社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

2011年12月24日

住職の話

住職の話というと説法だ。
禅宗では「一身説法」といって、
言葉ではなく自分の行動すなわち身をもって教えを説く。
特に一に掃除、二に掃除、三、四がなくて五に坐禅と作務を基本にする。
ところがこの禅宗お坊さんは『お寺はなくならないお坊さんがいらなくなる』と話すのである。

お寺が人々の悩みを解決する場所になってないのは役目を果たしていないのだという。
だから、宗教離れでもなく、仏教離れでもないと断言された。

そこで、葬儀の無償化や情報の開示(お坊さんの日々の行動も開示)し、
地域のコミュニティーの核となるべしと月間の情報誌も発信されてるのだ。
更に一人世帯や二人世帯の方々に安心できるように寺が葬儀まで面倒見ることを実現したいと、
行政がやるようなことまで踏み込んでいこうとがんばっておられる。

最後にこのお坊さんはお坊さん目線の発信では伝わらない、
檀家さんの目線にたたなければならないという。
実に『あっぱれ』と感服した。

みなさんはこの住職の話をどんな風に受けたられるでしょうか?

2011年12月23日

工業化社会と情報化社会の本質

こんなにモノに溢れた豊かな生活の源は石油・原子力という外部エネルギーだ。
1750年代にイギリスで起った産業革命は根本的に世の中を変えるエネルギー革命でもある。
ここで出現したのは手作業で働くことから機械を使って働くことになり、
馬や牛の操り方よりや機械の操作の上手な人が働くことだ。

一方、この技術を発展するために物理学や化学といった理工系技術者の能力が期待された。
養老孟司先生は現在はこの外部エネルギーが40倍かかって文化生活してるのが日本で、
アメリカは160倍かかってるといわれる。

エネルギー革命のない時代は人間のエネルギーに牛や、馬、象、
あるいは簡単な滑車の原理(未熟な物理学)などが使われていただけだから、
モノの生産量は限られている。

だから、人間の価値が非常に高く評価された、
大工さんや鍛冶屋さん、その後は商人と言う流通を考える人が珍重されるようになる。

現在は人間の価値は逆に40分の1に小さくなり、
40倍のスピードの機械、情報のほうが価値があり、
結果モノ・情報の価値が評価され人間の価値は表に出てこないのである。

しかし、人間が物を使い、情報を使って幸福に生活することが本質であることを見過ごしてはならないのだ。
人類が競争と、信用の社会になったのも代替エネルギー(石油)・原子力と技術が進んだからだ。
でもこれには必ず反作用の問題を含んでいることに正面から向き合うことだ。(CO2・放射能の問題)

人間の価値が表に出てくるのは、
1)生活に関わる時
2)生死に関わる時

日本の社会は個人の全責任を追求する個人主義の社会でなく、
他律的だが『世間』『会社社会』が義理と人情で助けてくれる仕組みが、
暗黙に出来てる社会だ。
無宗教の社会でもなく、世間宗教とでも言うべきで暖かい人間関係がある。

村が壊れ、先祖を大事にしないようになってるとマスコミは言うが、決してそうではない。
東北の震災時も現場に行きましたが、自分より大変な人がいてると震災に会っていても感謝し、被害の大きい人を先にして助け合う姿と秩序が出来ていた現実がある。

空気を吸って生きてるが、空気に無意識なように、
世間という助け合い『絆』が無意識に出来てるのだ。

震災に対しては石材業界でも義援金や人財の支援・モノの支援もやっているところだ。

社会の生産活動が工業化社会、情報化社会と軸が変わっても、
人間が人間のための生産活動であるのが本質だ。
もちろん、自然という恵みを使わせてもらってだ。
(自然を無謀に使うのでなく、再生させながら)

西郷隆盛さんの『敬天愛人』という言葉に共感する。
自然に畏敬の念を持って敬い、いたずらに人間が無造作に扱わず感謝の念を忘れないこと。
それに人間の尊厳を愛することで人間同士が相補的に助け合う社会が生まれ共存共栄になる。
それには内なる自分の自律的な形成が欠かせない。
これは頂上はない山登りだ。
日々の活動の中で努力と調和を求め『世間』チェック機能のようにを大事にする姿勢がいる。
『世間』はいい換えると理性的な基準でなく『お天とうさんが見てござる』である。

みなさんはモノの豊かさの奥にある無意識の『世間』どう思います?

2011年12月15日

反比例の法則

人間は学歴があがるほど品性が下がる。
人間は生きれば生きるほど命が惜しくなる。
人間はお金がたまるほどケチになる。

学び方や生きかたやお金の使い方はこの逆をすることだ。
1)学べば後人(子孫)に伝え、自分は捨てて次の学びへ挑戦する。
2)生きれば生きるほどいつ死んでもいいように覚悟を固める。
3)お金がたまったら世のため人の為に使う。

恩師小田切瑞穂は東方学術院を広げるために関西では大融寺さんを借りて行っていた。
当時は自分でおやつを買ってきてみんなに聞いてもらうという感じだった。
そんなにお金があった訳でもない。
先生の『潜態論』の講義が始まるが、ちんぷんかんぷんで解らない。
理論物理学が専門だったので素粒子の話をされるが、もっとちんぷんかんぷんだ。

そこで、仏教の襌の話をよく聞かせていただいた。
この話も近代化した現代では創造もつかない社会状況での話、
別世界の桃源郷のような心安らかになる非現実的な話に聞こえた。

仏教と宗教を合一する哲学だとおっしゃられるが、
メジャーでなくマスコミにもでないし、学会でも評判が好いものでもなかった。
しかし、先生はわれわれ学問を志すものでもない凡夫に一生懸命話される熱意は伝わってくる。
何とか理解しようとするが言葉も難しく理解できない。

学歴がないから言葉でなく体験で学べばいいのに頭で聞いてるのだ。
先生はよく「頭を空っぽにしろ、コップに水が一杯入っていればいくら話を聞いてもこぼれるぞ」といわれた。

反比例にもなれない無知、体験不足のな状況だったことはまちがいない。
人間は自利心という身体からわいてくる向上心やエネルギーはある。
このエネルギーを思いっきり自分のものにする利己心(自分さえよければ)に偏ることだ。
偏って生き通せばそれでもいいが、そうは行かない。
この段階で反比例の法則に気付くのだ。

大事なのはその次だ。
反比例の法則を更に否定して反比例にすると二重否定は自己肯定だが、
方向が全く逆になる、自分にむかう利己でなく、他人を利する利他行にするから自我が取れる。
これは理屈だ。実際は『今ここ自己』に集中して利他行を一心不乱にする行為そのものだ。

襌では『学ぶ』に二つあると教える。
学問襌=薬の説明書を学ぶ禅学
実践襌=実際に薬を飲むことで体験(体得)

学問も実際に役に立たない知識だけでは意味がない、
現実に応用できる活学こそ意味が出てくるのだ。

私たちは「死」を避けることをするのは「生」を避けることになる。
実は死を考えることが生を考えることだ。
「夢・志」が逃げるんでなく、自分が「夢・志」から逃げてるだけだ。

人間は博愛主義者に直ぐなれますが、そばに困った人がいるのに案外冷淡になるのは、
口先の博愛主義者ほど冷淡な利己主義者という反比例の法則に合致する。
行動が先ですね!言葉じりがあって論理の整合性があるよりも!
論語に『巧言令色すくなし仁』とある。

みなさんは反比例の反比例は肯定で実行ですが、どんなことされてますか?

2011年12月14日

使命に気付く

3.11は震災が起った日だ。
未だ4000人近い人の遺体が見つかっていない。
○○小学校の小学生74名中4名がまだ発見されていない。

その救助に携わった警官の方が、今日テレビで未だに捜されている様子が映された。
なぜそこまでするのか?

それは救助した小学生のお父さんの言葉に使命を感じたという。
『お父さんは君を救ってやれなかった申し訳ない』
『しかし君がなりたかった警察官の人に見送ってもらえて嬉しいだろ、幸せだな』
この一言が同年代の子供を持つ誠実な警察官の心に響いた。
一心不乱に休みもなく探し続けられてる報道だった。

神さまはいろんな立場でいろんな働きをするように人間を作られているのだろう。
『4名の子供を持つ遺族の方にとってはまだ震災は終わっていない』と語られ、
警察官の使命を全うするべく今も活動されてる。

昨日チャリティーコンサートがあった。
この方は中国人の歌手の李 広宏さんだ。
震災後チャリティー音楽会を開き福島の身体障害者の方に支援されているのだ。
25年前に来日、日中国交が再開された14歳ごろ、
ラジオから流れる『夏の思い出』を聴いて、日本に留学してこられた。
日本の心である『ふるさと』『荒城の月』『里の秋』などを中国語にも訳して歌われ、
震災の支援だけでなく、歌を通じて日中の架け橋になりたいという使命で活動されてる。

歌手の小林幸子さんがヒット曲もなく苦しんでおられた時、
故古賀正男先生が『歌ではお腹は満たされないが、心を暖かく出来るよ』
『だから続けなさい』といわれて辛いことにも耐えられ、
歌って心を暖かくすることが使命だと気付き没頭できたそうだ。
その後はNHKの紅白にも出場、演歌の歌姫として万民から愛される歌手になられた。

人間はそれぞれ生まれてきたのには何か果たす使命がある。
音楽で言うと指揮者の人もバイオリンを弾く人もピアノの人も、
音楽を届けるという使命は同じだ。

私はこの仕事をして数年たったとき、
お墓や石材を通して幸福を届ける使命があると気付き自覚したから今日まで続けられた。

みなさんも何か使命を果たしてこられたのではないですか?

2011年12月11日

恒産・恒心

『健体康心』はあるものでなく自分で作るものだ。
健康でなければ安寧な心になれない。
これは病気をすれば直ぐわかるが、日常生活では忘れてる。
その原因は『身のほど知らず』で行け行けどんどんと身体を酷使しすぎる『我欲』だ。

老子の言うように『知足不辱 知止不殆』をわきまえない自らの『自業自得』だ。

さて、社会生活に目を向ければ『恒産・恒心』のバランスが大事だ。

孟子・梁上編に「恒産なくして恒心あり、若もそれ民に恒産なければ、因りて恒心ならん」
意味=安定した財産や収入がなくても平常心を失わないことが大切であり、
   一般の民に財産もなく安定した収入もなければ安定した気持ちになれないのも無理ないことだ。

孟子は紀元前372から210年の人ですが孔子の『仁』の愛、恕の心は徳の路、
更に具体的に『義』が人の路だと説き、『仁義』を大事にした。

「健体康心」「恒産恒心」のハイブリッドを作るには、
『働くこと』で社会の役に立つことと同時に人間を磨く自力の努力がいる。

健康も安定した収入も手に入って心が康で平常心を失わない『安心立命』は誰しも求めるところだ。
現実はこの自力だけではうまく事は運ばない。
近江商人の言う「三方が良し」で社会と自然と調和しないと実現しないのである。
逆に社会を良くし、自然と共存するには自力の努力がなければ現実化しないのも事実だ。

新聞やテレビを見ていると自分以外の政治や、経済の『批判』ばかりで、
自分の社会参加への『反省』や『行動』をしなくても、
社会環境がよくなれば自然に自分の幸せがくるような報道に感じる。

「幸せ」は外から飛び込んでくるのでなく、自分で築きあげていく過程にある。

孟子・告子下篇に『憂患に生き、安楽に死す』
孟子先生も生きてるかぎり悩みは尽きないと考えられ、
自ら安楽を創り出されたに違いない。

みなさんは憂患を安楽に変えていますか?