社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

2011年12月10日

世間について

外国から日本を見れば、日本人は無宗教だと評されるし、
日本人も自分で無宗教だと思ってる人が多い。

なぜならば、正月は神社に参り、結婚式はキリスト教会で式をして、
亡くなったらお坊様に弔ってもらうことがごく日常生活では自然だからだ。
洋の東西を問わず神も仏もご先祖もすべてを受け入れ矛盾をきたさないからだ。

だけどホントに無宗教かというと二つのタイプに分類される。
1)科学主義者で無宗教者
これは理性至上主義者で何でも実験して証明した法則を神のように思い込み不可思議なことは否定するか、
排除して取り合わない合理一辺倒
2)世間が宗教だという無神論者
日常生活の中に組み込まれていて無意識に叩き込まれた身体の感覚で、
朝は神棚、仏壇を拝み一日が始まる。

日本は歴史上の弥生時代からは農耕民であり自然を崇拝して八百万の神々を祀ってきた。
仏教は543年に中国から入ってきたが、それもうまく取り入れるのである。

神道では御祓いという儀式をする。
意味するところは穢れ→禊〔みそぎ〕→御祓いである。
穢れ=気枯れるであり、それを水、酒、塩で清め〔みそぎ〕お祓いする。
罪=包む身を意味し、この二つが『我欲』を強くし、
お祓いは『我欲』を払い『気』を充実させる儀式である。

仏教でも同じことで『我欲』を浄化させ『涅槃』になり仏性となることが目的だ。
仏教では修行によって、生きているあいだに涅槃になるのを有余涅槃といい、
肉体も何もかなくなる死は無余涅槃というのである。

伊沢元彦さんは「逆説の日本史」で日本人の宗教観を無意識だが四つあると指摘される。
1)和の宗教
2)穢れ(ケガレ)の宗教
3)怨念の宗教
4)言霊の宗教

これがミックスされて日常の習慣となり、
世間という村社会の目に見えない暗黙の掟として歴史が宗教観を熟成してきたそうだ。
西洋のように自分の意見をしっかり持って、責任を持つ自律的個人の宗教観でなく、
自然を敬い、お陰である世間を第一義と考える他律的な個人の宗教観だからこそ、
無宗教といわざるを得ないのだろう。だから、どんな人も死んだら神仏になると考える宗教観だ。

先日、養老孟司先生の話を聞いた時、日本にはこの『世間』があって、
他人にお世話になった恩や義理を大事に思い、
「お返し」としてモノ「お礼奉公」といって行動で恩に報いる習慣がある。
世界では日本とユダヤ人だけだそうだ。
先ほども書いたように日本では死んぬと神仏だから生きてるあいだで返すのだが、
ユダヤの人は死んでもなお思い続けるのだそうだ。恩も憎しみもかもしれない。

世界中が社会より個人が大事と自由と民主の方向にむかうが、
ギリシャのように公務員が25%で国が破産する現状があるのも事実だ。
人類は奴隷制社会から封建制社会、
その後資本主義社会としてモノが豊かで個々人が主役の民主主義で自由な社会を求めてきた。
しかし、モノの豊かさは物を作る機械や資本が主役で人間が脇役になり、
民主主義を維持、発展させるには国の借金との戦いになると予言する人もいる。

今こそ「世間」が抑止力の島国日本の無宗教のよさを再認識するチャンスではないだろうか?

皆さんは如何考えられますか?

2011年12月07日

人が人間になる。

オランウータンは約900万年前に存在し、人間は約700万年前だ。
この時代の人間はまだまだ現代人のような知能を発揮していなかった。

食べるて生きるために、狩をしたり農耕を始めたりするようになるのは7000年前ぐらいが歴史上に現われる。
ここ300年前のイギリスに端を発した産業革命による工業化は働き方そのものを肉体から開放し、知能を使う働きへ変えていくのである。

情報化社会は加速度的に人間を知能労働へと推し進めていくのが現代だ。
日本の死亡原因のガン、脳卒中、心臓疾患に加え、精神障害を重きを置くようになってきてる。
知能もそうだが自分でまとまって世界がつかめないぐらい複雑化してきてるからだ。
シンプルに物事が理解できた時代でなく、科学技術の進歩が早く理解が及ばないのも原因のひとつだ。

人は自動的に人間になるのではなく、自分で磨かなければなりません。
森信三先生は人間になる三大原則を、1)素質〔素直〕2)師の教え3)逆境が必要で、
丹田常充実=腹が据わる、人物になる。

その中でも師を持つことは大事と道元の言葉の、
『霧の中を行けば、覚えざるにころもしめる。
 よき人に知かづけば、覚えざるによき人となる』とおっしゃってる。
具体的には人生の辛苦艱難、喜怒哀楽、利害得失、栄枯盛衰を、
事実の生活として勇敢に行きぬく中に人間となるそうだ。

それには二つの条件がいる。
ひとつは『尽己』自分を出し切る。出し惜しみしない。
もうひとつは『志気』『志操』を明確にもつことだそうだ。

現代はこの自分の命の燃やす目標をつかめなく複雑になり決めれない時代だ。
しかし逆に明確に「坂の上の雲」を見つめた時代の人たちが日本にいたことも確かだ。
他国の人たちは日本人の強さの秘密を新渡戸稲造の『武士道』に見て学んだという。
今日本が日本の良さを見つめなおす時代がきてるように感じるのは私だけだろうか?
経済的や政治的なことでなく人物を造る基本の学びの時代ではないだろうか?

人が人間になるには、ところてんを押し出すように自動的にはいかない。
コツコツやるしかなさそうだ。
今こそ人物を作る頂上のない山登りを登り続ける努力がいる。

みなさんは如何考えられますか?

2011年12月05日

使命に生きる

事業にはミッション=使命がいる。
この使命をまっとうするために戦略があり、
戦略に従う組織が必要になってくるのだ。

さて、「上司が部下に命を下す」部下はそれに従って動く、
軍隊はこの規律が厳しいとともに上官は部下の「命」を一番大切にに考えた作戦を立てる。

松下幸之助著「道をひらく」より
『自分がこうしたいと思うことを人に命じて、その命のまま自在に人が動くということは、
ことを運ぶうえにおいて、極めて大事なことであるけれど、命になれて、
いつの間にか命が無ければ人が動かないということになっては、これはたいへん。
こんな硬直した姿では進歩も発展も生まれないだろう。

たとえ命令がなくとも、以心伝心、命ずる人の意を汲んで、それぞれの人が適時的確に、
進んでことを運んでゆく--こういう柔軟な姿の中にこそ、限りない発展性が生まれてくる。』

働くということは一人一人がこの使命を共有し、個々人が個性を発揮することだ。
使命が一番で、個人が二番でなければならない。〔日本的文化の考え〕
歴史的には自然があって人間が社会を形成し、
社会があって個人が形成されてきたのと同じことだ。

すべては生成発展を軸に動き、変化してるのである。
いい換えると「働くこと」によって幸福も手に入り人生も豊かになるのである。

自分の命をどう使い世の中や他人に役に立つことができ、
自分には役立つ技術やサービスを磨き上げる努力が必要だ。

西郷隆盛は『私意』でなく『天意』に従って生きることこそ肝要と心得た。
『敬天愛人』という言葉は南州遺訓二十四条

『道は天地自然の物にして、人これを行うものなれば、天を敬するを目的とす。
 天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を持って人を愛するなり』

意味=道というのは、この天地おのずからなるものであり、
   人はこれにのっとって行うべきものであるから、
   何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。
   天は他人も自分も平等に愛したもうから、
   自分を愛する心もって人を愛することが肝要である。

南州遺訓二十五条
『人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、
 己を尽くし人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねべし』

意味はお解かりでしょう。
私も自分の誠のたらなさを反省すべしだと痛感する。

みなさんは使命に生きること誠の足らないこと考えられてますか?

2011年12月03日

ぎっくり腰に向き合う姿勢

四日ほど前にぎっくり腰になり腰が真っ直ぐ伸ばせなくなり、
息をすると腰に響くようになった。

12月は予定が一杯つまっているので、
どうにか早く治したいと定期的に通ってる針灸医に出かけた。

ところが一回では治らない。
安静にして身体を休めて二、三日してきてくださいというのだ。
あがいても仕方ないので、安静にすることにした。

道元禅師の「四運一景に競う」という言葉を思い出した。
四運=季節で言うと春夏秋冬、人生で言うと生老病死
要するに人生は移り変わるのが当たり前ということだ。

成功する日もあれば失敗する日もある。
暖かい日もあれば寒風吹きすさぶ日もある。
じっとしておかなければならない日もあるということだ。

われわれ凡人は一喜一憂して、ぎっくり腰の痛さにとらわれ、
原因を探求したり、早く治そうと駆けずり回ったりする。

しかし、一景=同じ姿勢という意味。
生も死も健康も病気も成功も失敗も、
すべて同じ姿勢で受け止めよということだ。

どんなことが起っても、それはそれで過去の時間も未来の時間も切って捨て、
そこが出発と思い、じたばたしないことが一景だ。
いろいろハプニングがあったほうが面白いし豊かな人生だと考えることである。

理屈はわかるが、この年末の忙しい時期に約束を断ったり、
自分の仕事をカットしたりと調整してる今日この頃だ。〔他の人にやってもらう迷惑がかかる〕
なかなか「四運一景に競う」と喜怒哀楽を楽しめる心境になれない師走を迎えた。

みなさんは身体のトラブル楽しんでますか?

2011年11月26日

自分のために

立川談志さんが亡くなったが、天才的な名人だったそうだ。
毒舌が過ぎるので好んでは聞かなかったが新聞やテレビでは評価が高い。

落語といえば本題に入る前に時事などの枕の話がある。
船場の落語会に行ったとき、笑点のレギュラーの大平さんが出場していた。
落語の枕に年老いた夫婦の話があった。

ご近所の老夫婦だが、とっても仲がよく暮らして居られたので秘訣を聞いてみた。
秘訣は毎日おばあさんが朝食を食べる時に必ず
『今日も朝が向かえられ幸せなのはおじいさんのお陰です。
 ありがとうございます』という。
するとおじいさんはご機嫌が良くなり笑顔になる。

大平さんが「おじいさんに感謝の心を忘れないように毎日言われてるんですね」というと、
おばあさんは「違います、自分のためです。
おじいさんのぶっきら棒の顔を一日見るのが嫌だから笑顔になってもらうようにして、
自分が気分良く一日を過ごしたいからです。」と答えられた。

落語はお客さんを笑わせるのが上手いのが噺家だが、
この瞬間大変まじめな話に会場は「しーん」となり、
空気が凍ったようになった。

どうするんだろうと思ったら「女の人は腹にもないことが言えるですね」と落ちをつけたが、
もうひとつ笑いがこなかった。

江戸の落語と上方の落語はどうも笑いのツボが違うように感じた。
たぶんこれを逆に言ってると上方では受けたように思う。

ルソーは「男は知ってることを話し、女は楽しいことを話す」といってる。
客席は七割が女性だったので、女性が意地悪い性質と受け取られたようだ。

笑いはコミュニケーションの遊び、
話芸を磨いて楽しい会話が出来るよう、自分のために落語を聞こうと思った。

みなさんは落語聴かれますか?