ってもネタの鮮度が大切で仕入れの目利きがいる。

卸売市場から産地直送を実現し冷凍技術も進んだ現代は回転寿司屋さんも、
大変な努力を重ね新鮮なネタを低価格で提供しているのだ。

食べる側からするとありがたい話だ。
おいしいものが安く食べれるのだ。

一方、寿司職人さんは工業化され機械に仕事が取って代わられたことになる。
仕事の二極化が働くことの社会構造を変え、働く使命や意味まで奪ってしまうのだ。
寿司を工業化する技術者(理科系の設計技術者)と段取りする作業員だ。
職人から素人ができるようになってしまっているのだ。

だから段取りするのはもっぱら作業で技術はいらないのだ。
マクドナルドの店員も同じだ。
マニュアルで話す言葉も決められている。
接客されるほうにしたら、
機械的な言葉や心のこもらない話し方に機械人間と話してるような違和感を感じる。

IT(インフォメ-ション テクノロジー)が普及し、
バーチャルな世界が一挙に拡大してる現代こそ、
職人さんの温もりや優しさ、人間味のあるふれあいが希少価値を生む。

人間味を欲するのは時間がかかりコストが高くなると切り捨てるのが経済優先の考えだ。
バーチャルとリアルが混在する現在は、ホントの意味でリアルを活かすバーチャルでなければならない。

人間の幸せはモノがたくさんありモノに囲まれることで、
人間関係が面倒で気を使うと考える人もあるが、
本来は苦しみも悲しみも分かち合える家族や、
仲間のぬくもりを感じる人間関係の輪をもつことで安心もすると考える人が大半だ。

私たちはITを道具として効率化や時間短縮できることは工夫しなければならないが、
目の前にいる人間とたっぷり時間かけて会話し、
暖かさや人情味を感じあう時間は長く取ってこそ人間と人間が創ってきた社会であり、
幸福の基本だ。
昔は一人では食することもも生存もできなく群れが必要だった。
そこでは互いが我慢したり助け合ったりしなければ生きれない。
またその中で人間形成もされ豊かな精神性も育てられたのである。

今こそリアルとバーチャルのよさを生かし合うハイブリッドな人格形成を待たれる。
日蓮上人の言葉に、
「地獄と言うも極楽と言うも外にはそうらわず、ただ我らの胸のうち、
これを悟るを仏といい、これに迷うを凡夫という」

私たちは自分を取巻く外の環境を変えることに夢中になって、
自分の内なる心を極楽で一杯にする心を整え変えることを忘れていないだろうか?

みなさんはリアルとバーチャルを楽しんでられますか?

2012年01月14日

地獄極楽はホントにあるか?

恩師小田切瑞穂先生より三十代になったころよく聞いた話がある。
ある雲水が老師に「地獄極楽ありますか?」と質問したら、
老師は「ある」と答えた。

小さい時嘘ついたり約束を破ったりしたら、
親から「お前は死んだら地獄に行って閻魔大王に舌を抜かれる。
針山地獄や火あぶりもある。」と叱られ子供心に恐怖を覚えたものだ。
もちろん、親は常識を教え、世間に迷惑をかけない行動するための教訓とし話したのだ。
親も死んだことがないので、地獄は見たことはないから空想の話だ。

老師の答えは、この空想なのに事実あると断言した。
「おかしい」と思いながら、興味深く更に小田切先生の話を真剣に聞いた。
御釈迦さんもよく比喩表現で説明されたように小田切先生も以下のようなたとえ話をされた。

「今、君の1メ-トル前に向き合って別の人が座る、そして1メ-トル下に美味しい食べ物が一杯ある。
 しかし食べ物を取る箸は1メ-トルのを使うのが条件でたくさん並んでる。」貢イメ-ジしろという。
さらに続けて、この条件では二つの行動があると先生がおっしゃった。
1)地獄の行動=利己心が一番で他人を押しのけて行動する。
          1メ-トルの箸でわれ先にと1メ-トル下の食べ物をとって口に運ぶ。
          箸が長すぎて口からぼろぼろこぼれいっこうにお腹がいっぱいにならず、
          やせ細っている。

2)極楽の行動=利他心が一番で目の前にいる他人へ先に食べ物を与える行動をすると、
          その人が「あなたは何が要りますか」と食べ物を与え返してくれる。
          もうお解かりでしょうが、極楽は丸々太った布袋さんのような人が並んでいる
          のである。
(相手が利己心の奴に与えたら返ってこないということもあるのが現実ではあるが!
 この理屈は考えないで今は聞いていただくが、これは重要で善人悪人を見極める目を自分で磨かないと世の中では実際的には生きれないのも事実だ。奇麗事ではない!!)

地獄極楽は外の世界にあるのではなく、自分の心の内の持ちようで現実化するということを諭す話だ。

子供のころは、誰でも友達のためにおせっかいと言われるぐらい友を先に考え行動できたはずだ。
だんだん大人になるにしたがって、屁理屈を覚え純粋な利他行一番の行動より、
自分の利己心が大きく膨らんでしまい、
「自分がお腹いっぱいにならないのに他人には出来ないのが普通」と考えたり、
「あるいは好きな人や家族にはするが他人にはしたらおせっかいになるのでしない」と考えるようになる。

しかし、東北の大震災で全国からボランティアの方が自分の寝床もなく、
報酬もないのに行動する姿を見て、日本はまだまだ大丈夫だと感じる次第だ。
私たちも石材業を通じて決して多くは出来ていないが、支援したいし実際行動もしている。(少なくて反省)

地獄極楽は自分の心が決めて、自分でこの世を創ってることはまちがいない。
私は誰にも負けない努力をし、利他行一番で極楽をこの世で作りたい。

みなさんは自分のうちの心、地獄ですか極楽ですか?

2012年01月13日

病気を治すには自信回復

病気(sickness)とは疾患(disease)と病い(illness)をあわせたもの、という概念も提出されているが、疾患(disease)を"生物学的なもの"とし、病い(illness)は"主観的な経験のこと"とする解釈である。
だから、病気は「身心に不都合や不調和がある状態」と定義する。
肉体的に外部から細菌に犯され、極度な使いすぎなどのによって不調和が生じることと、
精神的で主観的な心の状態が揺れ動いて体のバランスを崩す精神による病がある。

昔から「病は気から」と言うように気持ちの持ち方だが、
気持ちが前向きにならないのは疲労が蓄積されすぎていたりして肉体が疲れてる状態か、
逆に栄養補給ができずに栄養失調から免疫力が低下するかである。

いい換えるとかなり主観的で「気」を丹田に下げてコントロールする必要がある。
禅宗ではどう考えるかといいますと「臨済録」では「病、不自信の処に在り」という。
要するに心構えが積極的で前向きで、明るく気血の働きが順調に行ってる時は自信があるから、結果健康でいられるということだから、ひたすら自らの心のうちを整え乱さないのだ。

健康は心身の手入れである。
特に心を整えるには「明鏡止水」といって、
心がまっ平らで水面に波たたず、鏡のようであれば「眞実」を移すのである。

理屈は誰でもわかるが実際に「心」をこの状態にできるかどうか問われる。
病気が治ったから自信が回復するというのではなく、
自信が回復したから病気が治るのである。

老子は人間の前向きな欲望が不健康にするとばかりに「知止知足」
すなわち走ったら止まることを知り、モノ・事は足ることを知ると諭すのである。

健康は在るののでなく、運動や自らの内なる心構えを整えることであり、
日々の行動を「知止知足」のモノサシで反省することだ。

みなさんは健康維持のモノサシどうなさってますか?

2012年01月11日

本を読む

私は20代頃までは一冊の本を丁寧に最後まで読んだことはない。
いつも本を読むことにまじめでない後ろめたさを感じていた。
その読み方をする自分の意気地なさが腹立たしかった。

私の好きな小説家の一人に五木寛之さんがいる。
めったに夕刊紙を買うことはないが電車で帰ることになッた昨日は買った。

「正月に読んだ本の片影」という記事のなかに、私好みの文章があった。
それはこうだ。
「締め切りの原稿をわきに押しやり、その辺の本を片っ端から読む・・・
・・・私の場合読書はそれ自体が目的ではない。
私が本を読むのはたいてい現実逃避のひとつの手段である。」
「そんな時の読書は、時間がある時の読書とは全くちがう。
悪いことをしているという甘美な感覚がそこにある。」

私は正月に五木さんの「下山の思想」を読んだ。
この本のタイトルはタイムリーで的を射てる。
閉塞感のある日本の実情で「成長か後退か」の議論でなく、
全く根本概念を一から考え直さすイメージを与える「下山」なのだ。
もちろんイメージするのは「下山」では使う筋肉が違うことは誰もがピンと来る。
「下山」は単に諦める行動でなく、新たな山頂に登るプロセスだという世界観を展開する。

登りが正しいとか、下りが正しいとかの二元論的世界観ではない。
仏教に造詣の深い五木さんならではのタイトルだ。
世の中は諸行無常という流れる時間を表現する歴史観にもとづいてる。

彼は自分の弱みも強みも決して誇張せず、淡々と語りかけるように書く。

仏教者で思い出すのは「良寛さん」だ。
「裏を見せ表を見せて散る紅葉」

みなさんは正月、どんな本を読まれましたか?

2012年01月10日

秋山眞之(あきやまさねゆき)の地をたずね

昨年の師走に秋山兄弟の生誕地を訪れ、
眞之と無二の親友の正岡子規の子規堂を尋ねる機会を得た。

時代背景は違うので戦争論ではなく、人物論として尊敬する人物だ。
小さい時大変な暴れ者で母・貞に短刀を突きつけられ、
『お母さんも死ぬからお前も之でお死に』と諌められることがあったそうだ。

その反面は人に優しく、家族や親族を大切にし、海軍では部下も大切にした。
もちろん35年の生涯で7年も病床だった子規を何度も見舞っている。

眞之は合理的科学思考であったが、国の将来を憂えることを常に考えていたと、
兄、好古に葬儀で語らせたぐらい国家の将来を考えていた。

日露戦争にコサック騎兵隊を破ったのは好古が組織した日本の騎兵隊だったし、
バルチック艦隊を撃沈したのは眞之だ。

彼のアメリカ留学中のメモには、
1)細心集慮は計画の要能にして、虚心平気は実施の原力なり。
2)事の成敗は天にありといえども、人事を尽くさずしての天、天と言うことなかれ。

戦争を肯定するつもりはないが、一心に身を捨てる生き様は武士道の精神だと感服する。
開戦の電文「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」は眞之の文だ。

子規の句で思い出すのは「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」
そして彼の「病床六尺」の本からは、
「余は今迄禅宗の所謂、悟りといふ事を誤解していた。
 悟りということは、いかなる場合にも平気で死ぬことかと思っていたのに間違ひで、
 悟りということは、いかなる場合にも平気で生きて居ることであった。」
七年も病床にいて彼が必死に病魔と闘い、心では平気で生きる。
之こそ自力本願だ。
子規の「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」という句が達観してなお平気に生きる強さを感じる。
子規のド真剣な生きる姿に感動すると共に眞之のド真剣な国を憂うる気持ちは共通する。
現代の環境に甘んじ危機感なくふらふら生きていたら感じ取れない心境だと反省だ。

みなさんはこの親友のことどう感じますか?