社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

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2018年03月06日

グローバル化は志縁の時代

人類が狩猟採取の時代から農耕の時代を経て、
産業革命が起こり機械化の時代となってきた。
現代はモノを作る機械化でなく、人間と同じ仕事のできるAI(人工頭脳)化、
にIoT(モノのインターネット化)へ電化製品がどんどん情報を処理するようになってきている。

社会は血縁で固めた時代から、地縁を大事にした時代をへて発展し、
日本では戦後急激な発展を遂げたのは、終身雇用制と年功序列賃金による構造があった。、
それが、会社の縁、社縁を大事にし一丸となって働き、家族のように社風ができ、
大家族経営がなされてきた。

私はこれをさらに細分化した京セラのアミーバー経営が良いと考えてる。
その経営方針によって、世界を驚かす生産力を身につけ、
ごく最近まではGDPが世界第2位となり、(今は中国が第2位)、
製品の品質も「メイドインジャパン」は世界に愛された。
ところが、アメリカのシリコンバレーで生まれたIT技術によって、
具体的で簡単な操作のできる「Windows95」が、1995年に販売、普及しだして、
世界に劇的な変化が起きたのである。

さらに進んだスマホの登場は、個人間の信用関係が世界の仲間と
一瞬にできるように変貌した。
パソコンの前に坐るだけで世界のどの国へでもいけることが実現されたのである。
しかし、これは既存に築き上げてきたリアルな人間関係(サプライチェーンも)が
崩壊していく過程でもある。

インスタ、FBといったSNSが普及し、商品の購買の方法も変化し、
メーカー、卸、小売といった、縦社会のヒエラルキーがメーカー即消費者へと変化してる。

町内会やムラ共同体の情報交換が壊れ、会社を信用して買っていた商品を、
自分で情報を集め、判断できる位に情報があふれている時代になった。
メルカリは個人間の信用の市場だが不正や約束を守らないで支払いしない人もいる。
そうなれば、情報を調べ、実際にリアルな実体があるか確認する必要がある。

さて、社会では分業して生産性をあげれるし、機械を開発すれば、
もっと早く生産できることは間違いない。
これはモノとしての側面である。効率を求める合理性の世界だ。
生産性をあげて生活を確保するのも働く事だが、
社会が血縁の関係を重点におく時代でもなく、地縁の関係でもない。

会社の社縁という絆も崩壊しつつあるのが現状だ。
会社の行事の飲み会も若者にとっては参加したくないというような流れがある。
では、社縁が物理的な繋がりから、一歩踏み込んで質の議論をすると、
やはり社会に貢献し、喜ばれ「有難う」を言ってもらう利他行(お役立ち)といった、
志を共有する集団、言い換えると「志縁」へと飛躍する時期が来てる。
宗教のような教義を重んじるというものでなく、
公共の利益を共有すること、利他行という志を共有する事だ。

私たちは「石材」を扱っているので、
石材を使っていただき喜びを味わう商品サービス、
技術提供をするという「志」を共有するという事で買っていただく人、
世間(社会)も繁栄する。勿論業界も、さらに自然とも共生できるような工夫をする。

そんな使命、志を持った集団として仕事の具体定とともに、仕事の品格を深め磨くのが
「志縁」だ。
仕事を通じて人間も磨け、生活も安定し、物心両面が幸福になることが実現される。
単に利益を設ける集団では半分は正解だろうがすべてではない。

二宮尊徳流に言うと、
「自利のない利他は偽善者 利他のない自利は独裁者」
三方良しの「志縁」がこれからのグローバル化の時代の社会集団のあり方だと感じる。

皆さんはいかが考えますか?

2018年02月22日

呼吸の間なり

このタイトルは禅語にある。
呼吸は内にある空気を吐き出す方向と、
全く逆の外から空気を吸って酸素を取り込む事で成り立つ。
これを「矛盾」と受け取るのがありのままであろう。

言い換えると善悪、正邪、損得、好き嫌いと、
真逆のものが渾然としている状態(頭で相対化してるに過ぎない)が健全と考えるべきだ。
人間が勝手に二つに分けてるに過ぎない、事実は一つだ。

理性、感性と別物のようにしてるが呼吸のようにひとつのものだ。
呼吸と同じで方向が逆だから性質は違う。
理性は合理を好み排除の性質がある。
感性は情を好み融合の性質がある。

ラッセルは幸福論で情熱が大事で、愛情が必須条件だというが、
幸福な状態には四つの条件の枠がいるという。
1.健康
2.人並みの能力
3.必需品がかえるだけの収入
4.妻子への義務といった社会的義務

特に親子の愛情についてラッセルは調和(中庸)が理想的だと言ってる。(仏教では中道)
「子供に対する気遣いも、一定の限度を越えれば、所有欲のカムフラージュになる」

すべてにおいて「呼吸の間」を心得た生活態度がいるとラッセルも言ってる。
だが、これを習慣にするには自分の行動をくせづける努力がいる。

先日ある学習会で50代のご婦人が言っておられた言葉が気になるので紹介する。
「子供に弁当を作って、残してきたら、体の具合が悪いのか気になるが、
夫が食事を用意して残したら、感謝が足らない人だと腹が立つんですよ。」

もう一つは、娘が自家用車をこすって傷つけて、主人に電話したら、
「身体に怪我はなかったのか、車は修理すれば良いよ」と即答されたとき、
家の財政を預かってる娘は「修理代かかるから、明日から節約しないと」といった。

どちらも解らないでない!
目の前の人が先か?
自分の立場が先か?
考えさせられた。

ラッセルは努力は必要だがあきらめも必要だと言ってる。
諦めには二つあって、
1.「絶望」に根ざす諦め
2.「不屈の希望」根ざす諦め
勿論、後者の諦めがよいのである。

締めくくりに不幸はある種の分裂、統合の欠如が起因するので、
意識、無意識の調整や自我と社会が客観的な愛情によって統合されている人が幸福な人と言ってる。

彼は97歳で世を去るが、晩年は核廃絶を訴え、平和活動をする。
でもドーラ、パトリシア、エディスと三回も結婚を繰り返しているのも事実だ。
呼吸が合わなくなったのかな!

皆さんの幸福論はいかがなものでしょうか?

2018年02月21日

恕とは自分を思いやる心

孔子が子貢に問われて答えたのが「恕」である。
「子貢問うて曰く、一言にして以って終身これを行うべき者ありや。
子曰く、其れ恕か。己の欲せざる所、人に施す勿れ。」

意味=一言で生涯行うべきはなんですか?
それは思いやりだ。自分がされたら嫌な事は人にしない。

孔子が言いたかったのは思いやりとはお年寄りや子供、
弱者という他人にすることではない。
ましてや、自分を甘やかす事でもありません。
「恕」とは自分を励まし、自分を磨く事なんですね。

憲問十四に、
「子路、君子に問う。子曰く、己を修めて以って敬す。
曰く、斯くの如きのみか。曰く己を修めて以って人を安んず。
曰く、斯くの如きのみか。曰く、己を修めて以って百姓を安んず。
己を修めてもって百姓を安んずるは、暁・舜も其れ猶お諸れを病めり」

意味=子路が君子とはと問うた。
自分の修養に励む独立自尊の人だ。(自分に思いやる)
自分のためだけの人物ですか?
自分を励まし磨く事で周りの人を安らかにする人だ。
周りのためだけの人物ですか?
自分を励まし磨く事で万民を安らかにする人だ。
  これは聖王とたたえられた暁様や舜様たちでさえ苦労された点だよ!

己と言っても、単に自己中というのでなく、金銭中心、権力中心、暴力中心、色欲中心とは意味が違う。

己としっかり向き合い、自らを形成する自己中というより自己愛だ。(西洋のナルシズムとは違う。)

仏教では「自利利他」というように、
まず自分を自ら励まし磨く事が、
結果利他行ができるとさとしているのである

自分を離れてどこに主体性があるというのであろう。
しっかりと地に足つけていない自分はすべて傍観者の主体である。

「柳は緑花は紅」と現実がそこにある。
「大学」には「修身斉家治国平天下」こそが政治の要諦と記されている。
一番に己を励まし磨き、家を修め、国を修めれば天下は平和になる。

人間には夢・志がいる。
行動することが生きることだ。
想像力は「夢・志を作る力」(イメージ)
創造力は「夢・志を実現する力」(どうするかの智慧・方法)

皆さんは自分を思いやっていますか?

2018年02月11日

こんなはずではなかった

創業間もないころ、体も疲れていたんだろう。
山の上の霊園で重たい石を担いで施工していた。
技術もなく、ただ石の重さだけが体にこたえた。
「こんなはずではなかった」と口からでてしまった。

石屋さんの玄関にはいったに過ぎないのに、
戸をしめて隣の玄関へ行きたくなった。
現実の厳しさに立ち向かえない自分がでてきた。
石を担げるぐらいの筋肉もついてない、仕事のコツも解らない段階だ。

誰しも新しいことをはじめるときは知識もないし、自信もないのが当然だ。
時間が解決してくれるとは頭で解っているが、自分から学ぼうとしない、
いや、学び方が解らないと投げてしまう。
具体的にすべてが課題で方法が思いつかない。
ただ、説明書も読まないで我武者羅に体当りして無駄な事ばかりに時間がとられてる。

そこで決めた事が二つある。
1.恥をしのんで業界の先輩に聞くこと。
2.10年は同僚と逢わないこと。
腹は決まった、ここからは根拠のない張ったりでたいあたりしかなかった。

もう一つはお客さんに喜んでもらうことだと思った。
その時思いついたのは、
「安く」「早く」「どんな要望もできないといわない」
でも、これでは長く続かない事に気づいた。

10年かけて技術者の養成をしながら、本物の石屋になることを目指してきた。
今ではいっぱい技術者が養成でき、未来に向け若手も挑戦している。

「どっぷり石屋になる」と決めたときから迷いがなくなり、
お客さんに役立つ商品やサービスを生み出そうと発想が未来を向くようになり、
具体的課題が見えてきた。

「あーしたい、こうしたい」(我にこだわる自分)から、
「これできる、あれできない」(無心の自分に気付く)と考えるようになった。

何にもできなかった若いときは「自分を守ろうとする」
でも、「自分を守ると、自分は弱くなる」(鍵山秀三郎さんの言葉)

無心になって石屋をやると石屋さんの常識や周りの石屋さんが気にならなくなり、
ほんとの意味で切磋琢磨できる。

上から自分を見てると「自分がかわいそう、こんなはずじゃない」
でも現実の下から見てると「うれしい、楽しい、ありがたい」という感謝が湧き上がる。

宮沢賢治は30代で肺の病気になり喀血しても詩を作っている。
彼は「あなた方から見たらずいぶん惨憺たる景色でしょうが、
わたしから見えるのは、やっぱりきれいな青空と透き通った風ばかりです。」

どん底(現実)を上から見てる景色と、下に落ちて見る景色はちがうものなんですね。

皆さんは「こんなはずではなかった」と思ったことありますか?

2018年02月09日

今こそ古来の宗教や、道徳を学ぶ意義がある

二宮尊徳の言葉に、
「道徳なき経済は罪悪 経済なき道徳はたわごと」
この言葉がしっかり自分の人生を生きるための信念を作るのに、非常に腑に落ちるし
納得する。

人間は眼に見える「身体」と眼に見えない「精神」からできている。
このどちらを優先すべきか議論することは無駄と思う。

1960年代に始まった全学連の運動は、
マルクスの「唯物弁証法」と「史的唯物史観」が正しい歴史的な哲学だと信じきっていた
時代だ。

政治的には資本主義を肯定し格差社会をつくるのが右翼で、
逆に共産主義が理想と考え議論が白熱し、社会党の浅沼委員長が殺され、
70年代には頻繁にデモが繰り返され、
われわれ学生は、弱いもの貧しい者の味方、労働者の味方こそが正義と信じ込んでいた。

「唯心論」は観念論として具体的に実現しないし証明もされないので、
特に宗教は排除され、科学至上主義が横行した。

戦後の復興は科学技術の進化により、経済的な生産性も上がり、
世界の市場に進出し、日本は経済大国になってきたのは間違いない事実だ。

目に見える豊かさを追いかけるあまりに、無くしてきたものも多い。それは環境破壊だ。
街がスモッグで覆われ、水俣病という公害を巻き起こしたのだ。
当然、反省されその後、省エネ機器の開発あるいは河川の汚染なども改善されていった。

もう一つは道徳観念の破壊だ。決して聖人君子になれというわけではなく、向う三軒両隣の助け合いをする世間が壊れていって、個人が前面にでてくる道徳観になった。

個人主義は結構だが、社会人としてはすべてが自己責任である事が条件だが、国家は国民のものである民主主義では、国家は国民を誰でも平等に救い助ける責務があるとする権利偏重社会へと変貌していった。

「先義後利」という理念を大切にした儒教的な道徳観があった日本は、戦前の全体主義を再現させると否定され義務をしつけるのでなく、押し付け強要と解された。実に悲しい。

科学技術は人類にとってよいと肯定するなら、古来の宗教や道徳観念を学ぶ機会を社会が提供するべきであるが、個人的観念だから個人が自主的にすることになった。

仏教では「物心一如」という言葉があるように、科学技術の平和利用と同時に、人間の持っている利他的な心の養生が同時になされてこそ、現代の情報化社会に生きる人間の必要十分条件ではないだろうか!
ますます人間の中味と意味が問われる時代であることは間違いない。

社会全体がその学習機会を提供し、また各家でもその文化を伝承する事が求められる。
日本が世界から賞賛される「おもてなし」の心も、先人たちが時間をかけ歴史が養い育ててきたものだ。
科学と技術それに宗教・道徳を学ぶハイブリッドな人財育成が現代を生きる姿だ。

皆さんは科学技術と精神の学びいかがなさっていますか?