社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

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2017年11月07日

私があなた

「私があなた」という矛盾したことが真実だ。
1.「私は私」という絶対的な自己を知る(自分しかない)
2.「私とあなた」というのは相対的な自己を知る。(比べる)
3.「私のあなた」という自他不二として行動する自己を知る(親とこの関係)
4.「私があなた」という絶対矛盾の自己同一を行動する(西田幾多郎の超絶対は善)天人合一

親鸞は人間は「善悪の二つ総じて持って存知せざるなり」というように、
矛盾した存在であるといっているのである。
この自覚から始め、善悪もった不完全な存在である。
聖徳太子は「我、必ず聖にあらず。彼、必ず愚かなるにあらず。ともにこれ凡夫のみ」
と十七条の憲法に記しているのである。

仏教では「善悪無記」と言う言葉もある。
善悪を持ってることを自覚はして、物事や人に善悪のレッテルを貼らない。
三毒というのは「貪欲、瞋恚、愚痴」の三つを言うが、なかでも「瞋恚」は怒りである。

怒りは自己正当化であり、正義に成りすまそうとする1番の自己に逆戻りだ。
自分の思うように行かないと正義を100%にしてしまったら、戦争にしかならないのである。

こうなると人間は最も残虐になれるのである。
神の名のもとになされたイスラムのジハードは世界各国でテロを繰り返している現実がある。

仏教は「無」「空」という思考の踊場を作って「0」に自分をする。
言い換えると車をニュートラルにするように、自分を「0」にすることだ。
どちらか一方に偏しない自分「中道」とも言うが、
現実から離れると虚無になるから気をつけねばならない。

慧能大観の言葉に「無一物無尽蔵」という言葉がある。
まさに「0」は「∞」(無限大)ということだ。

「私があなた」
皆さんはどう感じられますか?

2017年10月31日

弱い犬ほどよくほえる

若いころはどう生きるかを求めていて悩む。
自分に自信がなく、何かにすがる気持ちでいっぱいだ。
理想的な自分になりたいと願っていた。

高校二年生のときに弁論大会があり出場した。
亀井勝一郎の『愛の無常について』などを読んでいて、
無常観を理解したわけでなく、逆に理想的な愛の屁理屈を語っていた。
ただ、理想を言葉を羅列した弁論だった。

担任の先生が『君の言ってるのは言葉だけで、具体的にはできてないね』と否定的発言で、
夢見てるだけのように言われた。
言い換えると現実にできることをこつこつ積み上げることができてないと叱責された。
未熟な現実を突きつけられたのが腹立たしかった事を覚えている。

理性は疑問を持ち批判する事で獲得される性質を持ってる。
これが知りたい、これができるようになりたいという欲求は、私の持ってる命の叫びだろう。

理想論に酔っていた20代に企業独立し夢を追って生きてきた。
現実の壁に押しつぶされそうになって歩いてきた自分がここにいる。
しかし夢志を高く持ちたい自分もここにいる。
「弱い犬ほどよくほえる」といつも理想を語り自分を励ました。
あまりにも現実的で理想を語らない人は好きになれない自分がいた。

孔子のように理想的な人格を目指して苦しんで生きてきた。
老子、荘子の『無為自然』だの『無用の用』はあまりにも当たり前すぎ好まなかった。
弱い犬から強い犬になるにはもっと懐が深くなければならない。

荘子の天道篇に「我は牛と呼べば而(すなわち)これを牛と謂えり、
我を馬と呼べば而(すなわち)これを馬と謂えり」

意味=もし相手からお前は牛のようだ。あるいは馬のようだといわれたら、
「ああそうですか」と聞き流すとよい。
荘子の逍遥遊篇に「至人は己になし、神人は功なし、聖人は名なし」

意味=道の領域に至った人(至人)はあるがまま受け入れてこだわらない。
神と呼ばれるほど立派な人は(神人)は功績など誇りもしない。
また聖人は名誉などに関心がない。

この荘子を読んで私は自分というものにこだわる弱い犬である事に気づかされた。
これでは懐が狭すぎる。
やっと自由自在に向かって、自己肯定、他者肯定、現実肯定で事実を受け入れ、
自在な行動ができるようになる本番の時が来たようだ。
これからの自分が楽しみだ。

皆さんは自分の殻を破ってられますか?

2017年10月26日

元服(立志式)に思う

江戸時代の武家には論語の為政第二に、
「吾十有五にして学を志し、三十にして立ち、
四十にして惑わず、五十にして天命を知り・・・・・・」とある。

私の中学時代の友人が十五才になったその日から、
食事が膳の上に乗って出され、
呼び名まで「様」付けでお母さんが言ってるのを聞いてびっくりした思い出がある。

岡山の下級武士の出らしかったが、
今から思うに元服(立志式)だったに違いない。

その友人が大人じみたことを言っていたのを今も鮮明に覚えてる。
「母を喜ばすために、わざとできないふりをする」

『大事なことは考えない事だ。休む事がより集中力が高まる』
当時の私は、お母さんに気を使って自分を素直に出さない「うそつき」だと思った。
休んでいたら他人との競争に勝てないと思い込んでいたのは私だが、
友人は自分の能力を最大に引き出す方法を考えていたらしい。
今考えると「心」が大人で「思いやり」の表現だし、自分にも厳しかったのだと察する。

成績はオール5であった。(5段階評価で)

橋下佐内はこの元服のときに五つの誓いを立てている。
1.稚心を去る
2.気を振るう(気配りする)
3.志を立つ
4.学に励む
5.交友を択ぶ

私の家庭では元服というものはない。
ただ教えられたことは「素直」に何でも100%母に話すことでした。
だから知らない事を恥と思ったことはない。

社会人になって叱られたことがある。
「君のように何でもかんでも解らないからと言って人に聴くのを『素直』というのでない。
一度自分で調べてから聞くのが礼儀であり、知らない事を恥じないのは恥ずかしい行為だ。」というのである。

よく考えると素直すぎるのは無意識に「他人」を傷つけてることがある。
言っていいことは相手を喜ばすこと、事実を言い嘘をつかないこと。
言わなくてもいいことは相手に不快な思いさせない事であり哀しませないこと。

当時は自分の不安や孤独感から逃れるために素直に自分のこと話していた気がする。
マズローの6段階欲求からすると3段階の仲間がほしい、
社会的に孤独が嫌いだという子供の欲求だ。

友人はお母さんを別人格と見て4段階の承認欲求、
社会人として自己が確立され他者から認められたい、
尊敬されたいという態度ができていたのだ。

さらに高次元になると、5段階は自己実現の欲求となるが、
これは自分の能力を引き出し創造的活動がしたいということだ。
言い換えると何事も楽しく創造し自分の長所が発揮されてる状態だ。

マズロー(1908から1970年)は晩年、6段階の欲求として「自己超越」といって、
「目的遂行・達成『だけ』を純粋に求める」という領域、見返りを求めずエゴもなく、
自我を忘れて目的のみに没頭し使命に燃え社会貢献に燃える姿を描いた。

これこそ仏教的な『無我』『無私』の境地だ。
友人はこんな分析はしないが、
マズローのように階段を登るように大人の行動をしていたような気がする。

人間は『創造』と『選択』の中で生きてる。
言い換えると『新しいものを生み出す行為』と『現実を右か左か決断する行為』
無から有を生む創造行動と有を無にする決断行動のなかで、
一瞬一瞬呼吸のように全力で生きてる。

創造するときは無私で行動し、
選択するときは他者のため何を捨てるか決断する。
この中にその人のドラマが描かれてる。
人間は実に面白い、『人間万歳』

皆さんは自分を律する誓約を具体的にいくつか持っていますか?

2017年10月18日

東洋的な見方

鈴木大拙さんが90歳前後に書かれた本だ。
仏教を守る運動を展開された禅の学者であり、
島地黙雷、浄土真宗の清沢満志さんと共に活動された。

明治になって廃仏毀釈により日本は神道になった。
海外の圧倒的な物質文明に驚き、封建時代を否定し、
新しく西洋の科学や資本主義制度並びに哲理を学ぶようになった。

日本には538年に仏教が伝来し、外来文化を取り入れ発展させたい蘇我氏が物部氏に勝利して仏教国として歩み始めた。

593年聖徳太子が摂政と成り仏教国となるのである。
奈良の南都六宗に始まり、遣唐使を盛んに送り中国の仏教を学ぶ。
天台宗の最澄、真言密教の空海始め宗の時代(中国)にも道元などが学びに行くのである。

鎌倉時代は新仏教として日蓮や法然、親鸞は一般大衆を救済し、
臨済宗、曹洞宗などは武士の精神バックボーンとして花開いた。

その日本の仏教が明治になって全くだめになってしまったのである。
当時は山岳宗教の修験道の山伏が十万人いたといわれているがみんな失業したのである。

鈴木大拙は江戸時代の臨済宗の中興の祖としての白隠禅師にもスポットを当て、
禅の闊達な自由で自在さを世界に発信し、戦後の日本人にも「絶対矛盾の自己同一」
のモノの見方を説いたのである。

西洋はどうしても相対な見方をし必ず対峙するものが前提の見方だ。
(現在のアメリカの対応を見れば北朝鮮やイランを悪の国としている対峙し自由を旗印にする)
東洋はそうではなく矛盾するが一つ(一如)と見方、「自他不二」と自分と他人を分けない。
これを無分別知というのである。

「心自体」は「物自体」と大拙さんが表現されてるように、
心とモノが不二である.その間に概念はない。「空即是色」だ。
逆にモノそのものは心だ。「色即是空」である。

現実を絶対肯定する。
善だ悪だ、地獄だ極楽だと分けないのである。
地獄に没入すれば極楽が現れ、極楽に没入して入り込んだら地獄となる。

人間は地獄が必定と罪悪深重の存在だと言い切る。
この自覚にたって善悪を超克するのが無分別知だ。

赤子の純粋な無分別は自我に対する純粋さであるが、
大人の純粋な無分別は自分も純粋だが他人に対しても純粋であるというのだ。

「朕兆未だ分かれざる以前に暁会(ぎょうえ)し、思量意路未だ動かざる以前に識取す」
「父母未生以前の本来の面目」
このような表現をするのである。

己一人、自由自在の主観から相対的な客観を超えて超絶対的な自己へ飛躍する。
(浄土真宗では横超と言う)。
「柳は緑 花は紅」という眼前の事実はもはや主観も客観も超えた絶対的自己、
大人の自由で自在を体得するのである。
西洋にはない、この東洋的な見方を今の日本人が体得すべきと力説する。

90歳の先生の迫力に満ちた文章に出会い、
吉田松陰の「至誠通天」という文字を思い浮かんだ。

皆さんはこの東洋的な見方どこかで聞かれたことあるでしょうか?

2017年10月12日

自由で極楽に生きる

「阿弥陀さまよ、どうぞ自分の煩悩を皆取ってくださるな、
これがないとあなたのありがたさがわかりません」
これは真宗の妙好人の人の言葉だ。

人間は不自由の中にいてこそ、自由、自立の働きができる。
もし何でも叶ったら自由、自立もなくなってしまうということだ。

妙好人の浅原才一は、地獄、極楽について以下のように語る。
「このしゃば(娑婆)せかいから、ごこらく(極楽)に
生まれるはやみち(早道)は、ほかにない。
やっぱり、この娑婆世界なり。
娑婆の世界も、なむあみだぶつ
極楽の世界も、なむあみだぶつ
ありがたいな、ありがたいな
さいいちが、このめがさゑ

なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。
わしゃしあわせ、思うてもみよ(思うて見よ)
なむあみだぶつしてもらい、
浮世から、なむあみだぶつで、浄土たのしむ、

なむあみだぶつ、むかいとられて、
なむあみだぶつにつれていなれる。」

どう感じますか、皆さんは

なむあみだぶつと才一は同一であり一如である事だ。
あみだぶつ「と」才一でなく、あみだぶつ「の」才一だ。

あるとき才一にあなたが木片に書いたものを本にしましょうといってきた。
才一は「私は将来罪を犯すかもしれない、君それでも出すか」と言って断ったそうだ。
実に素晴らしい。

不完全な人間、不自由な人間、善悪に惑う人間の心のそこからの自覚がある。
ただの人の自覚。
だから、他の自由を尊重し、他の不自由を共感する事ができる。
それは才一と阿弥陀さんが同一体だからだ。
才一は現実の中で極楽に生きかされているのだ。

江戸時代の至道無難禅師の言葉に、
「生きながら死人となりて成り果てて、おもいのままにするわざぞよき」

皆さんの自由、極楽は「今ここ」にありますか?