社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

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2018年02月07日

エネルギー、気について

化学ではエネルギーといいますが、荘子は「気」という。

日常でも「気が重い」「軽い気持ちで引き受けたが、心は重い」
あるいは「やる気があるが腰が重い」こんな状態になった事がある。

荘子は「身体」「心」「気」を明快に分けています。
「気」は一番上の概念です。

荘子が孔子に言わせた形人間世篇で、
 「まず、お前の心を一にせよ
 これを聴くに耳を持ってすることなく、これを聴くに心を持ってせよ。
 これを聴くに心を持ってすることなく、これを聴くに気を持ってせよ。
 聴く、耳に止り、心、符に止る。
 気なるものは虚にしてものを待つものなり。
 ただ道は虚に集まる。虚とは心斎なり」

「気」は空虚であるからこそ、一切のものを受け入れる。
道はこの空虚にだけ集まるというのである。
そのために、虚をまとめるのは意志がいる。
荘子は「まずお前の心を一にせよ」と最初に言ってるのに意味がある。
「気」は精神的なものでも物質的なものでもないから志によって収斂し具体化する。

陶器で花瓶を作る。花を生けるためだ。
土を個ね形を整え花瓶ができる。
その花瓶が作った空間こそ「気」である。

でも人間の意思がなければ空気をとて存在するだけだ。
これは人間が生きる上でエネルギーとして具体的に役に立ってる。
持続的に生きるには肉体を支える食物がいる。

皆さん「気」という眼に見えないものが一番大事とおもいませんか?

2018年02月05日

生涯現役

自分を叱咤する意味で「生涯現役」と自分を奮い立たせてきた。
二つの課題を解決しなければ、「生涯現役」は空念仏になってしまいます。

一つはものの考え方が徹底して他力本願になって「阿弥陀さんにお任せ」となって、
利他行を実践することができるかどうかだ。
もう一つは肉体が老化していくことでだ。
勿論、栄養と休養と運動少しを心がけてはいるが、
病気になり寝たっきりになってしまったらどうするかだ。

この二つの疑問を解決してくれる記事に出会った。
一つは松下政経塾塾頭をなされた上甲晃さんの記事だ。
マザーテレサさんが「死を待つ人の家」で身体を拭き温かいスープを与えて見送る。
一番死に近い、膿がでてただれた人から家に運ぶそうだ。

上甲さんはどうしても理解ができなくて、
人口一千万のカルカッタに飛んだ。

運よくマザーにあって質問しました。
「どうしてあなたは、あの汚い、怖い乞食を抱きかかえられるんですか?」
マザーは即座に「あの人たちは乞食ではありません。」
上甲さんは「あの人たちが乞食でなく何なんですか?」とさらに質問しました。
マザーの答えは「イエス様です。」
続けて「イエス・キリストはこの仕事をしているあなたが本物かどうか、
そして、この仕事をしているあなたが本気かどうかを確かめるために、
あなたの一番受け入れがたい姿であなたの前に現れるのです。」

上甲さんはハッと気付かれた。
「私は他人を変えようとしてどれだけ責めてきたか!
そうではなく、自分の責任において変えられるのは自分だ。」
「常に問われてるのは自分から変わる勇気を持てるかどうかだ。」
そう気付くと心が晴れ晴れとされたそうだ。

二つめの「老い」。
からだが自由に動かなくなったとき、
生きることに絶望し、希望を捨てるか安楽死を択ぶかと考える。

ところが、鈴木秀子さんが、
「体が動かなくても、笑顔を返しなさい、優しい言葉を発しなさい。」
「それもできなくなったら、祈りなさい。世界の平和、諸人の幸せを。」
こころの中で祈り続ける事ができる。

この言葉をきいて、自分が如何に狭量かと思った。
肉体しか見ていない、自分にできることを形にとらわれていたのに気付かされた。

「祈り」という形のないものが一番大事だということ。
心で祈り続ける事ができる。

坂村真民は「念ずれば花開く」苦しいときも悲しいときも、
真言のようにお母さんが言っていたと語られてる。
この二人の出会いで、「生きる」生涯現役のパスポートを貰ったようだ。

皆さんは目に見えないものが見えるものを支えてる事の実感ありますか?

2018年02月02日

自未得度先度他

書道を習っていて、「字が詰ってるね」と先生に言われ、
「もっとのびのびと書きなさい。息が止ってますよ」
「ではどうすれば良いのですか?」と質問した。

意外な答えが返ってきた。
「歌を歌いなさい」「春よこい早く来い・・・・・・」と歌われた。

そうなんですね。
肩の力が抜け、呼吸をしながら自然体で緊張感なく書けますね。
「のびのび書けた」と褒められる。

この指導にはびっくりした。
普通なら「呼吸をしなさい」と指導しそうだが、
呼吸は意識してしないので、仮に呼吸しなさいといわれると、
意識しすぎて緊張感は取れなく、逆にリズム感がおかしい呼吸になっていただろう。

「自未得度先度他」とはまさに歌を歌いなさいなんですね。
どんな人も基本は自分の欲(利己心)を満たして、
その後他人を助けてやるというのが普通と考える。

ところが、この言葉は自ら、未だ得度(悟りを得ていない)なのに、
他人を助けろというのである。(逆をやる)

「呼吸を整えなさい」といわれたら、
誰しも自分の内なる呼吸に注意を払う。
ところが普段意識しないで呼吸しているものを、
整えるのに考えてしまい、逆に呼吸は整わない結果になるのが現実だ。

自分の外に目を向ける事で、結果自分の心を整え実現させる。

利他行をすることは同時に利己心も満足させる結果となる。
これが仏教で説く「自利利他」という意味だ。

自分の内を見ると三つの火が燃えている。
内を見れば見るほど燃え盛ってどうにも止らないようになる構造にできてるのが人間の心だ。

1.「貪り」の火=目で見、耳で聞き、鼻で嗅いで,舌で味わい、体で触れてみる。
実感があて、もっと、もっと他のもの良いものを貪るのが人間だ。

2.「怒り」の火=目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、体で触れる。
しかし、自分が嫌いなものは排除して怒り、憎しみ、嫉妬の感情が湧いてくるのも人間だ。

3.「愚かさ」の火=物事を知らないというより知ろうとしない。
言い換えると無関心に自分の心をシャットアウトしてしまうのも人間だ。

この三つの火はモノや人間や事情を通じて燃えるのだ。
決して火が勝手に火にはならない。(水は自分があり、方円に従う柔軟性がある)
火はモノと人間や自然、事情などの関係性で火が生まれるのだ。
それはモノも人間も自然も自分の中に取り込もうとするからである。

この自分の内面を見れば見るほど火は燃え盛り、
思い道理に行かないと自分をも燃やしてしまう自滅の行為まで行く。

だからこそ、人間は三つの鏡を持たなければ自分が見えない。
1.自分鏡(ほしいほしいの欲が映る鏡)
2.他人鏡(うらやましい、うらやましいという他人に嫉妬する鏡)
3.仏鏡(自未先度他と利他行に徹する鏡)

この三番目の鏡に気付かないと迷い苦しみ悩むのである。
白隠禅師の坐禅和讃に「衆生本来仏なり、水と氷の如くにて・・・・・・」とあるように、
自分の心の鏡を利他行に向けさえすれば、ほしい貪る心も怒りの憎い心も、
無関心な愚かな心も利他の行動の後ろえ隠されてしまって、
表にはでてこないというわけである。
御釈迦さんの説法は実に簡単な説法なんですね。

皆さんは利他行一番で楽しく生き生き生きられてますか?

2018年01月31日

言必ず信、行い必ず果

昭和47年に日中国交を開いたとき、
周恩来首相が田中角栄総理大臣に渡した色紙に書いていた言葉だ。
角栄首相は有り難く頂いたが、物議をかもしたのである。

これは論語第十三子路篇にある言葉で、この次に続く言葉がある。
「硜硜然(こうこうぜん)として小人なるかな」
意味=融通の利かないコチコチ頭の小人(凡人)ということ。
実は馬鹿にされているという解釈である。
当時の角栄さんは意味を知らなかったのであろう。

一般的にはまじめな良い人と察するが、
融通が利かない馬鹿正直者という意味だ。

私は実にこの三流の人間が正しいと思い込んでいたので、
随分家族や周りの人を傷つけたことを反省する。

悟りきった老子はどうも好きになれなかったが、
さらに一段上の心境で語る老子がとてもぴったり自分の腑に落ちる。

老子は以下のように語る。
「大人は言必ずしも信ならず、行いは必ずしも果ならず」

意味=優れた人物は言ったことが必ずしも信用できるとは限らず、
   行動もきびきびしない場合もある。

ここからが重要だ。
老子はさらに突っ込んで「義のあるところのままにする」と書いてるのである。

言葉に信がなく、行動に果がなくても良いとなれば、
無軌道にしても良いということになるが違う。
そこには「義」大義、志、良心といった意味だ。
義の道に適っていなければという意味で、人間道に適うということだ。

別のところでも老子は言にたいして、
「信言不美、美言不信」
意味=真実味のある言葉はかざりっけがない。
   飾りっけのある言葉には真実味がない。

学ぶことは個人の体験を法則や事実として経験として残してくれてるから面白い。
自分の体験だけでは困難を乗り越えるのに方法が少ないが、
歴史の史実の中にはいっぱいエキスがある。

正岡子規は「病症六尺」の中で、
悟りとはいつでも死ぬ覚悟ができることと思っていたが、
どんなことがあっても生き抜くことだと断言してる。

皆さんは生きぬく覚悟できてますか?

2018年01月27日

上善如水「老子第八章」

易経に習坎(しゅうかん)「坎為水」(かんいすい)という卦がある。
易経の中の四大難卦の一つといわれる。
他は「屯」(ちゅん)「蹇」(けん)「困」(こん)があるが意味は後日書くことにする。

「習坎は、孚(まこと)あり、維れ心亨る。
 行けば尚(たっと)ばるることあり。」

意味=坎は穴または穴に落ちる、苦しみが苦しみを繰り返す。
  「孚」は誠心誠意現実に向き合う、自分の中は信念を持つ真心の意味。
  この苦しみが必ず脱する時が来ると信じる。

人間が艱難辛苦に出会ったときは、事実を100%受け入れ誠心誠意ぶつかれば、
必ず脱すると心を何時に、こつこつ水のように右に左に揺れながら動く。
勝に艱難汝を玉にする。ピンチはチャンスで焦らない。
いつか脱するという信念があれば心は折れないのである。

どう生きのびるのかといえば、信念を持ってこつこつ動くことで、
止めてはならないのだ。止ると折れる。固いと折れる。
「柳に腰折れなし」というように水のように止らないことだと教える。

止らないとは、心だけではない。
肉体を止めない事だ。
「睡眠、トイレ、食べる、のむ事」が心亨るという意味だ。

心は外的な情報を水のように受け流す、柳のように右に左に揺れる。
強くて硬くなれば折れるが、一見弱くてゆれてるものは折れないのだ。

老師は「上善如水」と言ってるのだ。
最高の善は水の働きだ。
水はこの地上の万物の成長を助け、自ら争うことはしない。
衆人が嫌う低い場所に留まってる。だから人間の道だ。

住処として大地を善として、
心の持ち方は淵のようになかなか抜け出せない苦しい境遇のところを善とし、
人の交わりとしては慈しみの心が深いところを善とし、
言葉としては真心をこめ詭弁を使わないを善とし、
政治は乱れを沈め安定した有様をつくるを善として、
行動に対してはその時ぴったり合ってるのを善とする。

原文は「上善如水。水善利万物、而不争。処衆人之処悪。
故機於道。居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不争、故無尤。」

これを書きながら私はごつごつした石の様に生き、
他人やモノを介して怒りの火を燃やし生きてきたようだ。
情熱とは程遠いと反省させられた。

皆さんは水のように生きられてますか?