社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

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2018年06月29日

今に生きる

相田みつおさんの言葉に、
「自己否定も自己肯定もともに必要ですね」

仏教では欲を捨てなさい。煩悩を絶ちなさいといわれる。
なかなかその意味が理解しがたいのが普通だ。

自己否定=我に執着する欲(我利我利)は否定する。
自己肯定=生きるために身体を維持する食欲、種を保存する性欲。
活躍するためにエネルギーを溜める睡眠欲。
肯定する欲は生きるためだ。これも行き過ぎると逆に自分を害する事になる。
この欲が行き過ぎたり、行かな過ぎたりすると健康が維持できないのも事実だ。
儒教では中庸と言って、行き過ぎ行かなすぎずを大事にせよと教える。

もう一つ人間には精神の自由がある。
過去に思いをはせたり、未来を創造したり精神が自由自在に時間を渡り歩く、
その結果「人間は過去を後悔し、現在を愚痴り、末来に怖れをを抱く」
禅宗では「今ここ自己」を諭す。

道元は「今日ばかりの命あるなり」(心は今日にある)
臨済は「心法無形十方に通貫す」(心は宇宙に点在して開放されてる)

我という我はなく無我といいたいのだ。
今に集中するとは事実の中に自分を置く事だ。
今を行動するとは過去の体験を生かし、未来を創造して開いていくのだ。
後悔や愚痴、恐れのない今を獲得することが無我という主体だ。

みなさんは今生きてるから今があると思いませんか?

2018年06月28日

徳を磨く事が人間力を高める

人間力のことを「徳」といって本来は行人偏がなく直の心が徳であった。
そこに行人偏が後からついて行動で示す事になるという字になった。

仏教では、1.知徳(すべてを見通す)2.断徳(煩悩を談じつくす)3.恩徳(衆生に恵み施す)
儒教では五常(仁、義、礼、智、信)を実行する事である。

ギリシャ哲学のアリストテレスはメンテース(中間にあること)、儒教的に訳すと中庸だ。
メンテースは人間の行為や感情における超過や不足に調整することを意味する。
具体的に言うと、勇気は行き過ぎると蛮勇、いかな過ぎるのを臆病という。
寛容は行き過ぎると心の狭量さ、いかな過ぎると愚純である。

さて、人間力が高まるとどんな人間になるのかと考えると、
気品、意志、、温情、理性、忠誠、名誉、誠実、自信、健康、謙虚、楽天的な人物像になる。

生まれながらにこんな人間力がついてるわけではない。
自分の肉体を鍛錬するように、自分の内面である心も鍛錬しなければできない。
それは,現実の日常生活の中で行うしか方法はない。

北宋の程 明道は「万物一体の仁」と言って、義、礼、知、信を含むものが仁だと表現する。
中心概念は「太極」であり、すべてのものが未分化の状態をさし混純状態を言う。
ところが人間には「我」があるために、太極と関係するのに、積極的に向き合うのを「天道」
消極的に向き合うのを「人道」と区別する。

道心とは天の理にそって我欲を捨てる生き方、人道は我欲にとらわれて生きる生き方である。
こう断言する。

徳を磨くことは、松下さんの「素直な心」に通じるし、稲盛さんの「利他行」にも通じる事だ。
また、二宮尊徳の一円観にも通じ、物事はすべてが相対して対立するのでなく、
互いが助け合って、円になって相互に働き合って一体となってよい結果を生み出し、
生成化育してる大自然の中にいることを自覚することだ。

過去も未来も現在の中にある。
今という一瞬を大事にすることだ。

皆さんはどのように徳を磨いてますか?

2018年06月24日

一円融合

一円融合という言葉は二宮尊徳の言葉だ。
藩の財政改革のために、農業改革し開墾地を耕したり、
あぜ道に粟、稗を植えたりして収穫を増やし、質素倹約で勤勉にやっていた。

まずは、新田開発は心田を耕す事だと、荒廃しきった心を耕す事に着手する。
勿論、「こんなことしてなんになる」と反対者がでる始末、
心が折れて藩に辞退を願い出るが受け取られず。

45~6歳になっていたがお寺に修行に行く、村人が迎えに行き、再挑戦になる。
このときに尊徳は「一円融合」ということを深く思い至ったのである。

反対する人には反対の理由があるのだと、
自分を絶対化せず、互いが必要なんだと信念する。

それは、植物は水、湿度、土、養分、炭酸ガスなどが相補に働きあって、
一体となって結果を生み出している。
だから、すべては反対者もいて「一円」であるというのだ。

反対者を謗ったり、戦ったりする事はない。
ただひたすら「至誠」を尽くす事だと、楽観的に考えるのである。

いくつか尊徳の言葉をあげてみる。

1.「世の中は智慧があっても、学があっても、至誠と実行がなければ、事はならない。」
2.「善悪といっても、天が決めたものでなく、結局人間にとって便利かどうかだけの話である」
3.「善悪はもと一円である」
4.「貧者は昨日のために今日つとめ、去年のために今年をつとめる。
それゆえに、終身苦しんで、その甲斐がない。」
5.「富者は明日のために今日つとめ、来年のために今年をつとめるから、
人生を自由自在にあやつり楽しみ、することなすことみな上手く行く」

「打つこころあれば打たるる世の中よ、打たぬ心の打たるるは無し」
この心境は善悪を俯瞰するところにあり、他人を責めない、怒らないのだ。

この心境は幕末の西郷隆盛の「敬天愛人」を思い出した。
「敬を身に置いて、意を誠にす」(明道先生・儒者)
天はみんなに恵みを与え、不自立な自分にも、だから敬がなければならない、
敬うとは謹む事だというのである。

そんな不自立な自分を理解してくれるなら、等しく人を愛する事だ。
どんなに違っても自分の不徳の致すところと反省し、「至誠通天」の覚悟で行動する。
どんな艱難にあっても「義」を貫き、後は「天」に任せる。

易経では太極というのである。
陽は天(太陽)で陽気に暮らす=男性的
陰は土(地)で善悪をのみこむ=女性的
と表現する。

皆さんは日頃の暮らしで一円融合してる事お気づきですか?

2018年06月14日

キリスト教の創世記から「働く意味」

人間はエデン(喜び、楽しみ)の園で暮らしていました。
ところが、「善悪を知る木」を食べてはいけないといわれていたにもかかわらず、
実を食べます。

神が定めた掟を破って自由意志によって人間が自立することを意味する。
それは子供が自我に目覚め、親の言いつけにそむいて自分の意志で行動するのと似ている。
自立へ一歩踏み出す勇気を持ったのだと解釈されるのが現代だ。

ところが神(親)としっかり向き合わないで、女の責任や蛇の責任に転嫁してきます。
神にしっかり向き合わなかった人間は追放されるのです。
そこで罰が与えられる。
女には産む苦しみ、男には額に汗して働き、食べ物を得る苦労が与えられると書かれている。

中世以来、この追放の話は神への反逆した人間に与えられたと解釈されてきた。
創世記2章15節によれば、「そこを耕し、守る」ことが命じられている。
人間はエデンの園で働いていた。

中世は神が支配した時代であったが、
ルネサンスを契機に人間は自分の意志で自立する道を択んだのである。

自立した。
しかし、未熟な理性のよって支配したがあまりにも嬉しくなり、
自然そのものを破壊する結果になった。

その意味から、自立した人間はエデンにいたときのように、
自然に仕える「働き」をすることだと自覚すると言う解釈をする。

「そこを耕し守る」ことが働く意味で、自然を育てる積極的な自立精神に捕らえる。
日本では「働く」の意味は周り(他)の人を楽しくするといわれ、利他行的に捕らえる。

一神教である世界も汎神教(八百万の神)の日本も、
人間が働く価値を前向きに捕らえることは間違いない。

皆さんは現代のキリスト教の解釈いかが思われますか?

2018年06月13日

今こそチャンス

「今こそチャンス」という言葉を口癖にしてきた。
もちろん何からそう思うようになったかというと二つある。

1.事業を始めて業界の既得権益や慣習という社会的常識が自分をピンチにした。
負けてなるものかと消費者目線でこの慣習と戦った。
お仕着せでなく、お客さんが自由に選べる情報発信と受信をし解放された仕事がしたかった。

2.自分自身の中の本能的自分は嘘や道徳的に悪いとわかっていても、
利他的に行動してしまう情けない自分から解放されたい。
そんな未熟な自分から解放され、人のためになり喜ばれたい(ほんとは嫌われたくないかも知れない)と考えるようになった。
現実的な生活の糧を得るには何か働いてお金を稼がなくてはならない。
自分のできることは肉体的な健康を提供することしかできなかった。
戦後の価値観の崩壊をどうとらえ、どう生きていくかを問いかける
坂口安吾の「堕落論」に出会った。

「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのだ。
生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。
なぜなら人間のこころは苦難に対して鋼鉄のごとくではあり得ない。
人間は花憐であり脆弱であり、それゆえ愚かなものであるが、
堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、
武士道を編み出さずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。
だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、
自分自身の天皇を編み出すためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要だ。」

安吾がここで言ってるのは敗戦という特殊な状況が起こったのにとどまらず、
毎日の生き方の中で、弱きものが人間だと自覚し、外から与えられた幻影をうのみにしないで、自分が生み出した幻影を自覚するというのだ。

戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことが禁じられたのは、貞操観念の押し付けだというのだ。

戦後、アメリカから押し付けられた自由、民主主義をうのみにするのでなく、
信じないと決め込んで太宰イズムのようなニヒリズムでもなく、
人間の原点の生命力に従って生き抜いていくことを強く打ち出し、
戦後の混乱期を「今はチャンス「」と強気で居直って生き抜こうとしてるのである。

堕落とは武士道や戦前の価値観から解放され、
生きるためには弱い人間は堕落して何をしてもいいと肯定することを言いたかったのでなく、
自ら生きる自己の価値を生み出し自覚して、社会の振り回されるなというメッセージだった。

戦争が始まったら、上っ面の社会構造はむなしく破壊されるということだろう。
北朝鮮とアメリカの歴史的な会談という政治は、
自由、民主主義の社会を世界平和へ導けるかを私たちに問いかけてる気がする。
外からの価値から解放され、内なる価値に目覚める今はチャンスなのかもしれない。

皆さんは歴史的な会談を「今はチャンス」と捉えますか?

2018年06月12日

「まとも、液体、柔軟」な人間像とは

アメリカ大統領が北朝鮮のキム・ジョンウンと6月12日、
シンガポールで歴史的会談が行われた。

仕事中なのでニュースは聞いてない。
日本の総理大臣で日中国交を果たしたのは田中角栄氏である。
地元からの陳情にバスで目白の屋敷に来られた人には必ず会われた。

その真意を書かれていたのを思い出した。
田中総理は「右とか左、〇だ✕だも大事だが、
グレーゾーンが一番多くいるので大事にする」
勿論選挙を考えてであろうが、
続いて「結果どうなるかよい。できるかできないかだ」
「話しをきいて決断する」

未来の可能性を信じて行動することで変化する社会をイメージしていると察する。
理性で効率をとるか効果をとるか、善か悪かの議論をいくらしても仕方ないという立場に立ってる。

実際、直接に合ってないから解らないが、理解できない行動もあるのが人間だと思うから、
全面的に田中角栄総理が素晴しいと言いたいのではない。
しかし、現実に立脚し「今・ここ・自己」を決断し行動したことには違いない。

道元は「今日ばかりの命あるなり」と言ってる。
野口体操の野口三千三さんは人間の身体は気体的なものが主体である(エアゾール主体説)
その身体は自己に執着すると固体になり、自己への執着をなくせば液体(水)のように柔軟になる。
(固体・液体・気体を物質の三体と解説する。)

柔軟とは緊張もせず、弛緩もしない状態で「まとも」とも言える。
柔軟の反対が強硬だ。

土建屋から這い上がって総理大臣になった田中角栄氏はトランプ大統領に重なる。
ある意味で先進国がG7のようにまとめようという妥協的解決を完全に無視して、
強硬になりアメリカファーストを主張する。
世界中が振り回される。今まで作った秩序が壊される。まるで台風のようだ。

マスコミや世界の論調は現実を理性で二分化し、「正しい」のはどっちと真理の探究者になって、
人間を聖人君主に導きチェックするのが国民、メディアの使命といわんばかりに感じる。
末来に希望とか開放感を感じない空気があると思うのは私だけだろうか?

宗 文洲という人はトランプさんの交渉術を評して、
1.常に相手に大きく要求する。
2.失敗は認めないが、ミスをすばやく修正い大きな相場をする。
3.個別案件にこだわりすぎて、より大きな相場を見ない。
4.オナー経営者の視線で世界を見てる。
5.手ごわい相手のみ重視する。

角栄総理は日本的風土で易経でいえば「陰」の柔軟、
トランプ大統領は「陽」で強硬という態度表現をする。
あまりにも短絡的な人間像の評価過ぎるかもしれない。

野口三千三は「人間のすべての働きの良否は肩・頸の柔軟さによって決定される」
ラッセルも幸福論で「疲れは精神的な心配からくる」「宇宙的に考えると自分を俯瞰できる」

白隠禅師は坐禅和賛で「衆生本来仏なり、水と氷の如くにて・・・」

自由・資本主義国と独裁的社会主義国の会談に挑む、
トランプ大統領の言動には深い意味を感じる。

皆さんは自分の人間像〇✕△で言うならどうなりますか?

2018年06月09日

経営と道徳の一致

1980年代に日本はアメリカに次ぐ経済大国になった。
その根本は何かと言えば終身雇用制と年功序列賃金という会社の構造があった。
働く人は会社に就職するのでなく、メンバーとして会社を信じ支える働き手であった。
1985年にプラザ合意がなされ、世界は円高を容認し、日本に内需の拡大を迫ってきた。

そして日本は内需の拡大をゴルフ会員権や株、不動産投資へ向けられ、金融バブルが起こったのである。
1989年の12月株価が3万7千円ぐらいだったと記憶するが、その後一気に暴落していくのである。
日本だけでなく、金融は世界につながっているため、
これを契機にベルリンの壁が崩壊、1991年にはソ連が崩壊し、
資本主義と共産主義の東西冷戦に幕が閉じた。

その後、日本では山一證券の倒産、北海道拓殖銀行の破綻、
金融の再編成が行われていくのである。
日本の素晴らしい経営を支えた構造が急激に能力主義的賃金体系に変貌し、
企業経営が株主資本主義化していき経営の欧米化が始まった。

カジノ資本主義と言って,投機的な方向へ企業経営が進んでいき、
自分を守るためには社員をリストラすることも平然と行われる。
歴史は過去に戻ることはできない。
しかし、歴史の中に素晴らしい人物がいることも確かだ。

その人は渋沢栄一だ。
彼は「論語とそろばん」を標榜し、日本の銀行制度を確立した人物だ。
儒教的な徳治政治を心に抱き、人間の道徳心を高めて、
世のため人のためを実現することが企業の使命であり、
企業の存在目的であると考えていたのである。

戦後の日本的経営はまさに会社は社員を一生面倒みるという制度を作り、働く人は大きな志を果たす誇りをもって働き日本を発展させてきたのである。
ところが個人主義、法による平等、民主主義や人権といった欧米型の社会構造が持ち込まれ、一方でヨーロッパの理想国家として福祉を充実させ弱者救済という美名のもとに、政治家は責任不在の発言をし、会社は拡大することを優先してM&Aによる企業買収を繰り返し、学校は学級崩壊し先生が尊敬されなくなり、家庭には父権がなくなり、子供がやりたい放題になる。
100兆円の国家予算のうち30兆の国債を発行するといった赤字財政を見過ごし、
今や1000兆の借金をし予算から20兆の金利を払って国家運営されているんです。
公共投資はわずか6兆円に過ぎない。

個人の消費が支えの国家の経済になっているが、実質賃金は減っているのが現実だ。

家庭経営も会社経営も国家経営において、構造を理想にすることだけでなく、
個人が立派な大人になる根本的な成熟した道徳心がなければならない。
「温故知新」という言葉は歴史に学びもう一度出来上がった料理を温めなおすように、
心新たにしませんかということを論語の中で孔子が言っている。
今こそ、渋沢栄一の「論語とそろばん」に学ぶことが重要だと感じる。

決して思想を押し付ける気持ちはない。

個人主義を標榜し、国家の主人が国民だというなら、
国民の品格が問われるのは当然だ。

社会人として単に利己心を肯定し、わがままな自己主張するだけでなく、
品格ある主張が言える大人の国民であり、社会人であり家庭人になることが問われる。

皆さんはいかが思われますか?