社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

2012年03月22日

コマーシャル考

コラムニストの天野祐吉さんが書いていた記事の中に、
『チ性』について三つあると書かれていた。

CMの中でソフトバンクのSMAP(スマップ)がでてきて衣装をとっかえひっかえ歌うのは、
二つ折りスマートフォンがでただけのことだが「たかがそれだけのことですけど」
と自分を茶化してるところがいいというし知性を感じるし茶目っ気もあると評する。

それには『チ性』=「知性」「痴性」「稚性」
単に知性だけではCMにならないそうだ、
そこには馬鹿みたいに物事に執着する「痴性」と、
無邪気な好奇心や創造力を持った「稚性」が無ければ面白い表現が生まれないというのだ。

「たかがCMされどCMだ」

最近テレビが面白くないと感じるのはこんなCMの大流行のせいかも知れないが、
大人のスマートな「チ性」を感じさせる番組がない。
子役がもてはやされ、おばかキャラを等身大で映し出す。
渋くて無邪気で一本気な大人の男女が出てこない。

テレビのCMの作り手も視聴者も無意識の中で幼児がえりを望んで、
スピードの早い情報化社会〔経済〕と国民のためと言いながらポピュリズム〔大衆迎合〕の
政治の茶番劇にうんざりしているのではないだろうか?

本気で国のこと、仕事のこと、生活のことに立ち向かって、
真剣に行動する大人〔自分も含めて〕が居なくなったからCMもこうなってきたに違いない。

中国では人間に二つの説があると考える。

1)性善説=自律的で道徳規範で自ら律する。
2)性悪説=他律的で法律によって自らを束縛する。

先人はモノを豊かにし便利な世の中を創ってくれたが、
便利になればなるほど隣近所のお互いが必要なく、お金さえあれば利己心で生きれる。
不便はお互いが『助け合い』をし、人間関係を育成しないと生きれないので利他的心が
養われる。

私が生まれ育った戦後はモノがなく、助け合わないと生きれなかったのが事実だ。
今の若者はそんな体験が無いから、モノを貸し借りしたり、
中元や歳暮で日頃のお世話になったことを心込めて恩返しする行為が、
無意味な儀式に見えているのだ。

村社会も亡くなり世間体も気にしなくなった人々が世の中を一人ぼっちで寂しく生きてる。
身体で感じて反応で動くことは自分がない無知だと錯覚して、なんでも考えてから
動こうとする。

先日も面白い話を聞いた。
石油のストーブにポンプを使って入れるのを指示され、
『聞けば直ぐに解決する』のにやり方いろいろためし、解らないので、
インターネットで調べてる姿を見て唖然としたという。〔会話すれば良いのに!〕
身体で反応見て行動することや会話のキャッチボールができず、
なんでも言葉の意味をあれこれ考え受け止める頭になってるようだ。

コマーシャルが今の世の中を映してるように感じるのは私だけだろうか?

お互いが助け合い、与え合う世の中が求められる。

皆さんはCM見てどう感じます?

2012年03月20日

なんでも鑑定団

私のお気に入りの番組は『なんでも鑑定団』という番組だ。
日本の美意識と西洋の美意識は違うというのがはっきりわかる。

西洋の絵画で言えば二次元の平面に三次元をリアルに描く。
また一点透視図法などの技術を使い、合理的に遠近感や立体感を出そうとする。

ところが日本の絵画は違う。
明治以降は西洋の絵画に学びいろんな画風があるが、
江戸時代の尾形光琳の絵には、騙し絵的な手法で奥行きや立体感、開放感を感じさせる。
決して合理的に計算された手法ではない。
二次元の和紙に余白を必ずつくり、奥行きを感じさせる。
濃淡を巧みに扱い、細やかな表現をする。

当時の絵師は貴族や大名のお抱えの絵師で身分も価値も低かった。
ところが経済が発展し、江戸の商人たちがスポンサーになって、
絵師を育てるようになると作風が自由で解放的になる。
後には浮世絵としてさらにリアリティーを感じさせる庶民の絵になり、
フランスの印象派にも影響を与えた。

さて、この番組にでてくる骨董品についても日本と西洋では観点が違う。
西洋の骨董品=アンティークは歴史性を重要視し、美と感じる。
日本の骨董品=茶道の寂び(さび)からくる考え方で、時間経過の自然に古びたものを美と感じる。

茶道も絵画の発展と同じように現代の『市井の山居』と呼ばれるようになったのは、
16世紀の中ごろ織田信長が町衆茶人〔茶頭〕といって、
堺の今井宗久、津田宗及、千利休を取り立ててからだ。

元来お茶は810年ごろ30年唐の国にいた永忠によって嵯峨天皇はじめ宮廷貴族や僧侶に、
喫茶〔団茶法〕として、唐の珍しい風物として伝えられた。

その後栄西が宗の国から茶を持ち帰り、禅宗の精神的な境地を重ねることになる。
町人から生みでた四畳半の草庵茶になる〔身分関係なくみな一緒)前に完成されたのは、
15世紀の書院茶である。

日本の文化のこの『わび・さび』は外国では評価が高い。
茶道の精神は満たされない状態を認め慎み深く行動する。
『一期一会』を大切にお客に最善をもてなす。

ここには礼儀作法があり、「四規七則」
四規=和敬静寂〔仲良く敬いあい、心清く、どんな時も心動じない心境〕
七則=心込める、本質を見極める、季節感を大切にし、命を尊び、ゆとりもち、
    柔らかい心で互いを尊重しあう。
お茶の作法を通じ自分の心を躾け、最高の美意識を熟成する文化だ。
この番組は自国の文化の再発見であると同時に、自国の文化のすばらしさに感動する。

皆さんはこの番組、視られてますか?

2012年03月19日

写経が生きる

奈良・薬師寺で「まほろば塾」が毎月開催されている。
写経勧進で西塔、金堂、講堂、玄奘三蔵堂を建てられた。

聖武天皇の時代一木一草を持ち、延べ260万人によって作られたのが東大寺大仏だ。
その心根を同じくして薬師寺は戦後、伽藍の復興をなしてきたのも、
写経と故高田好胤管主の三越で行われ辻説法だ。

今回も東北の震災に現在の山田法胤管主の発案で、
写経をして亡くなられた人の供養をしてもらおうと呼びかけられ実施。
薬師寺は興福寺と同じで法相宗で教義は『唯識』で、
「心のあり方がすべてを決める」という教えだ。
自分の心のあり方が原因となるので、心を整えることを第一義と説く。

『右は極楽、左は地獄 心一つが道しるべ』こんな句がある。

震災の心の傷は今も大きく残された人に重くのしかかっている中で、
墓も流され、家も仏壇も無く、お寺さえ流された人にとって写経勧進ができることは、
家族や先祖、友達への供養となり心を取り戻し感謝の念をよみがえらせたそうだ。

水産加工業をしていた、つだやすなりさん「きぼうのかんづめ」のなかに書かれているのは、
何もかも水に流されひとつのかんづめが残っていて、ふたを開けると食べられる鯖のみが入っていた。

そのとき『あの日、津波に流されずに、残ったものがあった。それは希望だ。』
こんな話を塾長の安田暎胤長老が話されて心打たれた。

自分のことより先祖のこと、自分のことより亡くなられた家族のことを気遣う心。
人間はなんとすてきな魂を持っているのだろうと思うが、現実の経済の不況にあえぐ人もいる。

塾長は東北震災だけでなく、生活の先行きの見えない現状に苦しむ人に松下幸之助さんの言葉を引用された。
 
松下幸之助いわく
『起こってしまった現実から、われわれは逃げることができまへんのや。
 あるがままの現実を素直にまず受け入れんとしょうがないわな。
 人間の知恵だけは無限や。
 知恵はだそうと思ったらいくらでもでる。
 解決の道はいくらでもある。
 不況はチャンスやで、不況やからこそ、新しいものうまれるやないか。
 不況やからこそ人も育つ。』

松下さんは『素直』これを一番大事にされ、門真のパナソニックの敷地内に素直神社があるそうだ。

素直には二つある。
1)事実のおこたったこと自分にとって良くても悪くても100%受け入れる〔厳しいな。できるか〕
2)事実にしたがって、自分のことを正直に表現し、判断の基準を良心や『お天とさん』に任す。
 〔これは決して開き直ってるのでも無責任にほったらかしにしてるのでなく、自分の我欲で判断しない〕

素直だけでは現実を乗り越えるエネルギ-には弱い。
人間は自分を信じ未来を信じ、心の中の絶望を排除して希望で一杯にすれば、
エネルギ-は未来へ爆発し行動する。

写経勧進が希望の光になって復興が現実に一歩づつ着実に歩むことを願う。
薬師寺で写経された浄財は復興資金として蓄積されるそうだ。〔ここ一、二年?〕

みなさん「写経が生きる」と思いませんか?

2012年03月17日

たった一回の授業

九州だったと思う。有名でもない高校を卒業し社会人になる。
自己責任を果たしきる人財を作るという決意で着任した校長の話を聞いた。

今でもこの高校は志願者が多い。
それは卒業後、生徒だった子達は一生懸命働き、
世の中で役に立つ立派な人財になるからだ。

たった一回の授業は『卒業式』当日だ。
卒業式には必ず両親のどちらでもいいが参列することにしてもらう。
卒業式が終わると生徒は自分が学んだ教室に入る。

親は生徒のイスに座って生徒は床に座る。
校長先生の授業が始まる。

『君たちは親に守られて生きてきた。
 今日から自立の一歩が始まる。
 君たちは親が愛し守り続けてくれた、
 「ありがとう」と言えなくてもいいから、
 手をそっと親に添えて「反抗してごめん」
〔恥ずかしくて指一本の生徒もいる。声もでない〕』

『久しぶりの両親の手を触って昔のようにつるつるして無いだろう。
 ぼろぼろになったのは君たちを守ってくれたからだ。』

『両親の苦労わかってやれ!』
『もう一度手を握れ!』
(生徒はみんなグーッと手を固く握り締める。目から涙がぼろぼろ落ちる)

『自立とは守られる存在から、守る存在になる。
 与えられる存在から与える存在になること!』

『それが自立だ!!』

たった一回の授業で生徒は親に恩返しの気持ちで一生懸命働き立派な社会人となる。

人間としての奥深くにある役に立って喜びたい。
両親を喜ばしたい気持ちに火がつくのだ。

誰だって深いところで両親に感謝してる。
いつまでも甘えていられないこともわかってる。
きっかけがいるんだ。

みなさんは卒業式に自立誓いましたか?

2012年03月16日

経営理念とは

人間の心は形を求め、形は心を求めるものだ。
芸術は結果の形を見、聞き、味わい、触れ、嗅ぎ、五感から全体像の心を感じ取る。

作者はどんな意味を表現してるのか?
作者は人間が作り出すものを超えて、自然を忠実に再現する技術力を駆使し、
私たちに自然を届けてくれる。
また自然の中で揺れ動く人間の営みから生み出る感情やドラマを表現してくれる。
音楽や絵画や陶芸、演芸、書道、華道、香道あらゆる構築物も時代の美の表現だ。

さて、「経営は芸術だ」といったのは松下幸之助さんだ。
だから経営には時代を超えた不変的な理念がいると私は考える。

理念=行動の判断の基準である。
(逆に言うと理念以外は社会の変化に対応してすべて適応するべく変えることだ)

実際にはこれだけで現実は解決しない。
世界を舞台に行動された国連大使の明石さんは、
これに加えて3つあると言われた。

1)常識で判断する。
たとえば常識の判断もプロと素人では違う。
私たちは素人(お客さん)目線が大事だ。
たとえば殺人だ。
計画的殺人はプロは罪が重い。
ところが素人は逆で突発的殺人が罪が重いという判断になる。

2)経験知で判断する。
社会は自然と言う材料で人間が都合によってつくったものだから、
現実に役に立ってるので、偽者とまでいわないが不完全である。
(ところが大自然の中で育ってない現代人は造ったものが本物【自然】と錯覚し主客を間違えることが多い)だから、経験したことの事例があることは判断の推理が可能になる。(あくまでも推理という主観だ)

3)中道(中庸は儒教での表現)で考える。
このバランス感覚が実にすばらしい。
物事を科学的に考える人は事物を外的の現象ととらえ分析実験解析する。
しかし、それを考える側の決め付けや憶測に注意を払って考えない傾向がある。
意識と無意識に支配される心をどう客観化するかである。
いい換えると平均的思考(明石さん流表現で、決して真ん中とか二分の一ではない)である。
自ら問題解決のため行動しない傍観者的な頭の中の真ん中でもない。

御釈迦さんはこの外的原因と内的原因のバランスで事物や現象が起きると言い切る。
これが『因縁生起』因果の法則が一貫して貫かれてるというのだ。

私たちは出家僧のように悟ることが目的で生きてる訳ではない。
自分の人生を豊かで幸福で楽しく送るために現実的な決断判断をするために考えてるに過ぎない。

自分が得(徳)するから真似るのであり、
最初から利他行したいと生まれたわけではない。

しかし、『因果の法則』から考えると自分の心の持ち方が原因で結果の現実ができるなら、
利他行して善因を行動したら必ず善果が法則どうり具現することは間違いないようだ。

これを仏教では「自利利他」と言う。自分でやってみるしか実証できない。

みなさんの人生の経営理念どう考えられてますか?