社長ブログ

大阪石材株式会社 伯井です。

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2017年09月10日

「修身二十則(山岡鉄舟)」に思う

『修身二十則』
 
一, 嘘を言うべからず
一, 君の御恩忘れるべからず
一, 父母の御恩忘れるべからず
一, 師の御恩忘れるべからず
一, 人の御恩忘れるべからず
一, 神仏ならびに長者を粗末にすべからず
一, 幼者を侮るべからず
一, 己に心よからず事 他人に求めるべからず
一, 腹をたつるは道にあらず
一, 何事も不幸を喜ぶべからず
一, 力の及ぶ限りは善き方に尽くすべし
一, 他を顧して自分の善ばかりするべからず
一, 食する度に農業の艱難をおもうべし 草木土石にても粗末にすべからず
一, 殊更に着物を飾りあるいはうわべをつくろうものは心濁りあるものと心得べし
一, 礼儀をみだるべからず
一, 何時何人に接するも客人に接するよう心得べし
一, 己の知らざることは何人にてもならうべし
一, 名利のため学問技芸すべからず
一, 人にはすべて能不能あり、いちがいに人を捨て、あるいは笑うべからず
一, 己の善行を誇り人に知らしむべからず すべて我心に努むるべし
 
 
これを山岡鉄舟が15歳のときに書いたのだからすごいというべきだ。
自分という人間がどのように自らを修めるかと考えて書いたのだ。
言い換えたら、こうなりたいという人物像をルール化した。

勝海舟が鉄舟を評して「幕末のいまどきの者でこんなこというやつはいないでもないが、
実際におこなう者が誰かいるといえば指は折れないよ」
愚直にこれを守ったというのであるが、
当時は鉄舟のことを叛逆者、独籍者とみんなが言っていたにもかかわらず、平気でいるところは子供ながらすごいとも言ってるのである。
それは第九条の「腹を立つは道にあらず」を実践したのだ。

また人使いでも、第十九条の「人はすべて、能不能があり、いちがいに人を捨て、あるいは笑うべからず」
寛容な精神を宿していたのである。

ルールというだけで自分の自由が縛られると感じるのは本能(利己心)で自分を守ろうとする感覚だ。
これは誰にでもある感覚であるが、これが自我を作り自分に執着する根本で、
執着すればするほど、周りのすべてのもの・事・人が自我の自由を阻害すると考えて苦しくなる。

この不自由から開放し自由でありたいなら、自我にこだわらなく執着しない事だと釈迦は諭す。
幕末時代の生死が隣り合わせの時代の中で育った鉄舟には直観的に感じ取っていたのかもしれない。
剣の修行もまた死の恐怖との戦いでもある。
敵は外にあるのでなく、自分のうちの心を定め、恐怖も持たず敵を侮りもしない心境こそが生きることだと覚悟でき宝こそ無敵だったのだ。

自分に置き換えてこんなルールを作って守ってきたかというと失格だ。
気付いた今からひとつづつ実践するしかない。
やってみなければ解らない。
一歩でも近づけるなら行動する価値はある。

皆さんは自分をどんな人間にしたいでしょうかルール持っておられますか?

2017年09月08日

正念

「さしあたる ことのみを思え 人はただ
帰らぬ昨日 まだこぬ明日か」

これは名称真田幸村の甥で白隠禅師を育てた長野・飯山の正受老人の言葉で、
意味=人はたださしあたることに集中しろということだ。「今に集中する」
禅では「一大事と申すは、今日只今の心なり」と教える。

具体的には、
今、目の前に嘆き悲しんでる人がいるから一緒に嘆き悲しむ。
今、目の前にお酒が来たから喜んでお酒をいただく。
今、狼がきたからその中でカットして坐禅をする。

地元の飯山の里に狼が現れるようになって、多くの人を負傷させていた。
ある人が狼の子を飼っていたところ、犬にかみ殺された。
それからというものは狼は怒り狂って村の子供を襲うようになった。

村の人たちは門を閉ざし不安に慄いていたとき正受老人がやってきて、
埋葬した狼の子の場所で坐禅を組んだのである。

勿論、狼は坐禅する正受老人の首のあたりに匂いを嗅いでクンクンやってくる、
耳もとに息を吹きかける。

ここが「正念」=今に集中だ。
狼は正十本受老人の心が、少しでも恐ろしいとか嫌だという念を起こしたらがぶりとかむに違いない。
将に正念を失わない、自分を守ろうとか、狼をやっつけようとかという念を起こさないころだ。

将に「無念無想」を具現化することだ。見事「正念」して坐禅されたため、
その後は、狼は村に来なくなったというのである。

「正念相続」ということを正受老人はいうのである。
「すべての人は遠きこと思いて謀ることはあるけれど、的面の今を失う事に心づかず」
一般には遠い先のことばかり考えて、今を生きてないのも事実だろう。
ご飯食べて何か別の事考えてるのが凡人の私だ。

「只今の心」失うなと現代に生きる人に伝えている。
学ぶということは実に素晴しいし楽しい、実際狼の中で座禅ができるようになりたい。

もしか仕事を狼と思えば、何が起こっても現実から逃げないで今に集中し対応する事だ。
できるかな今の自分に。

皆さんは「正念」できていますか?

2017年09月07日

三つの鏡

1.自分の鏡(自分で決める自分のモノサシ、体験、知識から生まれた、損得、好き嫌い、善悪)
自分で自分を評価する。

2.他人の鏡(他人が決めるモノサシ、他人が体験、知識から得た損得、好き嫌い、善悪)
他人が自分を物事を評価する。一理あると受け入れる。

3.宇宙の鏡(人間が生かされてる宇宙の法則のモノサシ、春夏秋冬、すべては変化の過程、陰陽)
天(宇宙)が自分を評価する。人間のちっぽけな自我意識が通用しない大きなモノサシで人間は動かされてる。

孫子の兵法に「彼を知り己を知らば百戦危うからずや」というのがある。
私たちが自分の中に築くべきはこの三つの鏡である。
人間の成長段階から言うとこの順番だが、現実に応用するには逆で、一番大事なのは良識というべきモノサシの天の法則である調和を理解する事だ。

宇宙は「大和楽大調和」の力が働いているのである。

私たちが昼働けるのは夜の間にエネルギーを蓄える大調和の装置(体内に組み込まれた)が働き、副交感神経にスイッチを切り換えてくれるのである。
勿論食物を摂取したのちエネルギーに変えるのだ。

ところが、思春期には社会という他人のモノサシが邪魔になって、息苦しくなり、暴れたり不良青年になったりするのも事実だ。

他人の評価を受け入れるようになると社会生活ができるが、これではまだ充分自由自在とは行かない。
いつも他人と比べ劣等感や優越感を持ってしまうのである。

心は不安定で、不安や恐怖がいつも追っかけてくるように苦しいのである。
御釈迦さんが「一切皆苦」と思いなさいと諭すのも理解できる。

他人の評価を受け入れないと不平、不満、愚痴で憂さを晴らすようになるのが普通だ。
(周りの人は迷惑だ)

逆に100%受け入れたら、ピンチはチャンスで、
自分があらゆることで成長する課題が与えられたと考えチャンスでもある。
ここに気付けば生きることが義務感(MAST)でなく期待感(WILL)で楽しめる。

次のモノサシは天のモノサシだ。
人間はこの宇宙の法則の中で生きてることを理解できれば、時間を味方にして成長できる事間違いなしだ。

剣客、山岡鉄舟はあるとき落語家の三遊亭圓朝師匠にこうおっしゃられた。

「近頃の芸人は他人からちやほやされると、すぐそれで名人気取りになる。
そうではなく、芸とはどこまでも自分自身の心に問うていくものだ。
それが本当の名人だ」

剣客として鉄舟は「剣の上でも無敵の境に達した」とおっしゃった。

無敵というのは自分より強いものがいなく「世界で一番」というイメージですが、

そうではなく、「自分の中に敵がいなくなった状態」を言うのだ。

強い敵を恐れる気持ち、弱い敵を侮る気持ちも自分の心が作り出したものだ。
そういう心をなくしていけば敵はいなくなる。
剣は抜かなくてもいい。彼の剣法は「無刀流」というのである。

言い換えると「天人合一」人間としての相対的な世界を越えて、天(宇宙)のモノサシになりきることを意味する。

理屈はわかるが、できるかどうかは別の問題だ。
一心不乱に仕事三昧して体得したいと念願する。

皆さんはこの三つの鏡を作って生きること楽しんでますか?

2017年09月06日

社会に量と質のハイブリッドなモノサシへ進化を望む

役所に行くと手続きすることの書類が増えてる。
第三者が見てわかる証拠を作るようで全く無駄なことをしてるような気がしている。
役所は人権と平等を旗印に逆に自由度がなくなり管理が強化されてるように感じる。

封建社会の身分の差別はいけないと思うが、
数量的で外面的な平等観は天賦の人権を阻害してるような気がする。

「自由で、平等で幸福を求める権利」が明治憲法十三条で保証されてる。
自由も平等も外面だけでなく、多くの体験や学ぶことを通じて内面の精神の成長という観点がほしい。

個々人に差があり、眼に見えないからという理由で、モノサシにはしないのが現代だ。
科学的に証明されないことはダメだ、芸術的な観点を欠落させ無機質な人間を創ってる気がする。
人間の良知を認め人格を受け入れ許しあうことが、本来の個人主義であり、民主主義であろう。

理想論であるのは致し方ない。
何故なら人間の存在そのものが不完全であるからだ。

どんな人も等しく生まれたときに人間の取扱説明書がついていない。
だから、自ら体験と自ら学ぶ中で自分で自分の取扱説明書を作っていくのが生きるというプロセスだ。

死ぬまで完成はされないであろう。
今の体験は今初めて体験する事で、答えは解らないのが事実だ。
しかし、おおよその予想をつけないと、緊張してストレスとなり、体を壊してしまうのも事実だ。

社会のルールは言わば、川に喩えれば堤防のノリ面がルールだ。
人間が水なら、堤防に沿って走るしかない。
もしルールをはみ出せば警察に捕まり刑務所行きだ。

今、働き方改革が叫ばれている。
とても素晴らしい事だ。
従来の行動を変えてよりよい成果を出し智慧を出しあう事だ。
人間だからこそできる業である。

でも一方で、従来の行動が習慣として染み付き、無意識下で仕事していたのが、
行動を変える事で、肉体にストレスがかかり、一時的に緊張状態になるのも事実だ。

人間は意識したものを無意識化でできるようにして、新しい情報を受け入れるようにできてる。
社会の末来を開くなら、習慣化された量のモノサシに質のモノサシをつけるイノベーションが必要だ。

皆さんは仕事や人間を発展させるために、どんなモノサシがいいと考えられますか?

2017年09月04日

人間について

お釈迦とは実に現実を言い当ててる。
人間は「独りうまれ、独り死ぬ、独り去り、独り来る」
これが事実だ。

しかし、「人間世界は愛欲の世界であり」独り生きる存在であるのに、
人間は「愛される」ことに満たされてないと孤独に乾いている存在だ。

だから、殺生、偸盗(不与取)、邪淫,妄語、不飲酒(麻薬、酒におぼれる)が、
愛されないのを満たす行為となり行き過ぎ肉体的にも精神的にも病となるのである。

上記の五つは陽と陰で言うと、自分が行うべき陰の五戒である。
一方、陽の行うべきことは積極的に外に向かって正しい事をする(良心に従う)

これは仏教では「八正道」と言って自分の体と感覚意識を整え、中に保つ教えである。
「我」を「無我」にしないと実践できないのである。
無我にするとはどうする事か?
簡単に言うとコップに角砂糖が入った状態は水と角砂糖は分離してる。

自分の「我」がある。
しかし、コップを掻き混ぜると角砂糖は水に溶けて分離しない状態ができる。
これが「無我」の状態だと考えれるたとえだ。

「愛されたい」「愛したい」という愛欲に惑わされ突き動かされるのが人間だ。
そこに喜怒哀楽のドラマが展開するから実に面白いのである。

御釈迦さんは「独り」という現実と「知識」についても感覚のよって得たものを知識の根拠とせよ。
ということを「梵網経」でおっしゃっている。
その知識以外はすべて「妄想」であり、天国も神もないと断言されている。
実にリアリストであるのが仏教だ。

西洋では「愛」は「博愛」にまで高められ賛美されるが、
仏教は「愛」は「渇愛」と言って苦しみの根源と解されているのである。
随分見方が違うように感じる。

お釈迦は現実に裏打ちされた感覚から得た知識は「苦から解放」することができると諭す。
人間は、「独り」を自覚し、現実から離れた「妄想」を一刀両断することを学べば良い。

「知行合一」は陽明学で言われ、致良知に現実を如実知見して今に行動することだ。

皆さんは人間について仏教的ものの見方如何思いますか?