社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

2012年03月15日

分かち合いの経済学

工業化社会から情報化社会になり、
モノの豊かさから心の豊かさへというキャッチフレ-ズが一般社会で多いが、
モノにも心があるのにどうして切り離して考え、
ことさらに心が大事だと言ってモノを否定する風潮が私にはわからない。

そう考えてると出会うもので、
神野直彦先生の『分かち合いの経済学』は疑問に答えてくれる本だ。
先生によれば、1)人間は所有欲求を充足すると「豊かさ」を実感する。
            2)人間は存在欲求を充足すると「幸福」を実感する。

これまでの右肩上がりの経済では「所有欲求」を満足させ、
「存在欲求」に目をつぶってきたとおっしゃる。

「存在欲求」とは人間関係から生まれる親とのふれあい、
愛するものとの触れあいで人間と人間が触れ合う、
『分かち合い』のうちに実感する「幸福感」であると断言される。

工業化社会の基準は機械化によるコストダウンによって、
より良い〔品質〕ものをより安く商品をつくることが善しとされた。

ところが、情報化社会(知識社会)の基準は基本が人間関係の『分かち合い』をし、
「幸福感」を実感することを一番と考える価値に転換することになった。

換言すれば、個々人が『所有欲求』より『存在欲求』を一番にすることだ。
当然、人財育成のあり方も根本的に違う。
従来の『盆栽型育成』から『栽培型育成』になる。
『盆栽型育成』=標準化し、反復訓練し強制的に組みこまれた能力育成。
『栽培型育成}=問題の所在を認知すると共に認知した問題を創造的に解決する能力育成。

工業化社会ではモノを所有する蓄積が美徳とされ、他人からも羨まれたが、
情報化社会では工業化社会の『存在欲求』を満たすことを目標とするのでなく、
『分かち合い』与え合うことで人間関係に幸福感を実感することを美徳とするのである。

先生は今までの社会は自然からも他人からも奪うことが
正当化された『強盗文化』と表現され、
これからの経済学は「分かち合い」の経済学で、
今までとは全く逆の「与え合い」で創造する文化だとおっしゃられる。
いい換えると自然や人間が作ったものや人間関係の「共生感動社会」の構築だ。
知識も気持ちも与え合い人間の智慧で解決する助け合いの社会への飛躍とも言える。

明治維新のように『散切り頭を叩いてみれば 文明開化の音がする』というように、
和服が洋服に変わり、士農工商という身分なく、
国民となりと国会が議論して政治をするようになった。
今、当時と同じぐらいの価値の大転換の時の真っ只中だ。

みなさんは未来の社会の価値に切り替えられてますか?

2012年03月14日

生きること死ぬこと

家内のお父さんが亡くなったのは約43年ぐらい前になる。
父の死に「私がこんなに絶望感を持つぐらい悲しいのに他人はなにもなかったように生活してる。」
これが実感だったといっていたことを思い出した。

還暦を越える年齢になると『死』を真剣に向き合わざるを得ない。

『あすは死ぬ 景色も見えず 蝉の声』といように人間以外は死を事前に考える事はしない。
人間だけが生きたいが故に『死』を想像し恐れる。
だから真剣に向き合おうとしないのも事実だ。

では、真剣に一度向き合ってみようと考えた。
『死』は自分にとって三つある。
1〕三人称的な人の死はそれほど痛みは無い。
 それはその人の『存在』と『機能』喪失して誰かに置き換えることができるからだ。
 家内が町を行きかう人がいつもの生活してると感じたように。
2〕二人称的な人の死は悲しくて辛い。
 それは『あなた』とか『お前』と言う支えになっていた人が死に、
 半分以上の自分の喪失であるからだ。
 同時に『死』の現実から恐怖や不安のイメ-ジが起るのだ。
3〕一人称的な死〔自分の死〕には四つあるというデ-ケン神父〔上智大学教授〕
A:死ぬまでの肉体的苦痛
B:精神的苦痛〔この世に生きたい惜別の苦〕
C:社会的苦痛〔家族や職場に対する心配〕
D:霊的苦痛〔人生の総決算の苦、価値があったか、無価値だったか、後悔の念〕

こんなことが冷静な今の自分だから考えられる。
私が生死をさまよう手術をするときはすべてを放り出した『なるようになる』それが心構えだった。

『生かされてるいのちに感謝』する以外は受け入れられなかった。

生死をかたらせば白隠禅師しかない。
『若い衆や、死ぬがいやなら今死にやれ』と、
自分で自分の死を先取りしてしまえというのだ。
そうすれば甘っちょろい死はなくなる。

白隠禅師の法の上の祖父の至道無難禅師はもっと強烈だ。

『生きながら 死人となりてなりはてて 思いのままになすわざぞよき』

一度死にきった人は死から開放された大自由人として生涯を送ることになる。

だから禅宗では『大死一番 絶後に蘇る』といって、
一度人間的に死ぬ体験をすることを良しとする。

理屈はわかるが人間の本能は厄介だ。
出口〔死〕から『生きること』考えたら、
生きることも案外簡単かもしれない。

死をこんなに真正面から考えたことはなかった。

みなさんは怖くないですか「死」?

2012年03月13日

米島末次さんの詩

    「家族」

昼下がりの散歩道
 先行く家族の姿
  幸福なときの流れを感じる
   微笑む幼児から
    私にも幸福のお裾分け・・・

家族がとても好きだった米島さんは、還暦を迎えて亡くなられた。
東大阪ラクビーの町のマスコット『トライ君』のデザインをした人だ。
そのトライ君の石造を近鉄奈良線の東花園駅前に弊社で作らせてもらったのは二年前だ。

彼の詩集『心の軌跡』のあとがきに、
『東大阪市のキャラクター「トライ君」のデザインした男』と自己紹介の時必ず言われる。
だから『トライ君』を汚さない生き方をするというのが自分の生きるスタンスに影響を与えた。
こう書かれていた。

今、手元にある『心の軌跡』の詩集は2009年に彼からいただいた。
薬師寺の長老・安田暎胤さんの大阪はらみつ会の会長をし会員のお世話をなさっていた。
日ごろから信心深く、また他人の役に立つボランティアを心がけておられた。

この詩にあるように、
大自然から周りの仲間から家族から幸福を与えられてる自分がいる。
自分が幸せでないのに他人へ幸せな波動は流せない。

『私は幸せ者だ』と私にメッセージを送ってくれてる。
そして『お前も早く気づけよ、生かされてることへの感謝を』

私たちは親に守られて、与えられて生きてきた。
自立とは誰かを守り、与える側に自分のスタンスを変えることに違いない。

しかし、赤ちゃんが楽しいから笑ってるのでなく、笑うから楽しいと思うように、
自立して与えてるから幸せでなく、幸せな姿を見て幸せを与えられてるのだ。
〔幸福のお裾分け〕
彼の動かない姿を見て、自分の中の悲しみを見つめてるように!!!!

心よりご冥福を祈る。

みなさんは友が亡くなってどんなメッセージ受け取られましたか?

2012年03月12日

無縁社会は誰がつくる

あるお寺さんが『無縁社会はあなたがつくってるんです』といわれる。
私たちは自分と社会を相対的に考えるようになってしまってる。

自分が社会の一員として行動してると考えないで、批判ばかりして社会の儀式にも
参加しない。
そんな脱社会的な生き方が個人主義だと考えてる人が多い。

今葬儀は直葬といって、家でもやらない、まして町会の会館でもしない。
互助会などの会館葬儀はお金がかかるからやらない。
平気で『死んだ人より今生きてる人が大事だから、お金出せない』と言って、
葬儀、告別式をしない。
だから近親者4~5人で直接火葬場の待合で簡単に別れを済まし直葬をする。

個人主義か意味のない儀式が嫌いだと、自分が生活してる社会を否定して、
孤独の道を選び自分で孤立を好み、
積極的に自分の意思で無縁社会をつくってる担い手なのに自覚が無い。

まだ今は直葬ではないと、このお寺さんは言う。
ホントの直葬は誰も火葬場に行かなくなったときだ。

亡き人は単にモノになり、精神的なつながりが無い無機質で無精神な人で、
人と人の間で生きた精神的な人間で無くなる。
このように無機質な自分のことしか考えない人間が大量に生産されているのが現代だ。

だからといって、そんなことを平気でやる人たちが悪いと攻めれるだろうか?
大なり小なり、私たちはそんな考えを肯定的に思っていないだろうか?

元総理の菅さんは『最小不幸社会』を標榜したがどうだろう。
北欧型の新自由主義だそうだが、虚しく聞こえるし内閣は解散した。

国民全員が幸福創造しようと積極的に前向きに行動しないで、
不幸を食い止めようと行動してる気がしてならない。
今の状況を維持しようという考えにこだわり、
時代の変化を受け入れたくないというベクトルが働いている。

アランは幸福論で『他人に出来る最善は自分が幸福になることだ』

無縁社会で幸福ですか?
孤独な個人主義で幸福ですか?
ミーイズムのわがまま主義で幸福ですか?

私は先祖や両親、兄弟、仲間の有縁の社会で育み生き方を学んだ。
だから目に見える人も見えない人も大切にしたいし大切にする。
彼岸になって今年も恩師、小田切瑞穂の墓参りに興福寺に行くし、
父親の毎月のつき命日は仏壇も拝み、盆彼岸は必ず家族で墓参りに行く。

社会に流れてる閉塞的な空気は個々人一人一人がつってると自問自答する次第だ。

皆さんは毎日自分が幸福を感じてますか?

2012年03月11日

誇りある自己規制

『辛い、悲しい、苦しい』といえるのは、現実を受け入れた時だ。
東北の震災があって一年になる今日、
生きることを根本から考えさせられる日でもある。

福島では今も放射能の汚染で帰宅できない人たちがいる。
風評被害が蔓延し、石材も汚染されてると原石を採掘してる業者の生活が成り立たない。
具体的に何ができるか考え行動する以外ない。

そんな状況で『家も思い出のアルバムも仕事も、みんな無くしたが命がある』
『生きてることに感謝して、行動すれば何とかなる』こんな言葉を、テレビ番組の
特集の中で聞いた。
『胸が熱くなった』と同時に私は恥ずかしくなった。
今置かれてる環境に感謝し、
いのちのレベルで真剣に生きてるかを突きつけられたような気がしたからだ。

西洋では道徳は教会で教える。
わが国では道徳や倫理観は生まれたときから持っているように見える、
といわれるのは「国家の品格」の著者・藤原正彦さんだ。

万引きしたら親を泣かせる。
先祖の顔に泥を塗る。
お天道さんが見てる。
こんな発想が身体にしみこんでいた時代があった。

平等とい観念も西洋流の計れる尺度でないわが国流がある。
それは、何かおみやげをもらうと必ず神棚や仏壇にお供えをもって行く、
しばらくして、母がみんなに配る。
そのとき、母はお手伝いをした子供にに多くやる。
『平等じゃない』と数の多い少ないで抗議しても、
母は毅然と『仏さんがお手伝いした人に多くやれと言った』と、
意味までつけて判断の正しさを仏さんに託すのが常だ。

著者は『法治国家と言うのは恥ずべき国家で、
高貴な国家というのは道徳とか倫理とかによって、
言動を自己規制する国だ。』と断言する。
江戸末期から明治にかけての日本にはそんな誇りがあったし、
西洋では騎士道に見られるという。

論理でなく情緒を大事にした誇りを今こそ、
温故知新で学び取ることを啓蒙されてる。
私も同感だ。
技術が発展し、飛躍的に経済成長し、モノが豊かになったのは事実だ。
しかし、論理的なことが正しいという至上主義に陥ると人間の身心のバランスが崩れ、
間違いを犯す。

一年前に震災の被災者が我慢強く愚痴も言わず身を寄せ合って、
口々に『私より大変な人がいる』と思いやる態度をみて、
眠っていた「誇りある自己規制」が今でもできることを証明して、
われわれに「誇りある自己規制」を身をもって伝えてくれた。

自己犠牲ではなく、あくまで自己規制だ。
仏教で言う利他行だ。
他人を一番に救い、自分を二番にする。
決して自分を犠牲にするのでなく、布施の気持ちだ。

みなさんは今日何を感じましたか?