社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

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2018年12月04日

大人の個人主義の時代

現代の社会が封建時代のような階級から開放され、
自由に職業が選べたり、幕府の御触れにも束縛されないのはよくなった。
明治元年から10年の西南戦争まで中央集権国家の絶対王政時代を経て、
日本は欧米と並ぶ個人主義的近代化へシフトしていくが、
一族、大家族的な生活習慣が一挙に変化できるわけでもなかった。

1945年、第二次世界大戦に敗戦し、アメリカの進駐軍統治下で新憲法が発布された。
ここでの欧米と同じような「信条の自由」を基本とした個人主義がベースのものになった。

日本の精神的支柱の先祖供養の墓が財産権として長男に相続しなくてもよく、
相続は平等な個人となった。(家族のシンボルがなくなる)

われわれ大学時代は国家の強制力が強く感じられ、
当時は、理想の国家像は社会主義だと唯物論的考えが中心となり、
国家権力に対し、自由と平等を旗印に社会主義運動が盛んであった。

昭和が幕を閉じ、平成に入るとさらに個人の人権運動が展開された。

動物と人間の違いは、生活のために群れ知恵を働かして獲物や穀物を確保するために
協力体制をとることであるが、精神的なものを中心に置く必要があった。

それが神だ。

今から1700年位前の弥生時代から農耕を中心にして、
安定した穀物を採り定住するようになれば、
大和国の卑弥呼のような巫女さんが支柱となり、どんどん神格化していくのである。
農耕民族にとって、先祖に敬い祀る事によって心がひとつになり、
みんな同じ家族として助け合い、支えあい、段々それが儀式化していったと考えられる。

一方、欧米の人は違う。
狩猟生活をして安定した獲物を獲得するのに移動しながらの生活をし、
また一神教を信仰する。
この神は人間よりも上位に位置づけられて、人間はそれに従うのである。

近代になって、ルネサンスが起こり神からの開放を実現し、
神に変わって、理性(収斂理性)を神にして、
デカルトのような二元論的な考えになっていくのである。

日本は元来一神教でなく汎神論的なアニミズムで、
自然と人間が一体となって共存する事が当たり前と考えられていた。

だから、善悪ということをことさら対立させる事なく、
外国の技術や宗教も寛容に受け入れた。
欧米は主語がある会話をするが、
日本は主語のない会話ができる漢字とひらがな文化が特徴だ。
世界からはあいまいと指摘されるが侘び、サビの文化を産んだ。


現代は、個人の権利が肥大化して、
権利意識が強く義務意識が欠如した子供の個人主義の様相だ。
本来の個人主義は、自分の主張も言うが相手の主張も聞くといった寛容で、
愛ある話し合い、互いがより良く飛躍する大人の個人主義のことを欧米では言う。

地域社会や学校、家族がまとまりをなくしている現代の個人主義には精神的支柱がなくなっている。

現代、欧米の世界を二分するのは、宗教対立として現れている。
宗教の傘下での個人主義だ。
ユダヤ教、イスラム教もキリスト教も「ヤーベ」という親からできた兄弟が喧嘩してるのが事実だ。

全世界の人々が先祖供養する社会の共通の土俵ができたら、戦争はなくなるに違いない。

皆さんは今の個人主義はいかが考えられますか?

2018年11月29日

「自立・自覚・自主」とは何に目覚め、何に立脚するのか?

仏教では十二縁起と言って最初にでてくるのは「無明」(無知)である。
これがすべての苦しみの根源だというのである。
十二縁起(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死)

無明(無知)とはどんな姿勢の生き方かについて、
1.正しい人生観・世界観を知らない、知っていても無視する生き方の人
2.大自然の原理原則を知らない、知っていても自我の損得好き嫌いで生きる人
3.人生の意味や意義を知らない、知ろうとしない人

このように解かれている。
このことが理解でき行動できる人を自覚があると言うのである。
自分だけがわかってるだけでなく、他人にも解っててもらう行動をする。
「自覚覚他」「自利利他」というのである。

「煩悩即菩提」という言葉は迷い苦しんでいるからこそ、
迷い苦しみから目覚める事もできるというのである。
現実は無明(無知)を脱出することが簡単にはできないのも事実だ。

仏教では悪=不善を意味する。
故に「善因善果」の行動をとれば「自因自果」となる。
「利他行」は結局自利行になるのである。
常岡一郎棟梁は人間は何を学びに生きてるかを次のように書かれていますので紹介する。

「使い方の修行」
この世の中そのままがわれわれにとっては道場であります。
生まれて死ぬまで人間は修行しているものと思われます。
それは「使い方」の修行です。
身体の使い方。
心の使い方。
金の使い方。
鮮やかな使い方。
正しい使い方。
自然に添う使い方。
気持ちのよい使い方。
それを毎日修行する。
そのための人生は心づくりの道場であるとおもいます。

皆さんは如何思いますか?

2018年11月27日

「楽天知命」易経・繋辞伝上(ケイジ)

「楽天知命   故不憂  
安土敦乎仁 故能愛」

意味=天を楽しみ命を知る。 故に憂えず。
その居処に安んじ仁徳に厚い故に、よく人を愛する。

「天人合一」というと自然のリズムに合わせるという受身な発想になるが、
決してそうではなく、あくまでも主体的に天を楽しむ。

積極的に天のリズムに乗っかって楽しむという事だ。
「命」は我よりなすのである。

自分で運命を作る。命をどう運び、どうありたいかを自問自答する。
集団の会社は「使命」を共にする仲間と具体化することだ。

私たちの会社は「物心両面の幸福」を創る使命で経営してる。
そのために、具体的な仕事をピッカピッカに磨き上げ、
世のため人のために役立てる技術(才)人間力(徳)を磨き上げる。
この言葉は「易経」繋辞伝上にある私のお気に入りの言葉だ。

人間そのものを俯瞰し宇宙から人間を捉え、
人間は事実や人を相対化して二元論(デカルト)で捕らえるのでなく、
二元を対立させるんでなく、相互に浸透し支えあって飛躍する。

易経的には「時中」と表現してる。
ヘーゲルも易経を学び自然弁証法を見出した。
「時中」は弁証法の「正、反、合」の合のことで、
飛躍(アウヘーベン)と言ってる。

宗時代の程明道も「対峙」と「天地万物の理、独なるなし、必ず対あり」
人間の体にも静脈と動脈があるように、
陰陽が一対にあるのである。

陽は遠心力で、陰は求心力だ。
声が合うのは「応じる」で、気があうのが「求める」
気があうことが人間にとって心地よい。

論語の述而第七に、
「子曰く、我に数年を加え、五十にして以って易を学べば、
以って大過なかるべし」

意味=自分に数年加えて50才になる頃までに易経を学べば、大きな過はなくなるだろう。

論語の為政第二に「子曰く、吾十有五にして学に志、三十にして立ち、
四十にして、惑わず、五十にして天命を知り・・・・・・」


孔子も五十までは宇宙の法則に従うという、
受身的な考えで理想の人間像にこだわって説いて間違った解釈もあり、
本来の「命」の開放感が伝えきれないことを感じていたんだろう。

50才近くで易経を深く学び、
「命」から湧き上がるワクワク感やドキドキ感を体感したに違いない。
五十にして天命を知ったのだ。

「安土敦乎仁 故能愛」
意味=その居所に安んじ人徳に厚いが故によく人を愛することができる。
(自分の置かれた環境や仕事を天分、天職と思って、愚痴、不満がない状態)
西郷隆盛の「敬天愛人」を思わざるを得ない。

皆さんは「楽天」「安土」積極的にしていますか?

2018年11月24日

「資治通鑑」司馬光に学ぶ

中国の紀元前400年位から紀元後959年の歴史的史実を元に、
宗の時代に司馬光(1019~1089年)によって書かれた。

リーダー学でもあり自己研鑽書でもある。
安岡正篤氏も歴史的社会的に脊骨ができたのは史記とこの本を読破した事だとおっしゃる。

今年は大河ドラマで西郷隆盛がNHKで放送されている。
江戸時代には儒学者がたくさんいて、自分を磨く事がとても大事であった。
西郷さんは、佐藤一斉の「言志録」を深く学んだそうだ。
佐藤一斉の弟子に佐久間象山がいて、吉田松陰なども「言志録」に学んでいた。

さて、西郷さんの徹底した私心を捨てる生き方は島津斉彬がなくなり、
弟の久光に嫌われ、沖永良部島に流され言志録始め、陽明学、資治通鑑も学んだ。
「敬天愛人」は西郷の座右の銘であり、人生の指針であり自分の背骨(精神柱)でもあった。

「資治通鑑」には四種類の人間が出てくる。
聖人、君子、小人、愚人である。

これを徳と才に分け、諭すのである。

徳=正直で中庸(心がまっすぐで言動に偽りがない)
才=聡明で意志の強いこと

才は徳の資材であり、徳は才を統帥するものといえる。
そこで四種類の人間を以下に示す。

聖人=徳も才も完全に備えてるもの。

愚人=徳と才のどちらも欠けているもの。

君子=徳が才に勝ってるもの。

小人=才が徳に勝ってるもの。

司馬光はさらに突っ込んで、現実的に採用方法を述べている。
もし仮に聖人・君子を得て任用できない場合は愚人を用いる方が良い。
君子はその才を用いて善を行おうとする場合には、行うすべてが善となり、
逆に、才を用いて悪を行おうとする場合には行うとするすべてが悪になってしまう。
他方愚人は、たとえ不善をしようとしても、それだけの智慧が回らず、力もまた不十分だからである。

そもそも徳は敬遠されがちなものであり、才は人に愛されるものである。
そして愛するものは親しみやすく、敬遠されがちなものは疎遠になり易い。
そのため人物を考察する場合、たいていは才ばかり見てしまって、徳の方を見落としてしまうのである。

昔から国を滅ぼし家を滅ぼした子は、才は有り余るほどあるのに徳が不足して国や家を滅ぼしてしまう場合が多くある。

この四種類の人材登用法をわきまえて居れば、人事の任命や採用に決して心配することはない。
こう断言するのである。

さて、自分が日頃から才はあるのか?
あるとすれば何ができるかをわかっていなければならない。
また、徳がある人物として、本能的な欲望が自分の主人になっていないか?
利他的な自分が主人になってるかをチェックする必要があることを、痛感する。
この本はリーダーとして人を任用する技術諭だけでなく、自分を照らす鏡でもある。

皆さんは自分をどのように磨いておられますか?

2018年11月18日

「利己主義・個人主義・家族主義」

外国に旅すると「あなたの宗教は?」と質問受ける。
ほとんどの人が「仏教系無宗教」か「無宗教」と答える。

私は、「儒教系仏教徒」と答える。
意味を聞かれたことはないが、もっと深く言うと神道系も入る。
いちいち説明するのがややこしいので、そこまで言わない。

日本は縄文時代から瑞穂の国で豊かな自然に恵まれ、狩猟採取の生活から農耕生活して定住してきた。
農耕生活は稲を植える、雑草を刈り秋には収穫するには人手がいる。

だから、家族が協力する事が生きていくのに重要だった。
家族が団結する家族主義だ。

ヨーロッパでも定住しジャガイモなどを主食にしていた農耕時代はあったが、
キリスト教の出現によって、先祖への感謝から神への感謝へ変化した。

自然が厳しく狩猟的な移動生活から、
狩で獲物を捕る弓矢で一発で獲物をしとめる能力者が勇者となり、個人の能力をたたえる個人主義が優先された。

日本は明治にペリーが来航し、開国を迫ってきたときに、同時に欧米の個人主義が入ってきて大混乱するのである。
一族主義から世帯主義、個人主義へと舵をきるのである。

動物の団結する条件は、
1.共有の食物
2.血縁

人間の団結の条件は、
1.先祖祭祀(精神的なシンボルがいる)

大昔のアニミズムやシャーマニズムは神のお告げをする人であったり、自然そのもの、山、大木、岩などに感謝する事だ。

人間が定着するようになってきて、
農耕時代には「先祖祭祀」をすることによって団結した家族主義が成り立った。

さて本論に戻って、表題の三つの主義の違いを書くことにする。

1.利己主義=自分が得する判断と行動をする。自立自覚はなく、自己責任はなく現実のややこしい課題から逃げる動物的本性である。

2.個人主義=自主、自立、自覚して自己責任を持った能力主義の狩猟民族的で、最終目的は「自由」を勝ち得ることだ。

3.家族主義=先祖祭祀という感謝の儀式を通じて運命共同体として団結するのである。主義とは生き方のことである。

ところで昨今は女性の社会進出で経済的にも自立して、
夫婦のあり方も変化して家庭が共同作業の場となり、核家族でなく個族化してきているように感じる。

同じ船の乗り組み員としての家族集団から、
個々人が精神的な束縛から自由を求める方向へ、ばらばらなモザイク家族になってきているように感じる。

日本の現状は移民国家アメリカの個人主義の模倣の結果ではなかろうか?

トランプ大統領に政治家でないという批判がある。
現実のモザイク国家になったアメリカだが、イギリスから夢を描いてメイフラワー号でやってきた。
家族愛に飛んだ敬虔なピューリタンの白人の支持があってこそだ。

トランプ大統領はもう一度暖かい家族と、豊かになっていく生活を求める人々を象徴してるように見える。

皆さんはこの三つの生き方、如何おもいますか?