社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

フィード

RSS 1.0

2017年12月09日

仕事・人生の戦略

石材事業を起こして、二つ疑問に思ったことがある。
1.価格はどうして決まるかであるか。
2.企業は資本主義化において「競争と信用」がなけれなならず、「利潤追求」が目的か。

1.この疑問に100%の答えとは思っていないが、
マルクスの投下労働価値と言って、
商品をつくるのに原材料費、設備の償却費それに労働力などのかかった    
費用を産出して、そこに利潤を足すいう考え方と、
もう一つは市場の供給量と需要量の差で、需要が多く供給が少ないと高くなり,逆だと安くなる。
2.利潤追求が目的だとしたら単なるお金好きの守銭道である。
ドラッカーの言うように社会貢献が一番と考える根拠を以下の人たちに学ぶ。

それにはどうしても仕事と人生が一体のものと考えるのが妥当だ。

元京都大学の総長・平澤 興先生は
「修養と人生、仕事と人生は一つのものである。
人生をはなれた修養はない。
また仕事をはなれて人生はない。」

ロダンは
「仕事は生活の方便ではない。生活の目的であり、
働く事が人生の価値であり、人生の歓喜である。」

この両人が言ってることが心から腑に落ちた。

仕事をするには経済的な事が絡まり、利潤がなければ再生産もできないのは事実だ。
しかし、それは手段であり目的ではない。
仕事と人生が一体なら、
1.競争(現象)ではなく、生き方である。
2.信用(ルール約束守る)でなく、三方よし、フェアプレイで良心を基準に照らす事だ。

仏教的な表現をすれば「色即是空・空即是色」だ。
色(現象)=結果、競争と信用に見える。
空(本質)=原因、利他行(社会貢献・他人を幸福に)して、
困難や難解なことを体当りで独自の道を創造する事だ。

現象は唯物論で説明できるが、自分という主人公が現実に飛び込むとしたら、(色即是空)
自分の内なる情熱が原因で結果の現象を生むという唯心論がいる。(空即是色)

さて目的達成には戦略と戦術がいる。
戦略とは「相手を負かす事でなく、自分を強くする事である。」
イチローは「やらされてる百発よりやる気の一発」と表現する。
確かに、隣の人と比較したり、競争する事もあるが、
長い眼で見れば自分に似合い、自分の得意とする独自の戦略を編み出す事である。

仕事・人生は一体であるがゆえに、
戦略とは「勝つこと」でなく、「どう生きるか」である。
戦術は具体的な方法で体も頭も心も動かすHOW TOをいう。。

生き生き生きるとは過去からの因縁に束縛される事でなく、
末来が開放的で希望で満ちているオープンマインドで空っぽにする事だ。

みなさんは仕事人生の戦略どのように考えられていますか?

2017年12月03日

「意識」は害にもなる

今朝新聞を読んでいたら「意識は害になる」という言葉が飛び込んできた。

養老猛司さんが書き下ろした「遺言」という本のポイントが書かれていた。
「意識」とは目や耳などを東して受ける感覚に対してそこに「同じもの」を見つけ、
意味に変換し、秩序を与える。

都市で暮らす人間は「感覚入力を一定に限ってしまい、意味しか扱わず、意識の世界に
住み着く」
人間の子供にとっては経済的でも効率的でも合理的でもないものだから意識が邪魔になる。
そのしっぺ返しで子供が減っているのであろうというのである。

動物は感覚をつかって生きる。リアルな存在だ。
団塊の世代ではしょっちゅう山登りする。
若者も森に行くためのSUV車に乗る。
本能的に「意識」に害されてるからのバランス行動であるに違いない。

この文章を読んでいて「老子」の言葉を思い出した。
「知足不辱 知止不殆」
意味=足るを知ると辱めを受けない、止ることを知っていれば危険を免れる。
(意識を自分で外しコントロールする事こそ静かさと平安を得れると諭す)

誰でも地位とお金と自分の身体のどちらが大事か?と問われたら、
必ず「身体」が大事だと答える。

次に身体の中で頭と腹どちらが大事かと問われたら、
都会に住んでいる人は一応に「頭」と答えるであろう。

養老先生によると「頭」は意識を作り、意味を問う交感神経が働くのである。
だから「考えすぎ」は不安を呼び込み恐怖心を産みストレスを作り出すことになるのである。

「腹」と答える人は全体の身体を整える副交感神経を使う事を知ってる。
感情を養うセンターでもあるからバランスが取れた身体になると同時に胆力もできる。

2500年前の老子の無為自然とは意識で身体を引っ張りすぎるなと警告する。
足るを知らなければもっとほしいもっとほしいと欲望が肥大し我利我利亡者となる。
意識で引っ張る欲望の列車のように、さらに早く走ろうとして、
自らの身体を壊し、意識が有益にならず害となるのである。

禅は「止ること」を教え、雑念に振り回されず自らの命が躍動する良い方法を教えてる。
竜安寺の庭のつくばいに「吾唯足知」とかかれている。

皆さんは意識をするときとしないときを切り換えどうしてますか?

2017年12月01日

坂村真民との出会い

坂村真民さんとの出会いは、平成の4~5年頃だったと思う。

薬師寺の元執事長(現長老)安田瑛胤師の会で、
先生の「詩の講演」をしていただきたいということになった。
石材の同志の高岡社長が愛媛松山にいるので、面会を頼んだ。
私も坂村さんの詩をたくさん読んだわけでないので、
松山の本屋さんに行って買い求めた。
びっくりしたのは、本一冊ずつに心のこもったサインがなされていた事だ。

さて先生の「タンポポ魂」、自宅の書斎を訪ねた。
そこでその趣旨を話して、来ていただけないかと言った。

薬師寺は高田好胤さんの名前が通っていた有名な寺であることはご存知だった。
先生の返事は「NO」だった。

直接的な表現ではなかったが、
「私は有名な寺で話しだけきいて勉強するのも良いが見世物ではない」
といった厳しい言葉のニュアンスを感じた。

誤解のないように薬師寺からの任務でなく、会の仲間が先生の(朴の会)にはいってられ、
詩国を毎月読んでおられることを話した。

すると少し柔和な顔になられ、私に「念ずれば花開く」の色紙を下さった。

二度目の出会いは平成12年(2000年)大阪の茨木市のまだま村の、
「念ずれば花開くの碑」の除幕式にこられたときである。

立花之則さんは真民先生に私淑されていて、一万人のノミで彫られた碑を作り、
先生に来ていただかれ、
その裏方の準備一切を大阪石材のスタッフと、
奈良の魚谷さんのまほろば塾の人でやらしてもらったときだ。

先生の「念ずれば花ひらく 苦しいとき母がいつも口にしていた。
このことばを、わたしもいつのころからか となえるようになった
そしてそのたびに わたしの花が ふしぎとひとつひとつひらいていった」

この詩が一番残っているが、もうひとつ凡人のわたしの気に入りがある。

「西行と山頭火は 妻子を捨て 家を出た
芭蕉と放哉は 世を捨て 旅で死んだ
だがわたしは 妻子を捨てず 世も捨てず
一筋に詩を作り どこまで行けるかいってみよう
詩神よ 導きたまえ 守りたまえ」

あの鋭い眼光は未だに目に焼きついている。
生半可に詩をかかれていない厳しさを感じたのを今も肌感覚で覚えてる

皆さんは坂村真民さんの詩を読まれたことありますか?

2017年11月30日

どんな人も「仏」を持っていると教えられる。

「仏」=「本来の自己」
「本来の自己」=伯井守という名前がつく前の自己
「名前のつく前の自己」=命が動き出した名無しの権兵衛の自己
この命の動き=主人公
「随所に主なればいたるところ真なり」

今・ここ・自己が主人公だ。
この主人公は生きることが楽しくて仕方ない。

1.本能的な自己と他己の損得の価値、
2.感覚・感情の好き嫌いの価値、
3.理性的な整合性を分別する価値
を、超えたところの私心のない自己が主人公だ。

ところがこの三つの価値から現実を判断してる自己がいる。
これは主人公ではない。
主人公の価値は「良心」が基準になる。
自分の行動を命が喜び踊るようでなければ本物の自己ではない。

パーソン(個人)という英語の語源はラテン語のペルソナ(仮面)という意味だ。
人間は社会生活するとさまざまな仮面をかぶる。
会社にいると「課長」
家に返れば「父親」
妻の前では「夫」
どれが本来の自分なのかわからなくなる。
そんなときは「自問自答」してすべてのペルソナを外す。

これが「禅」だ。

「本来の自己」に気付く。
「孤独」は人を強くする。
しかし、「孤立」してはいけない。
孤立すれば自己を発見できない。
孤立がもたらすのは、「不安感」「寂寥感」「猜疑心」だ。

人はいつも誰かとつながっていたい。
これが人間の本能だ。

「方丈記」の鴨長明は晩年「方丈庵」でひとり暮らしていたが、
孤立していなかった。

時々、京都の街中にでて、市井の人と酒を酌み交わす孤立しない生き方だった。
独身世帯が3割いる現代、
身寄りのない年配者、独身の高齢者などは、
趣味や近所付き合いをしないと孤立して行き不安を呼び込み生きる望みを無くす。

「孤立」は人を弱くするのだ。
「孤立」しないで心の置き方を「孤独」を味わい自分と向き合うことだ。

皆さんは「孤独」を楽しんでますか、「孤立」してますか?

2017年11月28日

「応病与薬」とは答えは一つでない。

学ぶ事の意味は観自在菩薩になることである。
自由で自在に行動するとらわれない人間になることだ。
そのために先輩から教育を受ける。

教育の目的は三つある。
1.知性教育=知識能力をつける。
2.道徳教育=良心を育てる。
3.情操教育=美的で芸術性を磨く。

言い換えると「真、善、美」といえる。
善と悪があるなら、善を追求する生き方が尊い。
至善こそが美しい行動で、真実に叶うのである。

しかし、経済的な利害が絡むと勝ち負けを競うようになり、努力を惜しみ、憎しみ、怒りの感情、自分のものにしたいと貪欲の感情に支配されるのが人間だ。

そんな自分にこだわるという縁ができると、人間は悪人になるのである。
(逆から言うと善の縁を得れば、善人になる)

一方、視点を変えて外に競争相手も持って考えるのでなく、
自らの無知さという内に目を向けて、
自分を磨くチャンスと考えると自由で自在な自分を見出し、さらに人間として進化する。

さて、論理的な整合性があることが正しいと考えるのは理性中心主義者だ。
一方、感情という表現の自由さだけを正しいと考えるのは自己中の感情主義者だ。
本能肯定主義でも感覚・感情優先主義でも理性のつじつま主義者でもありません。

そのどれでもなく、その三者のすべてを有して、縁によって引きでるのが人間だ。
だから、今いる環境という縁に感謝して縁を生かすことができることが最高の喜びである。
その最も素晴しい人物が御釈迦さんだ。
「応病与薬」といい、対機説法で自在に直面した現実の課題を解決し諭しをする。

1.毎日必死に努力して寝ないで働く人を見たら、「休みなさい」といい。
2.怠けて行動しない人を見たら、あなたは良いものがあるが努力しないとその良いものはでてこないと諭す。

1+1=2ではない答えがでる。正解はないのである。

言い換えると「縁」によって物事が展開してると諭されてるのであり、
答えが一つではないのである。

理性にこだわる人は矛盾と捕らえ、感覚や感情にこだわる人は主観的であり、
本能にこだわる人は「嘘」も「盗み」も生きるため「必要悪」と肯定する。

基本の基準は「良心」に照らす事だ。
利他行か動機は善か私心はないかということになる。
愚かで、欲張りで、怠け者が人間の正体であることは自覚するからこそ、
観自在菩薩になることができる。
しかし、その状態を続けることはまたできないのも人間だ。

皆さんは正解のない人生に如何に正解を行じてますか?