社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

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2017年10月11日

やり遂げる自分を信じる

大変うれしいのは新人を含めたに三年生の社員が「社長塾」をやってくださいと言ってきました。上司から間接的に聞くのでなく、私と直接話したいというのが趣旨だ。

課題はメンバーが考えて私に言ってくる。
それに沿って、体験を交えながら大阪石材の歴史を語ったりしながら話すことにした。

最初は講義形式だったが、二年生の担当者が店長クラスのリーダーも入ってほしいということになり毎回二人出席する。
意味は社長、リーダーが基本的にベクトルを共有し新人にも理解が深まる事だ。

そして、講義形式からリーダーにも話をしてもらい、各人が感想を述べる。
私はそれにコメントするぐらいのかかわりだが、
実に面白いし、新人同士もリーダーも互いを深く理解し合える結果を得た。

さて、一番最初の課題は「自信はどうしたらできるか」である。
その時どんな説明したか覚えていないが、
失敗を恐れず体験を多く積むという普通のことを言ったように思う。

今回は詳しく「自信を持つ」ポイントを書く
1.仕事に取り組んだら「最後までやり遂げる」「結果を受け入れる」
これは本物の自信だ。
というのも、100%完璧にできることが正しいと思っている人がいる。

物事を〇✕で判断すると、✕がでると自分に失望し自信を喪失する。
やる気が出なくなる。自分で自滅してしまうのである。
物事は結果がどうであれこつこつやり続ける。三日坊主ではダメだ。
自分に勝つ弱音をはかない弱みは見せてもである。

2.仕事には必ず具体的な目標がある。数値化されてるし現実的でないと実現しない。
もちろんその先には大きな目的がある。
「世のため人のため自分のため」という三方良しの矛盾を解決する行動だ。

ここで考えねばならないのは人間の不完全性だ。
人間は元来不完全にできてる。だから失敗もするし、間違いも犯す。
このできる自分とできない自分の両方を素直に認め受け入れる事だ。
「人事を尽くして天命を待つ」山本玄峰老師は「天命に従う」と言っておられる。

この二つをまとめると「自信」とは失敗する事も含めて最後までやり遂げる事。
「成功することを信じる」のでなく「やり遂げる自分を信じる」ことだ。

皆さんは自分の完璧な結果にこだわりますか、やり遂げる自分を信じますか?

2017年10月09日

できない自分を受け入れる

毎年新卒が入社するが、三日三月三年といって、
社会の壁にぶつかり、他に自分に合った仕事があると考える。
何か壁にぶつかり退社する。

異口同音に言うのが、「私がこんなにできない自分だと思わなかった」だ。
私も入社して6ヶ月で退社したので解らないでもない。

なぜ壁にぶつかるかというと、「できる自分」という自己肯定観があるからだ。
現実の自分の能力が会社で何番ぐらいにいるのか解らないのが原因だ。
私も同僚に勝とうとして実力以上の行動してしまい、後が続かなくなって辞めたのだ。

これも自分の能力がわかっていなかったのだ。
でも会社を辞める時は親に、「この会社は人を観る眼がない」と、
会社が悪いと決め付けて話していた。

その後の再就職には大変苦労したのを思い出す。

人間は「器量」と「度量」がある。
「器量」とは具体的な実務能力だ。才覚ということだが、
会社の中で何番ぐらい、業界のトップがどんな人とか、
社会全体の平均という相対的に自分の位置を知ることも重要だ。

言い換えると「できる自分とできない自分」を受け入れる覚悟がいる。

理想的な自分だけを基準にしたら、見栄を張って疲れて倒れる。
とはいえ、慇懃無礼に下手に出て実力以下の行動をすれば、
人を騙したようになり信用してもらえない。

今の実力を普通にありのままに行動し、見栄を張らずに事実を正直に!
ここが非常に大事だ。

「度量」とは富士山に登るのに山梨からでも、静岡からでもいろんな登り方があるように、
自分の価値だけが正しいと独善的にならず、
いろんな価値を受け入れることを言う。(気持ちが大きく余裕のある心)

こう書いていると勝海舟の言葉を思い出した。
「行蔵は我に存す、毀誉(きよ)は他人の主張、我に与(あず)からず我に関せずに存候」
意味=行動は私の責任である。どのように人が言おうが他人の主張です。私には関係がないですね。

これは福沢諭吉が明治政府になり政府高官の勝海舟と榎本武揚に質問状を出した答えだ。
海舟は「これだけやったのに何が起きても仕方ないよ」ということだ。
自分を信じて迷いや悩みのない心の余裕としか言いようがない返答だ。
このような器量と度量の人物が歴史上にいたことが誇らしく思う。

私は自己責任100%と考え過ぎ、自責の念を起こす狭量家である。

最近の世間の話題は安部首相が衆議院を解散し、
「希望の党」が保守の革新として新しく結党し、小池百合子が登場した。
本物の政治家か、成り行きを見たい。

皆さんは「できない自分」を受け入れ、
自分の実力通りの器量と度量で仕事・生活楽しまれてますか?

2017年10月06日

宇宙の法則

季節の変わり目で風邪をひく人が多くいる。
近くの内科に行って、薬を貰って汗をかいてぐっすり寝る。
よく食べ、よく眠れば自然と治る。

自分の意志で治したのでもなく、薬が効いて治ったわけでもない。
身体を休めて栄養をつけると自然と体がバランスを取って治る。
宇宙の摂理は生成発展化育するようにできている。

木を植えると土の養分を吸って太陽の光にあたればぐんぐん伸びる。
だから、「宇宙の法則」に従う生き方ができれば、人間も自動装置の計らいで成長発展する。

自分が生きてるのでなく、この原理に生かされているのであると理解する生き方が、
「生かされている」という受身な表現になるが、決して主体的でないのではない。

自分の価値判断で生きるのは人間の利己心を軸に主体的に生きることだが、
他者との対立を産み不調和を産むのが現実だ。(イスラム国や北朝鮮の問題)

宇宙のもう一つの原理は「調和」という自動装置である。
赤血球が栄養を運び、白血球が外敵を駆除する役割をしてバランスを取るように、
赤血球、白血球のどちらかが過剰になれば異常反応(病気状態)を起こすようになってる。

宇宙は生成発展、化育の原理と調和の原理が表裏一体でバランスを取っているのである。

「発展」なき「調和」は絶滅し、「調和」なき「発展」も絶滅する。
矛盾するが、現実の宇宙の法則は「発展」し「調和」するものだけが存在するのである。

人間は理性で自然を解明し、応用する技術を発見し、人工的な便利なものを産み出すが、
そのすべては宇宙の法則が一番で人間の理性の計らいは二番だという事だ。

「生かされてる生き方」とは主体がない受身の生き方ではなく、
宇宙の法則をモノサシに生きる、主体的な生き方だ。

宇宙のモノサシを判断基準に、
置かれてる自分の環境に100%感謝し、善行(利他行)をおこなうことで、
毎日が楽しく生かされる主体を持ち続けられ極楽が実現する。

皆さんは「宇宙の法則」一番にされていますか?

2017年10月04日

競争と信用、努力と調和

資本主義社会は競争と信用といわれます。
具体的に目に見える形で言えば、
他者を蹴落とし自分が競争に勝つ弱肉強食を意味する。

一方信用もそうだ。

資本主義では具体的に資本(お金)を持ってることが信用になる。
これでは社会は戦争を肯定しお金の持ってる人が勝つ。

競争は他者を倒す競争でなく、
自分の内面に視点を置き自分の心の弱さ、未熟さと戦う意味で自分を磨く事だ。
言い換えれば手を抜いたり、人を騙したり、嘘ついたりする心をなくすことだ。

心が善の心なら、必ず平和が来る。
ところが人類のすべてがそう考えているかといえば現実は心の段階がいろいろある。
そこに喜怒哀楽の人間模様が映し出される。
ここに文学が生まれる。

さて、信用だ。

私が事業したときは、無一文からのスタートだったから、信用がゼロだ。
そこで,身体が資本と考え、人の三倍働き、お客さんに信用してもらうため、
お客さんに代わってなんでも行動した。

役所への書類の提出や案内と小まめに他店に負けないようにがんばった。

この信用も自分の内面の「素直」「良識」といった、
フェアプレイの行動と礼儀正しい所作による信頼感を築くことだ。

基準はお金でなく人間の「誠実さ」だ。

稲盛さんも「競争と信用」を「努力と調和」が繁栄し発展すると考え、
縦軸に自らの才と徳を磨くと考え、
横軸にはどんな人、モノ、出来事とも調和を持って基準とするとおっしゃる。
実にすごいことだ。

今、どの位できてるか解らないが、極めてみる価値はある。
そこにはどんな世界が展開するかというと、「極楽界」と稲盛さんは断言される。
それが宇宙の法則だというのである。

皆さんも地獄界と極楽界どちらを選ばれ行動しますか?

2017年09月29日

努力する意味

「生老病死」というのは御釈迦さんがある時カピラ城をでて、
人が生きるのに必死になっていたり、老いることに苦しみ、
病に苦しみ、死ぬのを恐れている現実を見られた。

29歳になり、城を出て出家し如何に生老病死から解放されるかを探すたびに出たのである。
必死に仙人を訪ね考え方を学んだが答えはない、
次にとことん肉体をいじめたがそれにも答えはない。
大変な断食行をして死の一歩手前になって、
山から出てきてスジャータからヤギの乳粥を貰って生き吹き返すのである。

御釈迦さんは「覚者」となる。目覚めた人だ。
「苦からの開放」を遂げたということだ。

人間の苦は肉体的苦と精神的な苦の二つがある。
私たちの身心は「生老病死」生きることに苦しみ、老いに悩み、
病気にわずらい苦しみ、死を恐れるのが普通の事だ。
生きることに努力し、老いることを防ぐ努力し、病を治す努力をする。
ところが死ぬことにどう努力するかといえば、死なない人になることだとおもい当たる。
死なない人になるには怠らないこと(不放逸)。
ただ、吸って吐く、次吸えなかったら死である。

肉体的には死ぬ、精神的にも死ぬ事が死なない事であり、現実に生きることだ。
生かされてることである。
「苦からの開放」は楽する事でなく、呼吸の間に苦を寄せ付けない努力をすることで、
生きることに怠らないことである。

御釈迦さんは「苦行無益」とも言っておられ、
厳しい修行がよいことでなく、呼吸の間に隙を作らないで不死の境地を体得すると諭される。
葉隠れに「武士道とは死ぬことと見つけたり」という名言がある。
実は死を受け入れ生きることができたら、死の恐怖はなくなり「苦から開放」される。

御釈迦さんは不死の境地を得るために私心を超え恐怖心を克服し目覚めた覚者となった。
仏教ではそれを保つための生き方として「上求菩提 下化衆生」を実践する事だと諭す。
僧侶は仏法を伝えるのが使命で努力を怠らないことだが、
私たち生活者の努力する意味は仕事を通じて、
物心両面の幸福を味わい実現してもらうお手伝いして社会に貢献する事だ。

皆さんは努力の意味についてどうおもいますか?